新たな流れ-08(175)
「畜生っ! ここまでか!」
後少しの距離なのに、どうしてここから一歩も動く事が出来ない! 圧倒的な斎の力を前に、遙から与えられた力の意味はあるのか。
力の限り握りしめた拳と、ぎりりと噛み締める奥歯の音に混じって、聞こえる恭の声――
「皓っ避けて!」
「恭?」
叫び声とほとんど時を同じくして、一斉に放たれた矢は皓の身体をすり抜け、吸い込まれるように巨木と化した蔦へ向かう。
休む間も無く降り注ぐ大量の矢は、だがどれも中心を射抜くまでには至らず、巨大な蔦を僅かに解く程度に終わった。
「なんでっっ! 俺の攻撃が効かない?」
廊下の天井すれすれまで立ち上がった凶器の中に、呑み込まれる矢はたちどころに形を失い、傷一つ付ける事なく消滅してしまう。
恭が放った渾身の波状攻撃に対し、蔦は馬鹿にしたようにぶるりと枝一つを震わせて、罠を操る者の格の違いを見せつけた。
「どんなに優れた申し子であろうと、卵には絶対に勝てはしない」 いつか講義で説いた、斎の言葉。
誇示するかのように立ち塞がる強大な力に、目の当たりにして初めて思い知る、歴然とした力の違い。
「これが……これが斎と俺達の力の差だって言うのか……」
誕生する前から神に祝福されし生粋の神子と、ただの人間で在った身の違いは、こんなにも大きな隔たりが有るものなのか。
相変わらず皓の眼には何も見えはしない。 けれど感じる、先程とは比べようがない大きな力。
一点へと凝結された力が明確な意思を持って、哀れな生贄が罠にかかる瞬間を待ち侘びている――そんな疑似的な感覚が皓を襲って、迂闊に動けない。
事実成長した蔦は目の前にいる皓を直ちに襲う事もせず、鎌首をもたげ、まるで襲う相手を選別するかのように、ゆっくりと左右に揺れているだけだった。
『くっ……どうすればいい?』
立ち塞がる凶器が攻撃をしかけて来ないのは、こちらの動きを誘う罠か、それとも――?
判断がつかず緊迫と苛立ちが深まる中、皓がたまらずその場から動こうとした瞬間、彗が鋭い警告を発した。
「駄目だ動くな皓! 捕らえられたら最後だ、斎の蔦は絶対に切れない!」
「彗?!」
「いいか二人ともよく聞け。斎の得物は動くものは何であれ、必ず絡め取る。無闇に動くと最悪の場合、拘束の際に生命に関わる深手を負う可能性が有る」
「なら俺はどうすればいい!」
恭の力はおろか、彗の力さえ通じない、屋敷で髄一の強さを誇る斎の真の実力。
明らかな力の差に、けれど打てる手立ては何もないと、このまま諦めたくはない。
「無理だ皓、この場合は諦めて斎に従うしか方法はない」
「そんなっ!」
「お前達の気持ちも解るが、ただの謹慎処分ならいずれ自由の身になる。それまで我慢しろ!」
本来は脱走防止用の罠に過ぎない為、部屋へと戻ると宣言さえすれば、凶器は元の姿に戻るよう設定されている筈だ。
仕掛けた理由に納得いかない点は多いが、皓や恭が怪我をしてまで遙の下へ行く必要はない。
仲間が傷付く事を誰も望んではいない、と怒鳴る彗に反して、皓の口から零れた言葉は驚くほど静かだった。
「俺達の自由はどうでもいい。……斎の真意も知った事じゃねぇ」
動かない凶器の気配を捉えたまま、正面の彗を見据え、どこか宣言のような調子で、皓が呟く。
「俺達は遙が助けを呼ぶ以上、どこにいても、どんな事をしていても必ず駆けつけると誓った。……だから遙に嘘をつくわけにはいかねぇ」
「! だったら尚更止せ。遙なら大丈夫だ。お前達が考えるほど遙は弱く――」
「いや」
「弱いんだよ、遙ちゃんは」
皓の声に重なって、並みの聴力では聞こえない距離にいる恭の囁きが、彗の言葉を遮った。
他人と争うのを嫌い、明確な意思表示をいつも避けていた恭が、臆する事なく見せた強い瞳に、返す言葉は生まれない。
互いに譲れない想いをかけた無言の睨み合いの果てに、交えた視線を先に逸らしたのは、彗だった。
「ちっ! 馬鹿な弟子どもを持つと手間がかかる」
「彗?」
いつもの尊大な口調に、ほんの少しの優しさを漂わせながら。 大げさ過ぎる溜息を一つ吐き出してから、彗は壁からのそりと身体を離す。
「先に言っとくが、俺を頼りにするなよ?」
普段と変わらぬ態度に、嫌味なくらい自信に溢れた笑みを刻みながら、彗が再び顕現させた長剣を構え直す。
それでも上半身から僅かに遅れた肩の動きに、意図を正確に読み取った皓が眉根を寄せた。
「彗、けどお前肩が――」
「ほぉ皓、お前いったい、いつの間に俺にそんな生意気な口を聞ける身分になったんだ? いいか。弟子は弟子らしく、黙って師匠の言う事を聞け」
じくじくと未だに血が滲む傷口を衣を裂いた布で固く縛りながら、こんなのは掠り傷だと彗がうそぶく。
「……」
「解ったか。俺の事を心配する暇があるなら、お前は少しでも先に進む事を考えろ」
「ああ」
廊下に仕掛けられた罠は、周囲の蔦が寄り集まり巨大化した分、その範囲を自ら狭め、縮めている。 後ほんの少しの距離を走れば、どうにか抜け切れる事が出来るだろうと、彗は告げた。