明ける空-08(159)
「來さま。遙さまのお怒りは、贄さえ捧げれば解けるじゃろうか?」
張巡らせた結界に、僅かに触れた遙の気配を読み取って。 來は整った容貌に、限りなく優しい笑みを浮かべる。
遙の生命を繋ぐ赤子の波動は、いま卑しい輩の手によって、完全に途絶えた。
あとはその身体を遙に喰わせれば、彼女はまた暫くの間だが、生き永らえる。
『誓っても良いが、遙。私は何もしてはいない』
具体的な指示や言葉を、來は敢えて何一つ与えなかった。
全ては人間の勝手な解釈に基づく行動の果てに、生まれた産物に過ぎない。
『私はただ、奴らの不安を煽っただけだ』
來が描いた筋書きから、ほんの僅かに狂う事もなく。 人間は自らが最悪の道を選択し、堕ちた事にすら気付かない。
『遙……後は貴女次第だ』
――優しい貴女は、多分愚かな奴らが引き起こした結果にさえ、自分を責め、涙するのでしょう? だが生命の灯が消えた哀れな赤子を、それでも貴女は喰らうしか術はない。 何故なら――
遙の性格なら、嫌というほど熟知している。
この後の展開が容易に想像できて、來は更に深い笑みを浮かべた。
「……來さま?」
男神に問いかけたものの、なかなか返事が貰えず不安だったが、浮かんだ笑顔を見ると、ワシは正しい選択をしたのだろう。
來の笑顔を、問い掛けの答えだと判断した村長は、ようやく訪れた安堵感に胸を撫で下ろした。
『あの女も、亭主も、可哀相だが仕方ない。自業自得だと思って、ワシらを怨むでないぞ』
貧しさ故、村人達に燻っていた不満は、頂点を極めた。
彼らの申し出が偽りだったと判明した今、築き上げた砦は壊れ、贅沢の限りを尽くした彼ら夫婦を、村人達は断じて許しはしない。
これから夫婦の身の上に起こるであろう、残虐な行為を止めようとしないのは、村長自身も少なからず同じ心境だったからだ。
『お前達は少しばかり度が過ぎたのじゃ』
悪夢のような始まりを見せた一日は、原因となった彼ら全員を神に捧げる事によって、取り敢えずは回避できる方向へと向かっている。
『じゃが……』
これは正当な裁きなのだと、言い聞かせてもなお、湧き上がる彼らへの罪悪感は消えない。
確かに眼に余る行き過ぎた行為が有った事は、否めない。
けれど貴い命を失わなければならないほど、彼らは重い罪を犯したのだろうか。
『本当にこれで良かったのじゃろうか?』
神の怒りを収める行為と言うよりは、村人達の怒りを実は発散させただけなのでは?
『ワシは……』
何か、どこか間違っているような気がしてならない。
やはり村人を止めるべきだったかと、村長は激しく迷う感情の中で、一人溜め息を零した。
「――そう言えば、赤子の事で思い出した事が有るのだが」
静寂の中ひっそりと。 溜め息を聞き咎めたのか、まるで途切れた世間話の続きのように。
終わった筈の話を來に蒸し返されて、村長は盛んに眼を瞬かせた。
「來さま……まだ何か?」
贄にしただけでは、まだ足りないのか。
間近に見える整った來の顔からは、何の感情も読み取れなくて、村長は戸惑いを隠せない。
知らず冷や汗が滲む額に無理な笑顔を浮かべ、村長は聞きたくはない話を、敢えて促した。
「いや、一つだけ神の子かどうかを証明する術がある。その方法を、村長であるお前に教えておこうと思ってな」
「……は? いま何と?」
『神の御子かどうか見極めるじゃと? 來さまは赤子があの夫婦の子供だと、言ってはいなかったか?』
怪訝な表情を満面に宿した村長を、來は気にする様子もなく、平然と言葉を繋いだ。
「遙の子ならば、必ず身体の何処かに印が刻まれている。女の言葉が偽りかどうかの決断を下す前に、それをまず確かめよ」
「な、何をいまさら!」
赤子はとっくに遙の贄として、捧げられた。 確かめるも何も、既に呼気すらしていない――!
「いまさら、だと。ほお……面白い事を言うな、村長よ」
思わず気色ばんだ村長に向けられた、背筋が凍るほどに冷たい、來の暗褐色の眼差し。
侮蔑を込めた神の視線に、己が身分を強烈に知らされて、村長はのろのろと、膝を折った。
「私はお前達にまだ、何の真偽も伝えてはいないぞ? 証拠があるかどうかを、女に訊ねたに過ぎない」
「そん……な!」
「何か勝手な解釈をしたようだが……村長よ、早く赤子の下へ行き、確かめて来るが良い」
來の言葉を受けて、立上りざま、膝が細かく震えて転倒しそうになる身体を、村長は平静を装いながら踏み止まると、屋敷を後にした。
――真偽が明らかになるまで、決して來さまに赤子の死を悟られてはいけない。
『じゃが……』
確認をしたところで、どうなると言うのだろう。 もはや赤子が息を吹き返す事は、永遠にない。
不安に苛まれ、押し潰されそうな精神を叱咤しながら、一歩ずつ物言わぬ赤子が眠る祭壇へと、村長は歩を近づけた。
『どうぞ赤子の身体に、遙さまの紋様が刻まれていませんように』
縋るような想いと共に、胸中で無意識に繰り返される、先ほどとは正反対の願い。
外気に曝され、冷たくなり始めた赤子の身体を、震える指先で丹念に調べ上げた結果、村長は腹の底から、大きな息を吐き出した。
「良かった……村は安泰じゃ」
青白い小さな身体の何処にも、御子の証しとなるべく紋様は、刻まれていない。 やはり女の言葉は偽りだったのだと、安心した刹那。
きつく握り締めたまま、硬直した赤子の指先に、眼が止まる。
小さな、とても小さな人差し指。 親指の下敷きになったその指先だけは、まだ調べていなかった。
「……念の為じゃ」
恐る恐る覗き込む村長の瞳が、限界まで見開かれ――
「!」
彼の喉から出た掠れた悲鳴は、唇を戦慄かしただけで、音として漏れることは無かった。
流れ出た紅に塗れた、赤子の細く小さな指先。 そこに存在した、確かな証し。
「ワシは、ワシはいったい何と言う事を!」
神の子殺しは、古来よりもっとも重い大罪にあたる。
天空からもたらされる神の怒りは、留まる事を知らず、地上は一瞬で疫病と災害に覆われ、そこに住まう全ての魂は、尽きる事のない永遠の業火に囚われる――
「……」
何が原因で、どこで道を誤ったのだろう。 ただ村の繁栄と安定を望んだだけだったのに。
『ワシは……』
両手で顔を覆っても、犯した過酷な現況から逃れられる筈もなく。
絶望に駆られて見上げた空は茜色に輝き、遙の到来が間近に迫った事を、村長に伝えていた。