明ける空-02(153)
「おいっ彗!」
背面の岩に出来た深い窪み。 彗は全身に強力をかけて、背中で騒ぐ皓達を窪みまで押しやると、近付く來をひたと見据えた。
「おや? 飼い主の言い付けを守れなかったか」
警戒も露わに鋭く睨みつける彗の視線に、クスリ、と夜に劣らぬ深さで來が笑う。
端整な顔に刻まれた酷薄な笑みは、直後に浮かべた冷徹な視線と相俟って、対峙する彗の言葉を喉元から奪い去ろうとしていた。
「何故ここに……」
僅かに絡んだだけの視線を外す事も出来ず、彗は唸りに近い声を絞り出し、喘ぐように疑問を口走る。
「私に愛しい人の姿を見に来てはいけないと?」
「くっ……」
それが至極当然のように、隠す事なく遙が愛しいのだと來は彗に告げ、沈痛な表情を浮かべた。
「……遙もお前達も何か誤解をしているようだが、私は彼女を救いたい。それだけだよ」
――彼女を助ける事が出来るのは、この世で唯一私だけなのだ。 何故それが遙やお前達には解らない?
時は満ち、生命は生まれる。 最後の仕上げをする為に、私は卑しい地上へ再び舞い降りた。
「遙を助ける……私はその為ならば、どんな罪にでも染まろう」
我がの生命さえ執着をしない遙。 消えかけた彼女の生命を繋ぐ、不毛で孤独な戦い。
だが彼女を生かす術が有るのなら、私は例え一瞬足りとも、この掌を汚す事を厭いはしない――。
「それとも何か? 彼女の眷属であるお前が、よもや彼女を助けてはいけないと?」
半ば独白のように、想いのたけを吐き出して。 笑う來の瞳は月光よりも冴え、どこか冷たく神々しい。
「無理だ。何をしても遙は――」
來が何ら特別な事をしている訳ではない。 にも関わらず來が醸し出す圧倒的な力の前に、彗は自然と気圧され、紡ぐべき言葉は空を舞う。
「遙は、何だ?」
途切れた言葉の先を促す声は、いっそ優しいとも言える口調で、彗に向かって投げかけられる。
悠然と佇む來とは対照的に、彗は渇いた唇を舌で湿らせ、言わなければならない言葉を必死で繋いだ。
「遙は――遙の気持ちは、変りはしない」
冷ややかな視線に侮蔑を込めて。 來は静かに彗を見つめ、呟いた。
「愚かな。何故彼女の気持ちが変らないと、お前に言い切れる?」
確かに彼女自身は私が何をしようと摂取を望まないだろう。 ――だが人間がそれを望めば?
「人間とは何と単純な生き物である事か」
伏せた言葉の意味も読めず、差し出したあからさまな偽りにしがみつく、単純で愚かな人間ども。
奴等に告げた戯言は、夜明けを迎え真実となる。
「だがお陰で遙は生きていける。……案外奴等には感謝すべきかも知れんな」
流した視線の先、陽光が辺りを染めるより早く、人工的に灯された光の中で、希望は生まれる。
「時は来た。宴はいまこの時より始まる」
「いったい何を……」
不可思議な言葉を残したまま、ゆらりと闇に霞みだした來の輪郭に気付いて、反射的に彗の身体が動く。
しかし追うように伸ばされた彗の左腕は、來の衣に触れる瞬間、何かに弾かれたように逆手に捩じ上げられた。
「がっ!?」
「たかが卵の分際で! 許可なく私に触れるでない!」
來の手は軽く宙に上げられただけで、彗の身体に直接触れてはいない。
が易々と捩じ上げられた腕は、驚いた事に何もない空間にその先を没していた。
『身体が動かない?』
來の拘束は消えた腕のみならず、全ての四肢の自由を一瞬で奪い、強力を誇る彗さえ難なくその場へと繋ぎ止める。
「お前は随分と威勢がいいようだな? 本来なら無礼なお前をこの場で始末するところだが、既に今宵の餌は確約された」
「何を……する気だ」
苦悶の表情を浮かべた彗に、一欠けらの憐憫を宿す事なく。
どこまでも静かな声音で來は告げた。
「それに慌てて殺さずとも、卵ならば斎と同様に、利用価値はこの先いくらでもある」
『斎と同じ、だと?』
独り言のように吐き出された來の言葉に、彗の全身を嫌な予感が襲う。
『俺がここにいる事も、遙が斎を伴う事も、何もかも來は予測していたと言うのか?!』
――物事の全てが、來の企てた計画を起点に動いているとしたら? では、村へと向かった遙と斎にはいったい何が起こる?
「くっ……うおぉぉー」
事態は一刻の猶予もままならない。
彗は拘束された左腕を引きずり出そうと、有らん限りの力を、呑まれた腕に込める。
だがかかる負荷が相当な痛みをもたらすのだろう。 獣のような唸り声が、彗の喉元から漏れた。
「ほう、さすがに遙の卵だけはあるか」
渾身の力を振り絞って、抵抗を続ける彗の姿を、どこか覚めた表情で見ていた來が、ふと妖しく笑う。
「?」
「……お前は抗う表情が遙に近いな」
近寄りざまうっとりと、全身を撫で上げるように、彗の耳元で囁いて。 來は身動きが取れぬ彗に告げ、嫣然と微笑んだ。
「くっ……ら……い」
限界以上の力を揮うつもりなのか。 強い意志を覗かせる彗の瞳が、薄い菫色から赤味を帯びた紫へと変化を遂げる。
同時に中空に呑まれた左腕は少しずつ、現世に姿を現し始めていた。
「ほう、お前の能力は強力か。なるほど卵の『それ』は、時として創造主の力を優に上回る……」
――厄介なものだな。
背後の闇に溶け込みながら、言葉とは裏腹に愉しげに來は呟く。 刹那眇められた、氷のような視線。
「そこでゆっくりと事態を眺めているがいい。一歩でも動けば、背後の者ともお前を殺す」
「!」
彗の気が背後へ逸れた、ほんの僅かな隙を見逃すはずもなく。 來は一瞬でその場から掻き消えた。
「……」