おかれた立場と、責任と-03(164)←修正済
「くっそー彗の野郎!」
「何度やっても無理だって、皓。多分彗は何か特別な力を使ったんだと思う」
いくら皓と恭の身体が子供だからとは言え、二人がかりで押して動かない筈はない。
先程からどれだけ力を加えても微動だにしない彗の背中は、周りを囲む岩と同じ様な固さで、皓と恭の行動を阻んでいた。
「なら、どうすりゃいい?」
苛立った感情そのままに、皓が彗の背中を、強く睨み付ける。
「……どうしたの皓?」
打てる手立てがない以上、彗が意識を取り戻すまで待つしかないのだ。 そんな単純な事が理解出来ない皓ではないだろうと、恭が問いを重ねる。
「皓は何をそんなに焦ってるのかな?」
「……」
皓から感じる、必要以上の焦燥感。 自由を奪われた悔しさではなく、何か別の理由がありそうで、恭は皓を見つめた。
「皓?」
諭すような声音に、皓が大きな溜息をつくと、「確信はねぇんだが」と、ぼそりと呟く。
いつもの態度とは違い、珍しく歯切れの悪い口調に疑問を感じながらも、恭は先を促した。
「うん?」
「声が……遙の声が聞こえた気がした」
泣きたくなるほど切ない感情とともに、確かに聞こえた、皓の名を呼ぶ小さな声。
感情の起伏を滅多に見せない遙の、必死で救いを求める叫びに、一瞬で何も考えられなくなった。
「あいつがあんな声を上げるのは、何かよほど辛い事が有ったからに違いねぇ」
激しく衝き動かされた精神が、早く遙の傍に行ってやらなければと、無性に皓を急き立てる。
完全に意識を手放した彗からは、何も情報が伝わらない分、外の状況が一切把握出来ない。
恭に指摘されるほど、露骨に焦っていた自覚が皓にはなかったのだが、思うように動けない状況に苛立つ余り、助けてくれた彗の背に向けて口汚く罵ったのは確かだ。
彗に感謝をしていない訳ではない。 意識を失ってもなお、皓と恭を守る力を感じるのも、事実だ。
だが助けを求める遙の声は、血を吐くように切実な救いを皓に求めていた。
『いったい何が有った遙?』
眷属で随一の強さを誇る斎が遙の護衛に就いている以上、攻撃を受けたとは考え難い。
従って物理的でない何か、それも傍らの斎に縋れない何か、が遙を襲ったのだろう。
「早く行ってやらねぇと、またあいつは……」
――私は強いから、大丈夫なんだよ――
屋敷に来た当初、繰り返し見た偽りの笑顔と、やんわりと他人を拒絶する遙の言葉。
ようやく僅かながらにも本当の笑顔を見せるようになった遙を、いまここで失うわけにはいかない――
「ねぇ皓。俺には何も聞こえなかったけど」
息遣いも荒く胸中を吐露した皓の横で、耳を澄ましたのか一旦言葉を切ってから、恭が続ける。
「皓の言う通り、きっと遙ちゃんは、必死で助けを呼んでいるんだと思う」
何故、遙の声が皓にだけ聞こえたのか? 皓ですら説明出来ない現象を、疑う事なく信じる恭に、返す言葉を失って。
「ああ……」
ぎこちなく頷いた皓の横に、するりと恭が立ち並ぶ。
「恭?」
「だったら早く行かなきゃね」
彗の背中に手をあて呟く恭に、遅れて皓も手をあてる。 とにかくここを脱出しなければ、何も始まらない。
「いい? 押すよ?!」
何度目の挑戦だったか、無意識に数える事すら諦めかけた頃、不意に彗の岩のような身体が軽々と外から避けられた。
「?!」
「二人ともそこから動くなよ」
正面から射し込む眩い陽を浴びて、逆光の影が厳しい口調で、皓と恭に慣れた命を下す。
「斎? どうしてここに!」
見事に重なり合った皓と恭の声を無視して、斎は未だ意識を失った彗の前に膝を付く。
触れるまでも無く気付く、肩まで腫れた彗の左腕にそっと眼をやって。
「彗の怪我は、來が原因だな?」
断定に近い言葉で問いを投げ掛けると、怪我の程度を確認する為か、斎は彗の上衣を剥ぎ取り、外気に直に傷痕を曝けだした。
答えを待つまでもなく、彗の容態を慎重に確認する斎に、横合いから皓が口を挟む。
「大丈夫なのか、彗は」
「彗の事より、自分達の身を心配していろ」
斎の珍しく抑えた声音に、秘めた怒りを感じ取って、皓と恭は互いの顔を見合わせた。
『ちっ……規則違反か』
誰よりも規則の遵守を説く斎は、違反者に対して容赦はしない。 謹慎か、懲罰か。
言い訳の効かないこの状況下では、何らかの科が三人に与えられる事は、間違いないだろう。
「……」
怪我を負った彗の心配すらさせない斎の強固な態度に、皓と恭は止むなく口を閉ざし、傍らから行動を見守る事に意識を向けた。
置かれた状況が理解できたのか、大人しく黙り込んだ皓と恭を横目に捉え、斎は彗の唇を押し開くと、遙から託された珠を舌の奥に載せる。
『彗』
目の当たりにした、想像以上に酷い怪我の状態に、斎の瞳が細く眇められる。
顎を持ち上げるようにして、強引に喉を通過させると、彗の瞼が微かに震えた。
「……ふっ……」
はだけた彗の肩が上下し、浅い呼気が何度か繰り返される間に、無惨な傷は端から癒えていき、深く刻まれたはずの痕跡すら残さずに、痕跡すら消し去っていく。
「彗……」
斎の唇から漏れた意外に優しい響が、彗の意識をゆっくりと浮上させ、覚醒へと導いた。
「! 斎っ?!」
意識が戻ると同時に、跳ね起きようとした彗の動きを、事前に予想していた斎は片手で押し止める。
「急に動くな、彗。いくらお前でも貧血を起こすぞ」
「あいつらは?!」
忠告が聞こえていない訳ではないだろうに、まず他人の心配をする彗に、堪らず斎は苦い笑いを浮かべた。
「大丈夫だ。お前が守った雛鳥は、まだ巣穴の中だ」
斎の物言いに、彗は気忙しく後ろを振り返り、視界に二人の無事な姿を確認すると、安堵の溜息を落とした。
「……良かった。俺が無理に連れ出したばっかりに……」
「……」
この期に及んでも皓と恭を庇う態度に、斎は厳しい視線を送る事で、暗に無駄な行為だと彗へ告げる。
だが氷のような斎の視線に敢えて気付かないフリを装って、彗はもっとも気がかりな質問を口にした。
「斎、遙はどうなった?」
「糧となる『力』を摂取する為に、遙は赤子を持ち帰った」
連れ帰るではなく、持ち帰る――遙同様にその言葉が持つ正確な意味を理解して、彗の視線が一瞬空を彷徨う。
「……そう……か」
では遙は赤子の救済に、間に合わなかったと言う事だ。
延命の為とは言え、誰の犠牲も望まない遙。 斎と二人かがりでさえ救えなかった小さな命に、遙が受けた衝撃の大きさは計り知れないだろう。
『なら傍に居た斎も――』
誰よりも矜持の高い斎の事だから、遙以上に悔しい思いをしているに違いないだろう。
何か慰める言葉を探そうとして、横目で盗み見た斎から感じ取る違和感に、彗は開いた口を閉ざした。
――どこか普段の斎とは、微妙に違う態度。 能面に近い表情は、激情の片鱗すら見せない。
赤子の件を述べる斎の、異常なまでの冷静さは、どこか不自然ではなかったか? まるでこうなる事を予見していたような――
『まさか……まさか斎、わざと遙に』
「彗、帰るぞ」
思わず絡めた視線を正面から受け止めて。 斎は表情すら変えずに、彗に手を貸した。