明ける空-07(158)
「遙、駄目だ。ここも來の結界がある」
虚空に、ごく僅かな煌きを見咎めて、斎は遙に迂回するよう促した。
「またか。……ねぇ斎、いっそ強引に突破するという方法はどうだろう?」
本気とも冗談とも取れる遙の口調に、斎は眇めた視線で答えを返すと、翔ける方角を探し出す。
「こっちだ、遙」
來の築いた結界を見つめたまま動こうとしない遙に、まさか本気だったのかと、斎は苦笑を浮かべた。
「遙?」
「このままでは、何もかもが來の思う壺だ」
普段の遙の能力ならば、來の結界をことごとく破壊したところで、何の損傷も被る事はない。
だが先の見えない状況に加え、遙の現状を鑑みると、出来る限り力を温存した方が確かだろう。
細く白い指先で結界に触れ、悔しさに唇を噛み締める遙に、斎は浮かんだ笑みを消して、厳しい声音で語りかけた。
「ここで倒れたいならば、どうぞ思う存分力を遣いなさい、遙」
「……」
突き放したような言葉に、痛む胸はどちらの感情か。 だが隠された想いを受け取って、遙が微かに笑う。
「まったく。いつまで経ってもお前には適わないね、斎」
結界を破壊する事。 それを遙が本当に望むのなら、例え無謀な行為でも、斎は行動を止めはしない。
結果無理な負荷の為に、遙が意識を手離したとしても、構わないのだろう。
これまで幾度もそうして来たように、斎は危険を承知で、意識のない遙を來の指定した村まで連れて行くに違いないから。
『それが私の望む事だから、か』
斎を始め、彼ら卵は自己犠牲を厭わない。
生命は等しく平等で、遙だけが尊重される謂れは、どこにも有りはしないと言うのに。
彼らはどうしてか遙を護る事に関して、欠片の躊躇もしない。
「どうしますか、遙?」
――では後は俺に任せて、貴女は貴女のしたいようにしなさい――
わざと他人行儀を装った、冷たい言葉の裏に。 告げられた斎の強い信念は、揺るぐ事はない。
「いや迂回しよう。が、出来る限り飛ばすぞ斎」
強い口調と共に毅然と顔を上げ、前を見据えた遙に、既に迷いは存在しないのか。
『遙……』
冷たい言葉を吐きながら、胸中に隠した計画を読み取られたかと、斎は一瞬たじろいだ。
が遙の頬に浮かんだ微かな笑みが、取り越し苦労だと告げていて。
「斎?」
「いや……急ごう遙」
どうしたと小首を傾げた遙に、他意はないと斎は頷いて見せた。
互いに慣れた思考は、相手の動きを読んで、全てを把握したと錯覚してしまう。
疑う事を知らない遙は、直ぐ傍に居る仲間の裏切りをまだ知らない。
――否。斎とて遙を裏切っている訳では、決してないのだが。
昨夜間近で対峙した、もう一人の神と呼ばれる男。 彼と視線を絡めた刹那、斎が無意識に探った深層意識。
『違う遙。私はただ貴女を守りたいだけだ』
打算も、欲望もなく、見返りすら求めない。 ひたむきで純粋な想いは、痛い程の叫びを上げていて。
遙の事だけを考えて、一身に引き受けた痛みを伴う穢れは、彼の精神を侵し始めている。
愛しても気付いて貰えない切なさは、寂寥感を生じさせ、彼の中の純な魂をますます磨滅させ、隅へと追い遣っていた。
――孤独な色に染まった神の存在は、自分達とどこが違うと言うのだろう?
手を伸ばせば直ぐ届く距離で。 枷すら存在しない立場は、自由よりもむしろ、苦しいだけなのでは――
「お前達は遙に喰われる事で、彼女に同化する」
遠い昔。 一堂に会した卵達に向って、憎しみを込めて宣告された言葉。
あれは來なりの羨望だったのか。
卵はいずれ遙の肉となり、血となり、一つの生命となって彼女と交わる。
だが卵ではない來は、どう足掻いても、遙と交わる事は出来ない。
無論、遙が人間らしい感情を理解し、來の愛を受け入れるなら話は違うが、その可能性は極めて低いだろう。
『だから貴方は俺達卵が、申し子が、堪らなく憎いのでしょう?』
遙の意思を蔑ろにした來の遣り方は、到底正しい事とは思えない。 けれど微かな共感を覚えるのも、また確かな事で。
現場への到着があと少し遅れれば、來の宣告どおり、遙の命は延びる。
追尾した斎の予知も、來の指した未来を提示した。
『遙の生命を繋ぎたいなら、彼女を間に合わせてはいけない』
闇へと消え入る幼い仲間の生命の延長線上に、明日へと続く遙の生命がある。
『どちらを助けたいか?』
――迷いも、憐憫も。答えなど、もうとうに決まっている――
後は少しでも來の作った時間稼ぎに付き合うだけだと、斎は遠い空を見つめた。