おかれた立場と、責任と-02(163)
「遙、赤子は……」
中途半端に空に消えた斎の言葉に、遙が村長の屋敷を出て以来、伏せていた顔を上げる。
見慣れぬ黒い髪に縁取られた顔に、浮かぶ感情が何も見えなくて、斎は酷く戸惑いを覚えた。
「私がどうするか、聞きたいか?」
遙の口元に、ゆっくりと広がる、自虐的な笑み。 眇めた瞳には剣呑な光が宿り、胸中に燻ぶる苛立ちを伝えていた。
「……」
遣り切れない想いに囚われているのは、遙独りではない。 託された同じ想いを受け止めて。
真正面から合わさった視線を、先に逸らしたのは、遙だった。
「すまない。……お前に当たっても仕方のない事なのにね」
來や村長が悪いわけではない。 彼らは自分が信じる選択をただ下しただけに過ぎない。
赤子の生命を救えなかったのは、ひとえに遙の遅すぎた到着が原因なのだ。
「いや、当たるのは構わないが」
言いたい事はそんな事ではないのだと、微笑んだ斎の中に見える無償の優しさに、もたれそうになるのが怖くて、遙は強く唇を噛み締める。
――誰かに頼る事に慣れてはいけない。 優しい胸に逃げる事も、絶対にしてはならない。
『奴等が貴女に優しいのは、躾の結果に過ぎない』
いつからか、脳裏に浮かぶ鮮やかな來の言葉。
楔のように打ち込まれたその言葉は、どんな状況下におかれても、遙の胸中から消える事はない。
「辛くはないか、遙?」
「私は大丈夫だよ、斎」
出来うる限り普段通りの微笑を浮かべながら、遙は鈍く疼く痛みを、胸の奥深くに閉じ込める。
『私は彼らを導く者、なのだから』
全てを統べる者に、弱さは要らない。 操られた感情に甘えてはいけない。
導く者に求められるものは冷酷なまでの強さであって、泣き言ではない。
『……だろう?』
遙は顎を引くと、斎の心配そうな顔を見つめ、区切るようにして言葉を風にのせた。
「心配するな、ちゃんと赤子は喰う」
哀れむだけでなく、消えた生命を確かに受け継ぐ為に。 責任を果たすべき立場として、私は私の役割受け入れよう。
――ああ、けれど。「泣きたいなら、泣け」と何の迷いも躊躇いもなく、抱き締めてくれたあの温かい腕を思い出すのは、何故だろう――
「……遙」
「……大丈夫だ、斎……私はそんなに弱い存在ではない」
――強がるなと、何の躊躇いもなくこの腕に抱き締められる立場なら、互いにどんなに楽になれるだろう。
だが自らが他人に甘える事を良しとしない遙を、甘えさすのは難しい。
築かれた垣根は余りに高く、卵の誰もが壊したいと願っても、容易な事では壊せないからだ。
結局どう足掻いても、おかれた立場を忘れない遙を、卵である斎達が抱き締める事は、適わない。
「泣きたいなら、泣け」
揺れる遙の感情を、斎は無意識に読み取って。 浮かぶ想いは遙を胸に抱き締める、いつかの皓の姿。
『頼むから遙、他の男の事は考えてくれるな。ここにいるのは俺だ……遙』
胸を裂かれるような痛み。 制御出来ない歪んだ何かが、身体の奥を非常に緩やかな速度で、蝕んでいくのが解る。
だが流されそうな感情に、掌を血が滲むほど固く握りしめて。
斎は無理に意識を切り替えると、眷族としての仮面を纏う事に精神を集中させた。
「帰るぞ、遙」
行く手を強固に阻んだ結界が消えた空を見上げて、屋敷までの最短距離を、斎は即座に導き出す。
体力的に見ても遙の限界は近いだろうと、早急な帰館を促そうとした瞬間、何かに気付いたように、遙が一切の動きを止めた。
「おや?」
「どうした遙?」
帰る道筋とは違う方向を捉えて、遙が厳しい眼差しを空に向ける。 唇から洩れる溜息は、明らかに嘆息の響きを色濃く匂わせていた。
「どうやら私とお前の言いつけを守れなかった子供が、三人もいるようだよ」
「? まさかっ!」
慌てて周囲を探る斎に、遙は首を左右に振ると、遠方に連なる岩山の一角を指し示す。
三人が潜んだ正確な位置を、なかなか把握出来ない斎に、微かに笑いを含んだ声で、遙が囁いた。
「なるほど、彗も良く考えているな。斎が察知出来ない、ぎりぎりの位置に潜んだか」
「あいつら……」
苦虫を噛み潰したような斎の表情に、横を向いて笑いを堪えていた遙だったが、彗の異変を掴み取り、ふざけた口調を改めた。
「……彗の気が、随分と弱っている。悪いが斎、彼等を回収してきてくれないか?」
「?」
軽く眼を瞠った斎に、生命に影響するほどではないが、何かしらの怪我を負っているようだ、と遙は遠視した結果を伝える。
周囲に残された残像から、読み取る気配は、流れるような見事な銀の髪。
『來に新たな申し子の存在を悟られたか』
強力を誇る彗に、手傷を負わせられる程の相手。 來と彼らの間に、何らかの接触が有ったのは間違いない。
「連れて来るなと言ったのに……仕方ないね」
溜息を一つ。 彗の命令違反はいまに始まった事ではないから、怒る気力すら湧かない。
それに彗が皓と恭を連れ出さなくても、あの二人なら勝手に行動を起こす事が充分予測される。
未熟な申し子だけで単独行動を起こされるよりは、彗が引率したほうが、結果的には良かったのだろう。
同じ様な考えに行き当たったらしい斎に、苦い笑いを送ってから、遙は遠視を打ち切った。
「回収作業だが……遙はどうする?」
「そうだね。出来れば一人で先に屋敷へ戻りたいが、構わないか?」
さらりと告げた遙の言葉に、斎は踏み込む事の出来ない領域を、改めて知らされたような気がした。
本当は誰よりも傷付きやすい遙が、大丈夫な訳がないのだ。
だが誰かが傍にいる以上、遙は決して弱い己を見せない。 独りになりたい遙の想いを感じ取って、斎は黙って頷いた。
「ああ、それからこれを彗に、呑ませてやってくれないか?」
開いた掌に、いつの間にか光る、小さな紅い珠。
「遙?!」
小言は聞かないと笑う遙から、やむなく凝縮された力の珠を受け取って。 斎は彗の元へ向うべく、身体の向きを転じた。