明ける空-03(154)
現れた時と同じく、痕跡すら残さずに消えた來。
既に誰もいない空間から、それでも視線を外す事が出来ず、しばらく彗は中空を睨み続けた。
來の移動先は判明している。 だが。
「一歩でも動けば、背後の者ともお前を殺す」
――來が告げた言葉は脅しではなく、真実だ。 まだ未完成な皓と恭を背に庇って闘えば、結果は考えるまでもない。
「彗っっ!」
「何が有った? 早く出せ!」
四肢の戒めが解け、堪らず大地に膝をついた彗の耳に、切羽詰った二人の声が今更のように聞こえる。
「……うるさい」
來を前にして、緊張で二人の声は聞こえなかった。 ただ彼等を守らねば、と自然に動いた身体。
繋がる視覚を一時的に閉ざした為に、窪みに追いやられた皓と恭には、何が起こったのか一切把握出来なかったに違いない。
「ぐっ!」
無意識に動かした途端、肩まで上る、焼けるような痛みに襲われて。 ふっと顧みた左腕。
虚に呑まれた腕は腱を違えた上、赤紫色に腫れあがり、当分使い物にはならない様が見て取れた。
「彗! 大丈夫なのか?!」
「少し……静かにしてろ」
――背中越しでも、周囲の景色は見えるだろう?
痛みで上る息の下、彗は背中を岩に預けた状態で皓達に視界を譲ると、ズルズルとその場に崩れ落ちるように座り込む。
「そんな事を言ってるんじゃねぇ!」
懸命に背中を叩く、皓の意外な力強さを身体に感じながら、やけに霞む眼を閉じて。
『ここからお前達を出すわけにはいかない』
絶対に、お前達を死なせはしないから――
混濁を始めた意識の中で、最後に考えた事。 岩場の窪みに二人を閉じ込めたまま、彗は意識を手離した。
「彗っ、畜生!」
力なく傾いだ彗の身体に、皓の唇から罵りの言葉が漏れる。
何事かを知る前に、有無を言わさず突然彗の背後に匿われた。
「來に何をされた?!」
視界が消える寸前、眼に映った姿は、月光に映える鮮やかな銀の髪と、暗夜にも勝る冷たく端正な、來の容貌。
「彗っ!」
懇願の響を含む必死の呼び掛けに答える声はなく、代わりに聞こえた恭の静かな言葉。
「大丈夫だよ、皓。彗はただ気を失っているだけだから」
苛立つ皓とは対照的に、静かな恭の声音。
冷静な判断――と表現するには少し違う恭の態度に違和感を覚えて、皓は騒ぐのを止めると、落ち着きを取り戻す為に大きな息を吐いた。
「……彗は本当に意識を失くしてるだけか?」
「うん。酷い怪我はしてるけど、生命に関わるほどじゃない」
「怪我?」
半信半疑の口調と、何故お前にそんな事が解った? とばかりに視線で訴えかける皓に、恭は何と説明すべきか、一瞬言葉に詰まる。
「上手くは説明できないんだけど、視えたんだ」
意識を失った彗に強く触れた際、何故か彗に起こった出来事が、あたかも恭自身が体験した出来事かのように、忠実に再現された。
「多分俺が視た映像は、彗の記憶の一部だと思うんだけど……」
何が起きたか知りたくて、無我夢中で彗に触れた。 脳内に流れ込んだ映像は、確かに彗の視点だったように思う。
「もしかして、触った人間の過去が視えるのか?!」
「うーん。どうかなー」
力に目覚めたのでは? と興奮気味に喋る皓に、頷くべきかどうかを恭は慎重に考える。
こんな現象は、現在までただの一度もなかった。 突発的な『力』なのか、それとも――
遙から受け取る契約の『力』は、年月を経た現在も、絶える事なく二人の身体に定期的に注ぎ込まれている。
受け取る側の許容量にもよるが、飽和状態に達しなくても、突然一部の能力が目覚める時が有るという。
遠い日、どんな能力が与えられるのか、と訊ねた皓と恭に対し、「持ち得る能力は人それぞれだから、残念ながら私にも解らないのだよ」と、遙は笑って答えたのだが。
「まぁ、それが恭の『力』なら、この先消える事はねぇし、違ったら元に戻るだけの事だろ」
過ぎる不安から、明言を避ける恭の迷いを読み取って。 殊更大した事ではないと、皓は快活に笑う。
「……だね」
浮かんだ深刻な表情を打ち消して。 頷く恭に、
「そんな事より、取り敢えず彗をどうにかしようぜ」
こんな狭い場所にいつまでも居る訳にはいかないと、皓は手伝うよう改めて声をかけた。
「村長さま、まもなく御子が誕生します」
扉の向こうからかけられた声に、この村の長である初老の男は、いかつい顔を綻ばせた。
「そうかやっと生まれるか」
男の脳裏に浮かぶ、遠いあの日に起きた一連の出来事。
辺鄙な村に、突然男神である來が降臨したのは、丁度村の掟に逆らって二人目の子を宿した女を、叱りつけていたところだった。
相互扶助で成り立つ貧しい村では、夫婦の間でも生す子の数に、制限が求められる。
辺境に息づくこの村は、例え両親が複数の子を望もうとも決して許さず、個人の意思は守るべき村の掟を前に、敗北を余儀なくされた。
『掟に逆らい出来た子は、神の子で無い限り、産声を上げさせてはならない』
古よりの慣習は村人に暗い影を落としたが、どの夫婦にも分け隔てなく平等に訪れる悲劇は、辛うじて精神の均衡を保ってきたと言って良いだろう。
腹に宿った子を堕ろすよう告げた矢先、女の口から出た言葉は村長である男を驚愕させ、口を瞑らせた。
「いいえ! この子は神の子です。あたしは夢で確かにお告げを聞きました!」
腹の子は大事な遙様の御子だと明確に告げた声は、尊い生命を育めと彼女に伝えた。
我が子を守りたい、その一心が聞かせた幻聴なのか、それとも真実の神の言葉なのか?
女が訴えた言葉の信憑性はいま一つ不透明で、答えの出ぬ逡巡を繰り返していたところに、男神である來が現れたのだ。
「お前の村の女が神の子を宿したらしいな」
神には正しき未来が見えるという。
開口一番、來が告げた言葉は、腹の子の未来を決めた。
屠られる生命は輝ける未来を約束され、同時に女の身分も保証された。
贅沢を求める女の態度は、時として眼に余るものも有ったが、神の子が無事生まれた村は、生涯豊作に恵まれると聞く。
「それも今日までの辛抱よ」
あの日から全てを惜しまず、あらゆる贅沢をさせた女の子供が、待ち望んだ神の子が、とうとうこの世に誕生するのだ――
引き換えに手に入る村の繁栄を考えて、男は想像の世界に心地よく身を任すために、うっとりと眼を閉じた。
『これでワシも、村も、何の憂いもなくなるのぅ』
「村長さま!」
妄想に耽る男を現実へと引き戻した声は、しか彼の喜びを更に加速し、舞い上がらせる内容だった。
「これはなんと名誉なことか! 來様が再びお越しになられました」
「これは、これは來さま!」
先触れなしで訪れた、村一番の大きな屋敷。
まろぶように出迎えた初老の男は、來を見るや否や、その場に深く平伏した。
「ようこそおいでくださいました」
地面に頭を擦り付ける勢いで敬う村長に、來は尊大な態度で頷くと、簡潔に要件だけを問う。
「子は生まれたか?」
「ええ、見て参りますので、ここでしばしお待ちを」
一礼と共に慌てて身体を起こし、村長は機敏な動きで立ち上がる。
今宵子が生まれる家は、村の中心から少し離れた場所に建っている為、確認に時間がかかるのだ。
神である來を待たしてはいけないと、村長は半ば走るようにして、客間を後にした。
――思う存分悦ぶが良い。 現在は、な。
誰もいない客間で、ゆっくりと唇の端で來は嗤う。
だが生まれた子供がもし神の子ではなかったとしたら?
祝福に訪れた私に、お前達は何を以て償うのか、さぞや楽しい見物だな。
この先に待ち受けるであろう余興に堪え切れず、來は独り小さな声を上げて嗤った。