新たな流れ-01(168)
逡巡した末に手をかけた、遙の私室への扉。 その扉が開き切る前に中から声が放たれ、彗はその場に立ち止まる。
「長身のお前が廊下で悩むと、目立って困る。早く入れ」
「遙」
「それから……別に泣いてなどいないぞ、私は」
室内に招き入れながらも、開口一番否定の言葉を口に乗せられて、彗は言葉を失った。
「遙……」
慰めの言葉をかける前に拒絶されては、それ以上の干渉は難しい。
深く傷ついた精神を、少しでも分かち合う為に伸ばしたはずの掌は、行きつく先を見失い、虚しく空を握る。
助ける為に差し出された掌を、遙自身が進んで断つ必要は一体どこに有るのか。
見慣れぬ黒い髪に縁取られた遙の顔からは、何の感情も窺えず、彗は途方にくれる。
現場に辿り着けなかった彗には、詳細な顛末が解らない。 傍らに斎がついていながら、何故遙が赤子を救う事が出来なかったのかも。
「遙……いったい何があった?」
「別に何も」
話したくないのか、あるいは話す必要がないと感じているのか。 視線すら合わそうとしない遙からは何も読み取れず、彗は深い溜め息を胸中に落とした。
数ある選択肢の中から、最悪の結果を選び取ったのは人間で有り、遙の責ではない。 導く者は、あくまでも道を示すだけであって、結果を操り、支配する訳ではないのだから。
だが胸中に湧く想いを、彗がいくら言葉にして説き伏せたところで、所詮遙は納得しないに違いない。
『遙……』
何をどう告げて良いのか、どうしたら遙の頑なな心を解せるのか。
思考はまとまりをみせず、流れる重い沈黙だけが、二人の時間を刻んで行き過ぎる。
漂う気まずい空気に、結局かけられる言葉を何一つ思い浮かべられないまま、彗は遙の私室を辞す為に背を向けた。
「彗」
廊下へと通じる扉に手を触れた瞬間、躊躇いがちにかけられた遙の呼びかけ。
通常の聴力では聞き取れないほどの小さな声を正確に拾って、彗の流れが止まる。
反射的に振り返ろうとした動きを全力で押し留めると、彗はいかにも興味がない様子で肩を竦め、背中越しに続きを促した。
「何だ?」
「……例の赤子は私が喰った」
「そうか」
わずかに震えた言葉に気付かないフリを装って、彗は前を向いたまま平然と言葉を返す。
「……ねぇ彗」
唇を噛み締めているであろう遙を、振り向いて抱き締める事は容易い。
不安に揺れる瞳を受け止め、限界まで追い詰められた遙の精神をこの胸で存分に癒してやりたいと、心から切に願う。
――だが。
背を向けるまで遙は、真の感情を見せようとはしなかった。 それは即ち彗に寄りかかる事を良し、としないからだ。
『俺では……駄目なんだな』
無意識に握り締めた掌は硬く。
甘受しなければならない立場は余りに残酷な色を纏うが、慰める立場は、どうやら違う者に譲る必要がある――
「――遙、用がないなら俺はもう行くが」
弱さを曝け出した事を恥じたのか、それとも拒絶されたと感じたのか。
いつもとは違う、必要以上に冷酷な響きを伴った彗の言葉に、遙はかすかな身動ぎをした後、静かに返答を乗せた。
「あぁ。……引き止めて済まなかったね彗」
酷く沈んだ声音に、互いに秘めた想いが痛い。 細い身体を抱き締めたい衝動が全身を襲うが、彗は一度も振り返る事なく遙の部屋を後にした。
無機質な色合いを見せる廊下で、喉元まで込み上げる苦い感情を、迷わず手近な壁にぶつける。
結界に守られた、堅固な障壁が上げる悲鳴に紛らわせ、吐き出す想い。
「わざわざ違う男を呼び寄せるとは……我ながら損な性分だ」
それでも遙が笑うなら構わないと、彗は脳裏に浮かんだ人間を遙の下へ招くべく、彼らの私室へと足を向けた。
「さて何といって呼び寄せるか」
渦巻く内なる感情を、知らせる必要はない。 皓と恭に悟られないように、出来る限り能面に近い表情を彗は心がける。
屋敷に到着すると同時に、斎から規則違反の二人へと告げられた、当然ともいえる待機処分。
「正式な沙汰が下るまで、お前達を自室待機とする」
「斎!」
抗弁に耳を貸さず、一方的に謹慎を命じられた彼らを呼び出す為には、それ相応の理由が必要だろう。
『問題は見張りの数だな』
用心深い斎の事だから、必ず二人の部屋に見張りの者を立てているに違いない。
『斎の命は遙の次に絶対だからな。……まぁ見張りを上手く説得できなければ、強硬手段も止むを得ないか』
物騒な言葉とは裏腹に、どこか楽しそうな表情を浮かべながら、実力行使も視野に入れて、彗は仲間の気配を探る為に、遠方から耳を欹てる。
「?」
どんなに距離があっても、例え僅かな息遣いでも、彗の耳に捉えられない音はない。 ――が。
物音一つしない事態に、嫌な予感を読み取って、彗は隠れるのを止めると廊下を直角に曲がり、扉までの距離を一気に詰めた。
二人の私室の扉前。 長い直線の廊下を目にした途端、彗の動きが弾かれたように止まる。
速度を殺し切れず踏み出した一歩と、瞬時に掌に顕現させた彗の得物が、鎌のように着地すべき地面を薙ぎ払うのは、殆ど同時だった。
「ちっ! 斎の仕業か!」
床一面に張り巡らされた、光る白い蔦。 網の目よりも細かい無数の蔦が、捉え損ねた彗の足を求めて、揺ら揺らと膝丈まで立ち上がり、不気味に蠢く。
薙いだ筈の地面は数秒と置かぬ間に元の形状を取り戻し、周囲の蔦と交わるようにして、欠損部分を端から補い始めていた。
「……馬鹿な。何故ここまでする必要がある、斎」
一度絡まると、斎の蔦は絶対に切れない。 抵抗は更なる拘束を生み、場合によっては尖った茎で、動く邪魔な四肢を串刺しにされる可能性も有る。
だが蔦の特性を知らない皓と恭が捕縛された場合、恐怖感から出る抵抗は必死だ。 そしてそんな当たり前の事を、斎が考慮しなかったとは思えない。
『生命に危険がない限り、多少の怪我は構わないと言うことか!』
平然と残忍な術を施した斎に、叫びたい衝動を喉の奥でぐっと堪え、低く唸ることで怒りを遣り過ごす。
冷静な判断を下すには、怒りを抱えていては始まらないと、彗は大きく息を吐きだすと、静かに地面を見つめた。
罠は直線廊下の末端に位置する彼らの私室前から、廊下の中程までの範囲に仕掛けられており、単独での脱出は事実上不可能に近いだろう。
『斎。お前がそこまでして、皓達を遙に逢わせたくない理由は何だ』
埋まらない欠片に答えは見えず、斎の真意も読み取れない。
何かが大きく動き始める予兆に、関与出来ない立場に置かれた事を知らされるが、傍観者に徹する気はさらさらない。
「隠したいなら、せいぜい隠せばいい。俺が暴けばいい事だ」
何も恐れはしないと、普段通りの尊大な笑みを唇に刻むと、彗は対策を練る為に思考を切替えた。