そして生まれる『もの』-04(179)
「彗?」
強気な言葉とは裏腹に、彗の顔に浮かんだ笑みに嫌な予感を覚えて、恭の唇から小さな声が洩れる。
「もしかして彗、もう限界なんじゃ……」
最も心を許し合った仲間同士が本気で争う、そんな戦い方は間違っていると一番理解している筈の立場にいる二人が、何故ここまで互いの主張を譲らないのか。
滑り落ちた雫が描く、紅い大きな水溜りと、度重なる彗の攻撃に全体を削り取られ、当初よりは随分と小さくなった蔦の集りを、恭は凝視する。
ゆるゆると前後左右に蠢くそれは、まるで互いの出方を窺っているように思えた。
緊迫が色濃く流れる中で、気付かれぬようにそっとつがえる、二本の矢。
安定しない力を遣いすぎた為だろう、生み出せる矢は恐らくこれが最後になると、訪れた眩暈に教えられて、恭は軽く眼を眇めた。
「最後か……だったらこの矢は絶対に外せない」
冷たい仮面を装って、遙の下へ皓を行かせた彗の為に。 そして何より、こんな結果は望んでいないであろう斎の為に。
「俺が、止めてみせる」
微動だにしない睨み合いに飽きたのか、蔦が焦れたように巨体を左右にくねらせる。
抵抗を続ける獲物に対し、既に捕獲を諦めた蔦は全身を細く尖らせ、不規則な動きに回転を加えると禍々しい鎌首を立ち上げた。
「……ああ。決着をつけようぜ、斎」
そう低く呟いて。最後の蔦を焼き尽くす為に、彗は残った力の全てを我が掌に込める。
鋼の筋肉に覆われた全身から陽炎のように揺らめき立ち昇る力は、眩い光と灼熱を纏い、瞬く間に右手に握った剣を白き焔で染め上げた。
互いが互いの領域に踏み出したのは、殆ど同時だったように、恭には見受けられた。
延びた鎌首が繰り出す予想以上に素早い動きを空でかわして、翼をまとった彗の渾身の一撃が天高くから降り下ろされる。
バシィィッ!
爆音と共に触れた先から燃え広がる焔は、焼くというよりは熔かす勢いで、熱さに悶える蔦全体を翔け上がり舐め尽くした。
「やった……か?」
あらゆる箇所を金色の焔に覆われて、蔦が不気味な音を立てながら滅していく様子を、見届けた彗が、崩れるように廊下に膝をつき、息を吐く。
流れた大量の血液に、もはや顔を上げる気力すら失って、無意味に繰り返す浅い呼吸。
知らず手から離れた長剣は乾いた音を立てて床に転がった末に、形を保持出来ずその場から消え失せた。
「……」
乱れた息を整える事も出来ず、硬質の白い床で踊る焔の影を、半ば掠れた眼で追っていた彗の口からひゅっという短い音が洩れる。
歯を食い縛り、上げた視線の先で確認する、決して消える事のない業火が急速に衰えていく様――
「そんな馬鹿な……」
自ら描いた血溜まりに手を取られ、ぐらりと歪んだ視界に映る、緑の凶器。 押し迫る先端を認めて彗は眼を閉じた。
「まだだ彗! 諦めちゃいけない!」
蔦の攻撃を受け入れるように眼を閉じた彗に、呼びかけるのももどかしく恭は矢を放つ。
だが焦り過ぎたのか、こんな時に限って的を違えた矢は在らぬ方向に飛び、蔦を掠りもせずに行き過ぎる。
「なんでっ!? 頼むから当たって!」
悲鳴に近い叫びと共に、引き絞る最後の矢に託す、かけがえのない仲間の生命。 震える腕に、文字通り全力をかけて矢を放つ瞬間――
突如ふわりと舞い降りた、遙の気配。 同時に右手に伝わった確かな『力』は、彗に迫った蔦の中心部を迷う事なく打ち抜き、壁へと繋ぎ止めた。
「遙……ちゃん?」
絶対に切れない、そう教えられた斎の巨大な蔦が、放った矢の何倍も大きな範囲に暗い穴を開け、壁際で焦れたように抵抗を繰り返す。
僅か一本の矢に穿たれだけで動きが取れない状態に、思い知る遙の『力』の関与――
「まさか……まさか遙ちゃん、最初から全部知ってて――」
疑いたくはない。けれど偶然では済まされない遙の干渉に、恭の瞳に僅かな陰りが宿る。
下げた視界を占める、廊下に拡がった血の色と、それ以上に傷ついたであろう彗の精神に。 全てを承知の上ならば、何故早く終止符を打たなかったのかと、叫ぶ意識を強引に捩じ伏せて、搾り出す極限の想い。
「っ! それでも俺は……俺は遙ちゃんや斎を信じている」
遙も、斎も。何の理由もなく仲間を試すような事は絶対にしない。
他の人間とは違い、広く長い期間で物事を捉える二人には、今回の件はどうしても必要な事象だったのだろう。
腹の底から押し出すように吐き出した、嘘も偽りも無い純粋な気持ちに深く息を吐いて。
返る答えを期待せずに呟く、独り言に近い遙への問いかけ。
「きっと何か俺達の行動に、とても大切な意味があったんだよね?」
バサッ! 突然間近で発生した奇怪な音に驚いて、走らせた視線の先に見えた一条の光。
幹に深く穿たれた穴の内部から突然溢れ出した眩い光は、サラサラとまるで砂のように蔦を脆い物に変質させ、上端から形を失い始め、崩れ落ちていく。
「蔦が……」
巨木から流れた光は絡まり有った蔦や木々の上を縦横無尽に走り抜け、余す事なく全体を撫で上げると、床に残った蠢く存在を瞬く間に消し去り始めた。
「ねぇ遙ちゃん。……だとしたら、遙ちゃんはいったい何を見てたの?」
全てを見通す者であるはずの遙が、ただの傍観者に徹した理由は、いったい――?
想像すらつかない大きな『何か』が水面下で動き出している予感に、身震いと同時に気付く最悪の結果。
出した結論に走る震えを堪えて、恭は誰も居ない無機質な空に質問を重ねた。
「……ううん、違う。正確には誰を……どっちの様子を見ていたの?」
本当に観察したかった人物は、果たして斎なのか、皓なのか。 どのみち対象外だと知れて、恭の声に知らず苦い色が混じる。
「遙ちゃんの目的は、俺や彗じゃない。だから罠はもう必要ないんだよね」
抵抗虚しく消えゆく蔦の残滓は、否定された自らの存在を表わしたようで、恭は少しだけ唇を噛んだ。
「まぁどれだけ聞いても、遙ちゃんは絶対に教えてはくれないんだろうけどねー」
誰に対してでも、必要以上の説明をしようとしない遙は、結局全ての重荷を一人で背負い切るつもりなのだろう。
差し伸べた手をあくまでも取ろうとしないのは、頼れないのか、それとも頼りにならないからなのか。
全ての迷いを吹っ切る様に握り締めた拳に、だが揺れる感情は色を落として、掌を白く染める。
「けど。……ねぇ遙ちゃん、知ってる?」
――聞こえても、聞こえなくても。必要とされても、されなくても。 伝えたい確かな想いは、こんなにも沢山、胸に溢れている。
「俺も、皓も……。俺達の両手はね、ただ遙ちゃんを抱き締める為だけに、あるんだよ」
逃げ道を自らの手で断ってしまう遙を包み込む為に、この両手は存在するのだと優しく微笑んで。
「俺達はどんな時だって、遙ちゃんの味方だから」
滅多に見せる事のない甘えや弱さも、時に冷酷に思える口調や仕草さえも。 いつだって、迷う事なく遙を信じている。
「それだけは絶対に忘れて欲しくないんだー」と呟いて。
ただの床に戻った廊下を足早に駆けながら、恭は倒れた彗の下へと向かった。