貴女を生かす為に……-04(146)
「斎? なんで斎が――」
喚く皓に、彗の鋭い眼光が投げられる。
黙れと眼で促すと、彗は一歩前に足を進め、その逞しい背で、皓と恭を庇うようにして、前方を見つめた。
彗の気配を察したのか、遙がちらりと後方へ視線を流すと、何事かを小声で囁いた。
「絶対にそこから動いてはいけない、だとよ」
皓や恭の耳には、遠すぎて何も聞こえない。 が、彗は遙の言葉を受けて、正確に呟く。
「いったい何が起きている?」
斎の『気』が急速に高まっている。 まるで臨戦態勢に近い、限界までの気の昂り。
遙が前を見据えたまま、傍らの斎に話しかけると、荒れた気はほんの僅かだが、鎮まりをみせた。
「ちっ。聞こえねぇ」
皓の苛立ちげな舌打ちと共に、恭までが、彗の顔を仰ぎ見る。
二人から無言の要求を受け取って、彗は微かに苦笑しながら、助け船を提供した。
「皓、恭。俺の身体のどこかに触れていろ」
「?」
「少しだけ俺の『力』を流してやる。これでお前達にも遙の会話が聞こえる筈だ」
眼の前に広がるは、深淵の闇。
周囲に他の光源が無い所為か、漆黒の暗闇の中、遙の屋敷だけが空中に浮き立つような奇妙な存在感を醸し出していた。
その灯りを背に受けて立つ皓と恭からは、遙と斎の姿が遠くからでも良く見て取れる。
同じ方角の、何もない闇の彼方を、揃って睨んでいる遙と斎の姿に、皓が疑問を抱いた時、変化は唐突に始まった。
「おや? 貴女の出迎えを受けるとは珍しい」
暗い空から降る、甘い声。 刹那、目の前の闇が不安定に大きく揺らいだ。
何者も存在しない暗黒の世界から、瀧のように見事な、長い銀色の髪が現世へと滑り落ちる。
『人……か?』
正体を見極めようと、懸命に皓が眼を凝らしている間にも、陽炎のような揺らめきは、謎の人物を闇から吐き出し続けていた。
『!』
次いで完璧と言う言葉が陳腐に思えるほど、恐ろしく整った容貌と、無駄の無い筋肉に覆われた肢体が顕になる。
冴えた月光を跳ね返す程の冷たい暗褐色の瞳にすらりと通った鼻梁。
薄く色づいた唇は、嫣然とした微笑をその端に刻んでいた。
「來……!」
感情を押し殺したような声音で、遙の口から名前が洩れた。
「……凄い美貌なんですけど」
彗の広い背中越し。 隠れて覗き見た來の容貌に、思わず恭が感嘆の言葉を漏らす。
遙と並んでも、何の遜色もなく彩られた來の容姿は、嫉妬心すら抱かす事を許さない。
「まさか、あれが來か」
遙から何度なく伝え聞かされた、対極の位置に存在する、もう一人の神、來。
外見上は遙から聞いていた印象とはかなり違うが、皓は來の本質を巧に見極めていた。
『何て能力だ』
遠く離れていても伝わる、來の桁違いの能力に、皓の身体に、自然と緊張による震えが走る。
「……」
触れた箇所から僅かな震えが伝わって。 彗は一瞬皓を無言で見据えた後、また視線を前方へと戻した。
「こんな時間に屋敷まで訪ねてくるとはな。私にいったい何の用だ、來」
皓達が初めて聞く、半ば詰問口調の遙に対し、來は慣れてでもいるのだろうか。
強気な遙の口調に動じる事なく、穏やかに言葉を紡いだ。
「おや? 愛しい人の顔を見るのに無粋な理由が必要ですか?」
「つい先日も私と直に話をしたはずだか?」
遙の厳しい切り返しにも構わず、來がゆっくりと、愉しそうな微笑みを浮かべ、言葉を返す。
「冗談ですよ。本当は貴女に、食糧の情報を教えに来ただけです」
「食糧?」
「ええ」
來は何故か一旦言葉を切ってから、遙の全身を改めて見つめ直すと、囁くように呟いた。
「……相変わらず、何も摂取していないのでしょう?」
「來!」
気色ばむ遙に対し、どこか感傷を込めた響きで、來は言葉を紡ぐ。
「例えば直ぐ近くに……手が届く位置に食糧が在るにも関わらず、相変わらず貴女は、奴等を喰べようとはしないのでしょう?」
夜の闇よりなお深く。 來が意味有り気な問いを遙に投げかけて、冷酷な微笑を頬に刻んだ。
『こいつ、いま斎を見なかったか?』
來が奴等をと遙に告げた時、一瞬だが、來の視線が斎に流れた事を、皓は視界が限られる中、しっかりと捉えていた。
「來。その件については何度も――」
「明朝、貴女の卵が誕生間もない状態で一つ、潰えるでしょう」
否定の表現を口に乗せた遙の言葉を、優しい口調で、けれど強引に遮って、來は続ける。
「……それはどう言う意味だ?」
「まだ温かい『それ』を、新鮮なうちに摂取すべきだと思い、私は貴女に知らせに上ったまでの事」
「來、私は!」
「お食べなさい、遙」
不意に強く言い切った來の口調は、先程までの様子とは明らかに異なり、真剣そのものだった。
「貴女のその髪。……一体何ですか!」
「……」
「太陽を跳ね返すほど眩しかった、黄金の焔はどこへ行ったんですか!」
痩せて褪色したその髪色は、現在の遙の生命力そのものを表しているようで、酷く辛い。
「愚かな奴等の生命を気にする、その前に、何故もっと自分を大事にしようとは、しない?!」
「……」
きつく唇を噛み締め、言葉なく俯いた遙に、來の精神が揺れる。
かけたい言葉は、本当はこんな言葉では決してないのに。
『遙……何度となく告げたように、私はただ貴女を護りたいだけだ』
自分の生命に頓着しない遙は、決して独りでは、長く生きられはしないだろう。
全ての事において稀薄な遙を、どうすれば地上へ繋ぎ止めておけるか、來は常に模索し続けていた。
『いっそ自由を奪い、鎖に繋いだ状態で。嫌がる貴女の唇を抉じ開けて、無理にでもその白い喉に、全てを流し込んでしまおうか――』