おかれた立場と、責任と-06(167)
――辛くはないか、遙?――
別れ際にかけられた斎の言葉が、屋敷へ戻ってもなお耳に残って、遙は唇を噛み締める。
優しい言葉は、時に酷く煩わしい。 何もかもが自由を拘束する枷となり、荒れた想いは胸に燻り続ける。
「私が辛いだと? お前達は直ぐにそう言うが、本当に辛い立場にいたのは、この赤子だよ」
眼の前には小さな冷たい亡骸。 一番辛かったのは、何も知らないこの赤子に他ならない。
手順を踏まずに捧げられた贄。 周到に絡み合った事象は、赤子の魂さえも咥え込み、容易に解放が出来ない。
「哀れな死せる魂よ。我が名を以って、繋ぎとめる肉体の呪縛から、いざ解き放たん。我が名は――」
何度唱えても意味のない言の葉を、時間の無駄だと知りながら、それでも遙は繰り返す。
赤子の家族のように、単に生命を奪われただけなら、魂の浄化は簡潔に行なえたのだろう。
だが生贄として位置付けられた身体は、役割を果たすまで、魂を内に捉えて離さない。
「捧げられた魂を救うには、その身を喰らうしかないと言う事か、來……」
赤子の魂を解放する為には、どうあっても贄としての役割を成就させる他に術はない。
一方的に科せられた契約に縛られて、浄化すら出来ない魂を前に、後悔は津波のように押し寄せる。
「恵まれた立場にある遙さまに、ワシは聞きたい! ワシらのどこがいったい間違っていると言うのじゃ!」
村長の血を吐くような問いに、遙が何も言い返せなかったのは事実だ。
どれだけ数多の年月を経ても、何が正しくて何が間違った事なのか、下す判断は難しい。
村長が取った行動も、來が示した選択も、決して間違いではないのだ。
誰かを救いたい時に、限られた範囲や時間の中では、縋る全員を助ける事など、絶対に出来るはずもない。
『だが私がもっと早くあの場に辿り着いていれば、誰も傷付かずにすんだのではないか?』
仮定に過ぎない事は、誰よりも理解している。 赤子の未来が遙に予見出来なかったのも、契約を結べなかった証に相違ない。
しかし到着が早ければ、あるいは違った未来が存在したかも知れないと考える胸は、酷く痛い。
「生贄など……望んだ事は一度もないのにね」
微かに震える唇から、漏れる吐息は自然と嘆きの色へ。 遠い昔、生命を無駄にするなと差し延べた、この掌がいけなかったのか。
誤解を生んだ悪しき風習は、未だに遙を苦しめる。
「誰かの生命と引換に、何の努力も無しに叶う願いなど、何処にも有る筈はないだろうに」
だがきっと誰もが、一刻も早くこの苦境から救われたいと、切に願ってしまうのだろう。
遙の眼に『願い』が留まって『奇蹟』を起こして貰えるのなら、その為には何を犠牲にしても構わないとさえ、考える――
「……何と浅はかな……けれど」
愛すべき家族を、共に過ごす仲間を。
互いを想う心の歯車が、ほんの少しすれ違っただけで悲劇は芽生えるが、大切な誰かを、譲れない何かを、純粋に守りたいと願う心は、人が等しく持ち得る当然の心理で有って、間違いではないのだ。
だからこそ、來に翻弄された村長も、罪の無い一家を殺めた村人達も、誰も悪い訳ではない。
――誰も責めるわけにはいかない。
正すべきは、判断を間違えた遙自身。 最善だと考えていた道が、思わぬ犠牲を生んだに違いない。
「……私はどうして、斎や彗を喰べなかったのだろうな」
來が強硬手段に走る前に、何故卵達から僅かにでも力を摂取しようとしなかったのか?
彼らは何の躊躇もなく、その身を差し出していたというのに。
「愚かな私が拒み続けた結果、罪のない赤子が犠牲になった」
――少量ずつ均等に摂取していれば、誰も犠牲にならずに済んだ出来事を、私は――
「私は……」
吐き出したい感情は、有るべき立場の前に喉を塞ぎ、劈くような悲鳴を上げさせてもくれない。
いっそ哀しみに流されてしまえば楽になれるのかも知れないが、果たすべき責任は重く、感傷に浸っている暇も無い。
「……仕方ないね」
小さな骸を抱き上げて。 飢えを誘う甘い匂いに、見開いた遙の瞳は、血のように紅い。
『――赦せ』
身体へと落とす唇ではなく、胸中でそっと遙は呟いた。
「お逝き……在るべき場所へ」
先の家族と同様に、赤子の魂を空へと還す。 白く輝く無垢な魂は、二、三度名残惜しそうに空を旋回した後、正しき世界へと旅立った。
微かに滲んだ視界を、見上げた眩い空の所為にして、遙は固く眼を閉じる。
「……ねぇ來、お前は本当に人間を導いただけで、何も関与していないのかい?」
閉じた暗闇に浮かぶ、鮮やかな銀の髪。 結果は何もかも、彼の望んだ方向に向かわなかったか?
「來、私は出来ればお前を信じたい。……が」
――貴女を生かす為なら、私はどんなことでも厭わない――
「どうしてだ來? お前自身が生きる事に妄執する様は理解も出来よう。だが何故お前は私まで執拗に生かそうとする?」
もはや船はこの先どれだけ時を隔てようとも、修復不可能だ。
故郷に帰れず、たった独りで地上に取り残されるのがそんなに寂しいのなら、いっそ共に滅びてあげるのに。
緩慢な飢えに支配されながら、迎える最期の瞬間に、傍にいて手を握るくらいなら、いつでも容易く出来る――
「私は別にそれでも構わないのだけれど」
――けれど來。お前の真の望みは、多分私には計り知れない場所にあるに違いないのだろうけどね――