明ける空-06(157)
「最初にお告げが有りました。お前は神の子を身篭ったのだ、と」
まだ何の兆しもない段階で、声は女に妊娠を告げた。 半信半疑な気持ちは、月日の経過と共に大きくなるお腹の前に打ち消えた。
村の掟に則って、夫婦間に子供が出来ぬよう、十二分に注意は払ってきたつもりだから、お腹に宿った赤子は、なるほど神の御子に違いない。
「声は常にあたしを見守り、御子を最高の環境で産むよう、勧めました」
――お前は『選ばれた者』なのだから、他者より秀でた暮らしを送るのは、酷く当たり前の事――
どんどん増える要求に、最初は軽い戸惑いを。 けれどいつしか当然の事と考え、声無き時は、自らが要求を口にした。
――恐れるな、お前は『選ばれた者』なのだから。 もっと待遇のよい環境をその身に望めば良い。 お前には光り輝く生活が相応しい――
『そう。あたしは選ばれた特別な女。ただの人間に対して、何の遠慮も恐れもいるもんか。あたしは皆とは違う存在なんだ』
「來さま! あたしはお告げに従っただけで、何も悪い事はしていません。なのに……」
縄で縛られて、力尽くで外へと引きずり出された。
村長の屋敷へと引き立てられる間、騒ぎを聞き付けたのか、一人、また一人と村民は戸口に出て来て、女の姿を憎憎しげな視線で絡め取る。
向けられた数多の視線は何故かどれも酷く冷く、女に一層の混乱を招いた。
「彼らに言って下さい。あたしは『選ばれた者』なのだと。敬われて当然なのだと、教えて下さい」
――あたしは大切な御子を生んだ母親だ。 あたしにこんな扱いをした彼らを、許してはいけない。 神に罰せられるのは、あたしではなく、村長全員なんだ。そうでしょう?――
『この女……』
暗く歪んだ考えに気付く事なく、女は現在もお告げが正しいと心から信じ込んでいる。
交えた視線から女の浅はかな願いを読み取って。 その愚かさに、どれだけ助けられた事か。
『本当に、欲に彩られた女には、感謝してもしきれんな』
ゆっくりと來は、女にだけ見えるように、口の端で残酷に嗤う。
神と称すには、余りに禍々しく凶暴な笑みは、女から瞬時に顔色を奪い、全身に堪えようのない怖気を生じさせた。
「……來さま?」
言い知れぬ恐怖に、自然と戦慄く唇で、半ば懇願のように、女が沈黙を続ける來の名を呼ぶ。
「女よ。お前にお告げとやらを聞かせた声は、私の声だったか」
「……いいえ」
來の問いに、女は改めて自分に語りかけてきた声を思い出す。
來のようにこんなに甘く、痺れるような声では無かった。
どちらかと言えば無機質に近い、感情の伴わない声に近かったような気がする。
「では私以外の誰かが、お前に語りかけたと言うのだな?」
「!」
あくまでも優しく、けれど舐るような來の言葉に、女が引き攣った表情を浮かべ、周囲に意味のない視線を泳がせる。
「良いか女よ。誕生前に存在を祝福された赤子など、私は現在まで一度も聞いた事はない」
「で、でも! 來さまもあたしを祝福にいらして下さったじゃないですか!?」
悲鳴に近い声を上げ、女は立ち上がろうともがくが、周囲の男達に呆気なく抑え込まれてしまう。
肩にかかる男達の力が更に強くなったように感じて、女は落ち着きなく瞬きを繰り返した。
「私は子が出来たという、お前の強い心の叫びを聞いて、この村に偶然立ち寄っただけだ」
「そんなっ! だって……村長さま! 村長さまも、來さまが祝福に来られたと……」
もはや唇まで色を失くした状態で、女が救いを求めるように、村長に同意を呼びかける。
何か女に返そうとした村長に、來はゆっくりと極上の笑みを浮かべると、横から遮るようにして問いかけた。
「では村長よ、私は一言でもお前に祝福の言葉を口にしたか?」
「あ……?」
來の言葉に村長は、過ぎし日の遠い記憶を懸命に辿る。
――はて? あの日現れた男神は開口一番何と言ったのだったか。 ……そう確か、お前の村の女が神の子を宿したらしいな、と――
噛み締めるように、過去の來の言葉を脳裏で反芻した村長は、やがて「あっ!」と大声を上げた。
「そうか! ワシが迂闊じゃったが、來さまは一言も御子が出来たとは断定されていない」
來は村の女が神の子を宿した、とは一言も言わなかった。 宿したらしいな、と村長に訊ねただけだ。
だが神の降臨に平静さを欠いた村長は、來の告げた言葉に隠された意味を、深く考えはしなかった。
「私の赤子ではないがな」と後に続けた男神の言葉を安直に受け取り、ならば腹の子は女神の御子だろうと単純に考えた。
直前までは、女が腹の子を守りたい為の嘘だと疑っていたにも関わらず、現れた神を前に都合のよい解釈を選択したのだ。
――では……では全て最初から、ワシとこの女が遙さまの御子だと、勝手に思い込んだだけじゃと?! だから來さまは生まれた御子を受け取りもせず、証拠は何だと糾弾されているのか?――
「……」
行き当たった答えは村長も女も同じだったのだろう。 蒼白な顔色をした両者の全身を、細かい震えが走る。
「お前達の言葉を信じ、遙は間も無くこの村に赤子を引き取りにやって来るぞ」
「遙さまが……」
「もしお前達の言った事が真実なら、何の問題もないだろう。だが偽りで有った場合――」
最後まで言葉を続けずに、思わせぶりに黙った來の様子に、村長の頭の中を最悪の事態が駆け巡る。
「來さま、どうすればっっ! お願いです、哀れなワシらをどうぞお助け下され!」
神の祟りから、遙さまの怒りから逃れる方法を。 疫病も厄災も、何一つ被りたくはない。
輝ける未来がないのなら、せめて現在の平穏無事な生活をワシは守りたい――
「助ける? 何故私がお前達を助ける必要が有るのだ?」
「このままでは、遙さまの怒りは必至。どうぞお情けを!」
形振り構わず哀願の言葉を口にする村長に、日陰に咲く花のようにひっそりと來は嗤うと、計画通りの言葉を口にした。
「良く考えるが良い、村長よ。古より神の望むものはなんだ。神の怒りを鎮める為に、お前達は私に何を捧げて来た?」
「捧げ……もの?」
男神の要求しているものを、今度こそ間違えてはならないと、村長は死に物狂いで頭を働かせる。
――神に捧げる聖なる捧げもの。
荒ぶる神の怒りを鎮めるには、無垢なる魂が一番だと聞くが、巫女もいないこの村にはそんな者なぞ……。
途中まで考えて、ふと感じる腕の中の重み。
柔らかい生まれたての赤子は、無垢なる魂そのものではないのか?
どうせ御子ではない赤子など、村の掟により処分されるだけだ。
むざむざ死を迎えるよりは、赤子も村の役に立てる方が幸せだろう――
血走った村長の視線が、どこに注がれているかのを察して、女が大声を上げて抗議する。
「私の子供に何をする気なんだい!」
神の子だろうとなかろうと、生まれた赤子は女の愛しい子供に違いない。
だが興奮した周囲の人間には、女自らが「このこは神の子ではない」と認めたようにしか聞き取れなかった。
「こいつ!」
「やはり手前の子と認めたか」
「いやっ!」
殴られながら、複数の男達の手によって外へと無理やり引きずり出される女を、村長は止めもせず、沈痛な眼差しで見送るだけに済ませた。
集まった村民の最後の一人が客間を辞する際に、村長は腕の中の赤子をそっとその男に託し、頷いて見せる。
「時間は一刻も争うのじゃ。遙さまが来られる前に事態を収拾せねばならん。良いか」
「はい。村長さま。全ては神の御心のままに……」
受け取った赤子をしっかりと胸に抱いて。
男は貢物を捧げる祭祀場へ向かうために、他の男達とは違う方向へ足を向けた。