おかれた立場と、責任と-04(165)
「……斎……」
「なんだ?」
思わず呼びかけたものの、斎に何をどう聞けば良いのか解らず、彗は至極曖昧な笑みを頬に刻んだ。
立ち上がることすら忘れ、目の前に差し出された斎の掌を、ただ強く掴んで離せない。
こんな風に頼りなく、全身で縋る姿勢を取るのは、いったい幾百年ぶりの事だろう――
成長するにつれ、いつの間にか追い抜いた斎の背丈。 尻をついた位置から斎を見上げた構図は、遠い日の既視感を胸に生じさせた。
「……? どうした彗、まだどこか痛む場所でもあるのか?」
心配そうに眉根を寄せる斎は、彗が幼い頃から良く知る姿と、何も変わらない。
「いや、何でもない」
「彗?」
言葉数が少ない彗に対し、表情を覗き込もうと身を近付ける仕草も、口の端に浮かぶ困ったような小さな笑いも。
何一つ、彗が持つ記憶と相違する箇所はない。
『何も変わってはいない……俺の知っている斎だ』
一瞬覚えた違和感は、助け出された混乱から来る一時の杞憂に過ぎないのだろう。
遙の気持ちを誰よりも良く知る斎が、遙の意にそわない行動を取る事は、有り得ない。
『俺は何を疑って――』
繋ぎ止めるように強く、斎の掌を必死で握り締めていた指先から、するりと力が抜け落ちる。
自然と離れる互いの掌に、だが胸を掻き乱す不安は騙せず。
未練がましい視線が、重なり合った最後の指を追うのを自覚しながら、彗は言葉を発した。
「……怪我は左腕だけだ。他もやられるほど、俺は弱くはない」
地面にしっかりと手を付いて、全身の節々を確認するように、ゆっくりと起き上がる。
僅かな痺れが体中に残るが、行動に支障を来たす範疇ではない。
再び気遣うように差し出された斎の掌を断って。 彗は自力で立ち上がると、わざと獰猛な笑いを浮かべて見せた。
「なら良いが」
いつもと変わらず、むき出した不遜な彗の態度に、少しだけ安心したのか、斎が微かに眼の端で笑う。
「決して無理はするな」
「……」
幼いころ幾度なく聞いた優しい言葉をそのままに、軽い溜息を織り交ぜてから、斎は更に言葉を繋いだ。
「皓と恭の二人を、俺達で連れて帰る必要が有るのだが……どちらか一方を運べるか?」
「ああ、一人ぐらいなら大丈夫だ」
幸い右腕は無傷だ。 皓や恭の大きさなら、片手で抱えても屋敷まで充分飛べるだろう。
確かにあの長い距離を、飛べない二人に合わせて翔けるよりは、いっそ運んだ方が掛かる負担も少ないと、文句なく斎の提案に頷いて、
「おいお前ら! 特別に俺達が屋敷まで抱えて飛んでやる」
遠巻きに様子を窺っているであろう二人に、早く外へ出て来いと、彗は声を張り上げた。
「!」
声をかけられるのを待っていたのか。 岩穴から、何故か競うような勢いで転がり出た二人が、斎と彗の顔を交互に見比べる。
「本当に俺達を連れて帰ってくれるのか?」
「これも未熟な弟子を持った故の、不幸だからな。仕方ない。せいぜい斎に感謝するんだな」
「ありがてぇ」
いつもの彗の嘲りを取り合おうともせず、皓は素直に感謝を表すと、上空を見上げた。
そして意図的ではなく、恐らく無意識に屋敷の方角へと流された、皓の気忙しい視線。 その後を追うようにして、恭が同様の視線を屋敷へと送る。
「? 二人とも俺の話を聞いているのか?」
「――ああ、恩に着る」
何が気になるのか? 心ここに在らずといった風情で、中空の彼方を見つめたまま、皓が取り敢えずの礼を返すと、彗に訊ねる。
「で俺はどっちと帰れば良いんだ? やっぱ斎か」
「当たり前だろう。俺は恭を連れ帰るから、皓は斎に運んで貰うといい」
言い捨てて恭の腕を取ろうとした彗を、背後からかけられた斎の予想外の言葉が、引き留めた。
「いや彗、皓はお前が運べ」
「斎?!」
「どうして俺が皓を? 第一この馬鹿だって、斎のほうが――」
「いや、早く屋敷へ帰れるなら、俺は誰でも構わねぇ」
冗談半分に喚いた彗の言葉を、皓は最後まで受け取らず静かな口調で遮りをかける。
無駄な会話を打ち切り、一刻も早く帰還したいのだと誇示する皓の態度に、真剣な気持ちを読み取って。
彗はからかうのを止め、皓と改めて向き直った。
「皓、お前何をそんなに焦っている?」
「……別に焦っちゃいねぇが」
歯切れ悪く彗に言葉を濁す皓を、一瞬酷く冷たい斎の視線が絡め取る。
冷静に観察するまでもなく、二人の――特に皓の様子がおかしいのは、到着して直ぐに解った事だった。
皓が屋敷へ流した、気遣うような視線。 普段にもまして落ち着かない態度。 疑問を抱くまでもなく辿り着いた結論は、再び斎の精神を芯から冷やし始めて。
『皓、お前には遙の声が聞こえたのか』
すぐ傍らにいる斎にではなく、まだ不完全な存在の皓に助けを求めた遙。
その心の声は、物理的な距離を超え、聞こえる筈のない皓に、確かに届いたのだ。
『……何故』
互いに繋がり、求めあう精神が紡ぐ絆は、共に過ごした時代の長さを易々と飛び越え、こんなにも過酷な現状を斎に突き付ける。
『何故、己では――』
固く握りしめた拳は震え、気付けば強く噛み締めた唇から洩れた、酷く耳障りな音程の掠れた声。
「……皓、お前は何故、そんなに屋敷へ帰る事を急く?」
「斎?」
果てなく続く彗と皓の慣れ合いを、傍観するように黙していた斎から、突然かけられた言葉。
与えられた命令を破ったとは言え、愛想の欠片もない、いやむしろ憎しみさえ感じられる口調に驚いて、それぞれ全員が斎を注視する。
「答えろ、皓」