新たな流れ-06(173)
『壁には何もない。だったら床の蔦を誘き寄せて壁に繋ぎ止めてみるのも、有効かも知れない』
力には、力を。 脳裏に確かな矢の行き先を思い描いてから、精神の深い集中を試みる。
閉じた瞼のずっと奥。 指先から腕を滑り、胸を潜り、両足を駆け抜け、また胸へと還る力。
魂の奥深くに眠る熱き力の奔流を、いま内から外へ。 形すらない『無』から、強い意思の力で、『有』なる武器を創り出す。
「例えどこに敵がいても、必ず命中すると思い込め」
長年に亘って、何度も身体に叩き込まれた力の遣い方。 掌に存在する具現化した武器は、創りだした恭の『力』そのもの。
眼に見える形に囚われず、狙ったものを必ず射貫くと信じれば、どんな場所にあろうと、矢は決して的を外す事はない。
「力と力のぶつかり合いでは、結局は意志の強い人間が勝つ……だったよね、彗」
斎が仕掛けたこの大舞台に、与り知らない意図が有ったとしても、ここで諦める訳にはいかない。
「斎には斎の考えがあるんだろうけど、俺達にだって、譲れない理由はちゃんとあるんだ」
計算された完璧な笑顔の下で、「私は強いから」と自らに言い聞かせ続けてきた遙。
孤独の内に抱えた重さは計り知れず、震える華奢な姿態に、どんな事をしても絶対に守ると誓った。
「約束……したんだ。遙ちゃんが俺達を呼ぶ限り、俺達は必ず駆けつけてみせるって。だから」
――悪いけど、邪魔はさせない。
「待っててね、遙ちゃん」
狙うは地面に蔓延った全ての蔦の誘導。 一度につがえる数多の矢は、どれ一つとして皓には当たらないと、強く映像を刻みながら眼を開けて。
恭は囁くように小声で目的を告げた。
「皓、俺じゃなく彗の方を見て。それと脇の力をなるべく抜いて、腕を出来るだけ身体から離してくれる?」
「これでいいか?」
指示通り、ごく自然な動きを装って、皓が私室から廊下側に身体を向け、恭に背をさらす。
力なく垂らされた腕と、腰との間に出来た僅かな空間を見つめながら、恭は言葉を重ねた。
「皓は俺の『力』は、見えるんだよね?」
「ああ、大丈夫だ」
「良く聞いてね。これから俺は複数の矢を放って、蔦の注意をさらう」
「……矢を俺の身体からギリギリの位置で通すんだな?」
少ない言葉数でも、皓には恭の考えが解ったのだろう。
突拍子もない恭の作戦に、しかし後ろを振り返ることもなく、皓は前だけを見つめて、平然と言葉を返した。
「うん」
「だが斎が蔦を操っている可能性は無いのか? 直に操っているなら、騙すのは難しいぞ」
単純に問い返しただけなのか、それとも皓も同じ事を薄々感じているのか。
確信が取れない事は明かすべきではないと考え、恭は曖昧な物言いで明言を避けた。
「もし関与しているとしても、斎は何らかの定義に従って、蔦を瞬間的に操っているだけだと思うんだ」
規則正しい動きの中に見られる、ほんの僅かなズレ。
斎に遠隔操作が可能かどうかは不明だが、常に支配権を握っていないからこそ、生じる時間差に違いない。
「じゃあそれ以外の時は、罠が予め決められた動作を、ただ単純に繰り返しているだけって事か?」
「うん多分。だから試してみる価値は有ると思うんだー」
蔦は動くものに敏感に反応する。
罠の反射的な動きを利用し、皓とは逆方向に誘き寄せ、斎が制御するまでの僅かな時間に、廊下を一気に駆け抜けてしまえばいい。
「皓が動いたと蔦に勘違いさせる為には、この方法しかないと思うから」
脇の下を。あるいは足の間を。 一斉に通す矢が皓の身代わりとなり、罠を惑わせ誘導する。
「解った。なら俺は恭の矢とは逆に走ればいいんだな」
「でも実は、問題が一つ有るんだけど」
皓の身体ぎりぎりの位置から、大量の矢を正確に放つ。 そんな無謀な事が果たして出来るのか、どうか。
決して皓を傷つけないと強く胸に刻んだものの、いままで試した事のない状況に、襲う不安は隠せない。
「――恭、お前は俺を信じているんだろう?」
「えっ?」
返された的外れな答えに、恭は一瞬考えてから、皓の言わんとしている事を理解する。
皓を信頼していないわけではなく、問題となる点は弓を扱う側の技量なのだ、と言い直そうとした台詞は、先に皓へ奪われた。
「心配しなくても俺はそんなに鈍くはねぇ。だからお前の矢が間違っても俺を射る事はない」
「皓……」
「大丈夫だ。俺を信じろ」
前を向いたまま、淡々と必要な言葉だけを紡ぐ、普段と同じで愛想の欠片もない喋り方。 けれど確かに通じている、想い。
向けられた背中は、震える臆病な魂に、こんなにも勇気を与えてくれる。
――俺、自分自身は信じられないけれど、皓の事なら信じられるから――
過ぎ去った遠い日。 一方的に恭が放った言葉を、皓が現在も覚えていてくれた事が嬉しくて。
「恭?」
込み上げる熱い何かに、不覚にも胸が詰まって、上手く会話が交わせない。
どうしたと不審な気配を抱える皓に、仕方なく泣き笑いのような表情で、恭は懸命に言葉を搾り出した。
「……本っ当にどうしょうもない自信家なんだから、皓は」
「ああ、そうだな。解ったら早くやれ」
微かに優しい響が混じる声に、気付かないフリを装って。 目標を見据え、引き絞る恭の腕に最早迷いは存在しない。
「行くよ皓……」
「おうっ!」