おかれた立場と、責任と-01(162)
契約を交わしていなければ、確たる未来は見えない。 力を遣えば容易に知れる事でも、僅かな躊躇いが無駄な力の流出を拒む。
『……無駄な力か』
半ば以上結果が見える出来事に、遣う力を無駄だと切り捨てる、己の中の非情さ。
下した冷静な判断は間違いではないのだろうが、同時に込み上げる苦い想いは消せない。
むせ返る匂いは、村の中心に位置する一際大きい屋敷から強く漂い、甘く遙を誘った。
「あれが村長の屋敷だ」
遙の視線に気付いた斎が、問うまでもなく答えを口にする。 その言葉に軽く頷いて、遙は別の家屋へと視線を流した。
やや離れた場所に建つ、村長の屋敷と競うほどの大きな屋敷。
真新しい家屋から流れる不吉な臭いは、屋敷全体を覆いつくし、闇色の瘴気を発生させていた。
「斎、先にあの家屋へ」
溢れる強い恨み。 理不尽に流された血は、早急に浄化しないと土地そのものを穢してしまう。
大丈夫かと斎から無言の問いを受けて、遙は唇を強く引き結ぶ事で答えに変えた。
「しかし酷い状態だな」
「……」
押し寄せる怒りを受け止めた為か、原形を留めないほど破壊された入口を、斎に続いて遙はそっと潜る。
灯りすら奪われた中、鼻を衝く血生臭さと、一足毎に聞こえる湿った水音に、斎が眉を顰め、遙を慮る。
「遙、ここから先は止したほうが良い」
「いや大丈夫だよ斎。……それに私が行かなければね」
壁や家具。 治まらない怒りは、この家を形成する全てのものに向けられたのだろう。
土足で踏み躙られた床に粉砕された鏡の欠片は、赤い色をその身に纏い、力無く鈍い光を周囲に晒していた。
眼に見える物質は暴力の名の下に蹂躙され、なお執拗に残る悪意だけが、闇の中で存在を模って。
「……遙」
床にだらりと伸びた手足に。 じくじくと流れる赤い液体に。
倒れ伏した男の下に守られるようにして見える小さな手足は、ぴくりとも動かない。
「! 子供まで、全てか」
叫び出したい衝動を押し殺し、吐き捨てるように呟いた遙の拳が、行き場のない感情に震える。
「よく聞け、遙。……今回の件は誰が悪い訳ではない。人は酷く弱く、惑わされやすい生き物だから――」
「解っている!」
斎に諭されるまでもなく、そんな事は嫌というほど、遙自身が痛感している。
導く方向によって、善にも悪にも染まる未熟な彼ら。
だからこそ來も遙も、必要以上に人の世に干渉してはならない、そう決めた。 ――なのに。
「遙!?」
長衣が汚れるのも構わずに、遙は床に膝を折ると、恐怖に縁取られ開いたままの幼子の瞳を瞑らせ、囁いた。
「……良く我慢したね」
泣きそうな笑顔を浮かべる幼子の魂に、出来る限り優しい口調で遙は道を指し示す。
蒼く浮かぶ魂に、永遠の休息を与えてあげる。 だから迷わず逝きなさい、光射す方へ。
『ありがとう』
弾けるように空へと消えた三体の魂を見送って、怨嗟に彩られた屋敷に永遠の慰みを。
「くっ……」
絡みつき、舐るように肌を撫でる澱んだ空気に、堪らず手にした錫杖で、遙は闇を乱暴に打ち祓う。
「遙」
いくら打ち祓っても、起きた出来事を消せる訳ではない。 そんな事は解っている。けれど。 裾から赤く染まった衣は重く、冷たく。
震える唇を噛み締めて、過ぎる激情を精神の奥深くに閉じ込める。 胸を占める想いは、幾千年の時が流れても何ひとつ変わらない。
――ああ、私は何と無力な存在なのだろう――
「村長さま、遙さまがお見えになられました!」
何も知らない家人の声に、来るべき時を察して、村長は眼を閉じた。
目の前には罪のない赤子の身体。 犯した大罪は償えぬが、村の存続だけは何としても守らなければならない。
『ワシは村長じゃ。全ての罪はワシ一人に有る』
神に一切の嘘は通じない。 厳しい表情で佇む遙を前に、年老いた村長は覚悟を決め、深々と頭を垂れた。
「答えよ何故、罪のない命を奪った」
前置きも何もない、単刀直入な質問。
一切の感情を感じさせない、冷酷な声音に隠された怒りを感じ取って、村長の背中が震える。
緊張で溜まった唾を飲み込んで。 何処から説明すればよいか見当もつかず、村長は思いつく限りの出来事を、片端から喋り続けた。
どのくらいの時間が流れたのか。 長い時間のように感じ、実際はほんの数分だったかも知れない。
「……もう良い、解った」
要領を得ない話を、いくら聞いても時間の無駄にしかならないと、無慈悲に神は切り捨てる。
遙は唐突に村長の主張を打ち切ると、赤子を指して問うた。
「赤子は何故息をしていない?」
村長の視線が遙から、一瞬斎の容姿に流れ、直ぐに逸らされる。
「恐れながら遙さま、生まれた御子は黒髪でした」
「?」
「遙さまの御子なら、生まれた子供は金髪だと、ワシらは全員思い込んでいましたのじゃ」
だが誕生した赤子の髪は黒く、疑いは間違った確信へと変わった。
女の言い分も聞かず、生まれた赤子は彼らの子供だと、勝手に思い込んだ。
「両親が黒髪なら赤子の髪も黒くて当然だろう? まさかそんな単純な事がきっかけで、村民は暴徒と化したのか?」
「斎!」
一家の高圧的な振る舞いに、限界まで我慢を強いられていた村人達は、來の言葉を最後迄聞かず、鬱積した怒りを彼らに直接ぶつけた。
だがそんな単純な理由で、人は人に対して、かくも残忍な仕打ちが出来る者なのか?
「単純な事ですと? ぎりぎりの生活を送る、ワシらの苦労が、遙さま達には解るまい」
「!」
斎の発した言葉が琴線に触れて、村長は唸るように不満をぶちまける。 度重なる神の試練など、もう沢山だ。
物資に恵まれた豊な村なら、さほど大きな問題にはならなかっただろう。 けれど貧しい村ゆえに、飢えが全てを狂わした。
「赤子の髪さえ金色ならば、ワシらの生活は変わる。豊作は永遠に約束され、安定した生活はゆとりを生む」
腹が空いたら飯を喰い、子供が出来たら産み育てる。 そんな当たり前の生活を、明日の食糧さえ事欠く村で、どうすれば想像出来ただろう。
決して法外な贅沢を望んだ訳ではなく、手の届く幸せを、ワシらは御子と引換に夢見ただけ。
飢えた子供が傍らで泣く声に、耳と心を塞いで凌いだのも、全ては先の未来に繋がるからこそ――
「恵まれた立場にある遙さまに、ワシは聞きたい! ワシらのどこがいったい間違っていると言うのじゃ!」
「――間違ってはいないのだろうね、多分」
地面に置かれた冷たい赤子の身体を抱き上げて、遙は肩で荒い息をつく村長に、静かに言葉を返す。
夢見る事自体が、最初から間違えているのだとは、遙には言えない。 苦しい立場に置かれているからこそ、村民共通の夢が必要だったのだろう。
地上から聞こえる無数の願いは限りなく、叶わない奇蹟は多い。 差し出した掌は全ての願いを汲み取れず、彼らに無理な試練を強いる。
『そう、彼らを追い詰めたのは、願いを叶える事が出来ない、私そのものかも知れない』
「遙さま……?」
押し黙った遙に、怯えを宿した村長が恐る恐る声をかける。
敬うべき神に対し、つい本心を漏らしてしまったが、村の代表としてはどうしても譲れなかった。
返されるべき激しい遙の怒りを想像して、村長の緊張が極限まで高まる。
「遙」
何か言いだけな斎の言葉に遙は首を振ると、赤子の薄く柔らかい髪を優しく撫でて、眼を伏せた。
村長の年老いた命など要らない。 彼は怒りを鎮める為ならば、自らの命も投げ出す覚悟なのだろう。
「……もう良い、屋敷へ還るぞ、斎」
閉じた瞼を開けてやることは、遙にはもう出来ない。 完全に尽きた生命には、理が優先される。
眼に映る赤子の髪に、喉元まで込み上げる、切ない感情。
『もしこの子の髪が金色なら、生命は助かったのか?』
「髪の色など……」
呟いた小さな声が終わる間も無く、遙の髪が黒一色に変わる。 眼を瞠る村長に、眇めた視線を返して、遙は踵を返した。