おかれた立場と、責任と-05(166)
「どうした斎?」
取り成すように近寄る彗の姿さえ眼に映らないのか、斎はただひたすら皓を見つめる。
その視線の強さに違和感を覚えながらも、取り敢えず何か言葉を返そうとした皓を、後ろ手で制した彗が、斎へと向かって更に歩を刻む。
眼にする斎の姿は、普段と少しも変わらないように皓には思えたが、彗の背中から立ち昇る緊張感が、冗談では済まされない何かを訴えていた。
『……いったい何が?』
「答えられないのか、皓」
黙ってこちらを見つめるだけで、何も言葉を返そうともしない皓に、斎は募る苛立ちを抑えきれない。
醜く捩れ、ぐにゃりと白黒に歪んだ視界が、酷く煩わしい。 己が発した声にも関わらず、他人事のように聞こえる声も妙に神経に障って、斎は軽く眼を眇めた。
限られた視界に伴って、闇に狭窄される光が、呑まれてはいけないと斎に懸命に訴える。
鳴り止まぬ警鐘を前に、残った僅かな理性は抗うが、一度芽生えた激情に歯止めは効かない。
「それとも答える気がないのなら――」
「馬鹿しっかりしろ、斎!」
不意に横合いから、揺さぶるように強く肩を捉まれて。
流した視線を捉えるように深く覗き込んできた、彗の瞳。
白黒の視界に映った彼の瞳の色をぼんやりと思い出した瞬間、取り戻す鮮やかな色の世界に、堪らず眩暈がする。
「どうした」と間近で問われて始めて気付く愚かさは、起こした不自然な行動を斎自身に把握させるには、充分だった。
「斎……お前いったい……」
現実に戻った意識が捉える、驚愕の表情を隠す事なく浮かべた、皓と恭の姿。
いつの間にか、顕現させた武器を手に見つめる彗の視線を感じて、斎は負に彩られた眼を僅かに伏せた。
『俺は……俺はどうして己の感情を律する事が出来ない?』
遙の声が皓にも聞こえたのだと知った瞬間、身を焦がすような嫉妬に包まれた。
置かれた立場も責任も。 皓が仲間である事実さえ、痛みを伴う憎しみが、一瞬で凌駕して。
『頼む斎! 己を見失うな!』
血を吐くような彗の強い心の叫びがなければ、斎は感情の赴くまま、皓を手にかけたに違いない。
『俺は……俺は病んでいるのか?』
精神の奥深いどこかが、気付かないうちに闇に蝕まれ、少しずつ狂い出していると言うのだろうか?
狂気と正気の境目は曖昧で脆く、確かに掴んでいたはずの現実は、いつしか砂のように崩れ、掌から零れ始めている。
「皓を――まだ幼い仲間を導くのが、斎が任された役割だろう!」
闇と光の狭間で激しく揺らぐ精神に、重ねて聞こえる彗の呼び掛け。
『頼むから、斎。俺にお前を殺めさせないでくれ!』
脳裏から直接、胸に響く声に、眼に見えぬ彗の深い慟哭を感じて、斎は流れる何かを、強く握り締める。
繋いだ掌に、確かに紡いだ固い絆。 築き上げた信頼と裏腹に募る、苦しいだけの愛情。
甘い悦だけを与える闇と違い、時に酷い手傷を負うが、決して手放してはいけない、大切な――光。
肩を掴む、震える彗の掌に。流れる温かい感情に。 立つべき場所を間違えてはいけない。
「彗……」
至近距離で捉える彗の顔。 まじまじと見つめた顔に、変わらぬ面影を見つけて、斎は微笑む。
『……ああ、俺の後をずっと追ってきた彗に、まだ追い抜かれる訳にはいかない』
赤子の頃から育てた彼に取って、斎は目指す目標そのものだ。 幼子はいつしか最高の親友へと代わり、最大の好敵手として成長しつつある。
『だがそれでもまだ、彗に伝えきれていない事は数多い』
屋敷内の全ての仲間をまとめ上げる立場を、いずれ彼に明け渡すつもりなら、訓練中の皓や恭はもとより、仲間の中ではまだまだ幼い彗を、充分に育成する必要があるだろう。
視界に映る、彗の揺れる菫色の瞳に深く頷いて。 胸に澱んだ何かを追い払うように、斎は腹の底から強く息を吐いた。
「……斎……大丈夫なのか?」
「ああ」
――まだ大丈夫だ。己が完全に狂うまでに、まだ時間は在る――
もはや引き返しが利かない魂は、急激ではないものの、ゆるやかに、けれど確実に闇へと堕ちていくだろう。
『俺はいつか必ず狂う』
俺にお前を殺めさすなと訴えた、彗の言葉。 しかし現在の彗の能力では、まだ斎を殺めるのは不可能に近い。
『……彗、大丈夫だ。俺は決してお前の手を煩わせたりはしないと、改めて誓おう』
遠い昔に交わした互いを屠る誓いは、実際は果たす必要のない責務だと斎は考える。
未来を歩む者に、去り行く者が負担をかける事は、有ってはならない。
冷めた感覚で量る、残された時間。 迫る最期のその日まで、遺せるものを全て後世に渡す責任が、斎にはある。だから。
『すまないが、決着は己が自身でつけさせてもらう』
誰にも明かさない内なる覚悟は、静かに沈んで横たわり、斎は普段の冷静さを取り戻すと、改めて彗に声をかけた。
「気が高ぶっていたようだ、すまないな。……皓も悪かった」
「いや」
戸惑いながらも返事を返す皓に、支配する気不味い空気を払拭するつもりか、彗が斎から離れ、皓に近寄っていく。
間近に迫った彗に対して、微妙に引きつる表情を見せた皓の様子に、斎は命を下した。
「だがやはり皓はお前が運べ。……可愛い不肖の弟子なんだろう?」
「……斎、お前」
「行くぞ」
苦虫を噛み潰したような彗の顔に、微かな笑みを返して、斎は細い恭の腕を取った。