魂縛(14)
「本当にイエンって晴れる事が少ないな」
今日も相変わらずパッとしない空模様に、何だか瞭の心も少しばかり重くなる。
要は晩御飯楽しみにしてろ! のメモを置いて、朝早くに一人で猟に出かけて行ってしまった。
仕方なく偵察も兼ねて辺りを歩いていた瞭は、両手一杯の花束を抱えた綺菜とすれ違う。
「綺菜、そんなにお花抱えて何処行くの?」
足元ばかり気にしていて、周囲を全然見ていなかったのだろう。
瞭に声を掛けられた綺菜は、少し驚いた様な顔をした後、迷いながらも口を開いた。
「……妹のお墓参りに行くのよ」
「妹?」
「折角だから妹に瞭もお花を上げてくれる? 喜ぶと思うの」
思いがけない綺菜からの誘いに、瞭は二つ返事で頷いた。
『お姉ちゃんを連れて来て』
あの夜の出来事から実際のところ、綺菜にどう話を持っていけば良いのか解らなくて、
瞭はずっと一人で悩み続けていたのだ。
例え具体的な会話にならなくても、普段ならアビ相手に自分の考えを整理出来るのだが、こんな時に限って、
唯一の相談相手であるべき筈のアビは、何処かに出かけたまま帰る気がないらしく、
ここ二日程その姿すら、瞭の前に見せない。
そんな八方塞がりの状態での綺菜の申し入れは、瞭にとっては正しく天の助けだった。
「妹の事、黙っててごめんね」
やがて綺菜はお墓までの道すがら、ポツリポツリと、妹の事を語り始めた。
瞭の想像通り、やはり幼いあの子は綺菜の妹だったらしい。
「こっちよ」
道が途切れたその先の、獣道を掻き分けるようにして、綺菜が先へと進む。
故人を偲ぶ場所へと歩むべき道は、何故こんなにも誰も通った痕跡が無いのだろう。
暗く細い、舗装さえされていない雑草に半ば覆われたその道を、瞭は嫌な予感と共に歩む。
――――その異様な光景は、かなりの異質感を伴って、忽然と目前に現れたように、瞭には感じられた。
漸く辿り着いた村外れの小さな丘には、誰も訪れる人が居ないのだろう、荒れて伸び放題の雑草の中に
埋もれるように小さな白い板が、何本も連立しているのが見て取れた。
そして同時に膝丈程の草に埋もれて遊ぶ沢山の幼い巫女の姿と、動き回る彼女達とは対照的に、
此方を窺うようにじっと佇む、年若い何人かの女性の姿を、瞭の眼は、余すことなく捉えていた。
「ここが?」
死者の魂を埋葬した聖なる丘。
本来花や供物で溢れ返るべきその場所は、何一つ供えられた形跡がなかった。そればかりか、
奇妙な事に雑草に埋もれた辺り一面を丸く囲むように、大きな御影石が等間隔で地面に穿たれている。
石の表面には一つ一つ違った特殊な文字が刻み込まれており、それぞれの隙間を埋めるように、
石と石の間には、注連縄が二重に張巡らされていた。
それはこの場所に、ある種の強固な結界を作り上げてしまっていて。
村人によって歪めれたこの場所は、空気さえ汚濁していて、これでは誰一人として浮かばれない。
「ええ。ここが、お墓なの」
綺菜の何故か震える言葉に、反射的に瞭の眼が不安げに揺れる綺菜の視線を、捉える。
「こんな、誰も来ないような寂しい場所に?」
「……ここは唄い巫女だけのお墓なの。他の村人と違って、唄い巫女は死した後、魂が家に帰ってこないように、
村外れに埋葬する決まりなの」
「そんな……」
「巫女の魂は身体を亡くした後、速やかに神の元へ還るとされているわ。だから間違っても、村に魂は戻らない。
……いいえ戻れはしない」
自分の長い髪が風に攫われたのをきっかけに、綺菜はゆっくりと、手に持った花を全て、風に流し終える。
「だから誰も此処へは来ない、来てはいけない。巫女の魂は常に神の元に在るから」
「……」
恐らく元は白かったと思われるそれらの墓標は、綺菜の言葉通りなのだろう。
誰からも手入れされる事無く風雨に晒され続けた結果、例外なく沈んだ灰色となり、どれも無残に
半ば朽ち果てている。
同じように辺りを見回していた綺菜の顔に、ゆっくりと自虐的な笑みが浮かぶのが見えた。
「ねえ瞭。……家族なのに、お墓に花さえ供える事も出来ない気持ちが想像出来て?」
本来なら村の人間はこの場所に立ち入る事でさえ、禁忌なのだ。
彼女達の亡骸や魂は、この場所に存在してはいけない事になっているのだから。
「唄い巫女に選ばれた当時、妹はまだ僅か六歳だった。人一倍寂しがり屋のあの子は、家に帰りたいと
泣いて訴えたわ。けれど神に唄を捧げるのはとても光栄な事だと、誰も妹を助けてはくれなかった」
その時の事を思い出したのだろう、綺菜の頬を一筋の涙が音も無く滑り落ちる。
「……妹は余りに幼すぎて、村人が望むようには、唄えなかった」
彼女は毎日、毎日祠の中で激しく泣き続け、村人の説得にも耳を貸さなかった。
「一度巫女に選ばれた者を変更する事は、決して有ってはならない。けれど神に捧げ物を届けない訳にも、
いかない」
綺菜の妹は、一人だけ喉に包帯を巻いていたから、話の続きを聞かなくても、瞭にはその先が何となく想像できた。
「だから何らかの事情で選ばれた巫女がどうしても唄えない場合は、巫女の喉に細工をし、唄ではなく
綺麗な声そのものを、神に捧げる決まりになっているの」
あの日私達は、必死で妹を説得した。
村人達に対する理不尽さに眼を瞑り、自分達の身勝手さを責める心の声に耳を塞いで、どうにか妹を救おうと、
それこそ懸命に神に祈り続けた。
……けれど私達家族の祈りは妹にも、神へも届かず、幼い命は村の為、皆の為に儚い犠牲となった。
「従来の巫女なら声を失うだけで済んだのかも知れない。だけど妹は本当に、驚く程澄んだ、
天使のように綺麗な声を持っていたから」
爪が喰い込むほどきつく掌を握り締めて、綺菜は言葉を紡ぐ。
「妹は声を失うと同時に、己の全てを神に捧げる事と決められてしまった」
まるで他人事のように淡々と喋る綺菜の様子に、その時受けた心の傷の深さが垣間見える。
「どういう……事?」
「村の古くからの慣習でね。優れた才能を持って生まれた巫女は、魂が穢れてしまう前に、
その魂を神に捧げる決まりなの」
「それは……唄わずに贄にされると言う事なの?」
微かに綺菜と瞭の声が震えるのは、きっと寒さからでは無くて。
その場で貢物となった妹は、飢えを感じなかっただけ、まだマシなのかも知れない。
祠から運び出された小さな亡骸を前に、両親と前回の巫女の関係者は、そう呟いた。
余りの恐怖からか、強く握りしめた妹の掌は硬直し、両親がどんなに努力しても、その小さな掌を開くことは、
出来なかった。
喉に血の滲んだ包帯を何重にも巻かれ、開いた瞳には涙が溜まったままの妹を見たとき、綺菜の中で何かが壊れた。
「どっちでも同じ事よ! 結局巫女は誰も生きて帰れない。唄い続けて死んでしまうか、声を奪われ
その場で殺されるか、大した違いは無いわ!」
「綺菜……」
神木の枝に大量に現れた巫女達の魂。
彼女達の過去を、瞭は魂と直に接触する事で、垣間見た。
本来在るべき恨み辛みはその幼さ故か、彼女達の心に不思議と存在していなかった。
恐らく永劫に憎み続けられる程、彼女達が大人ではなかった事が、起因しているのだろう。
それに比べ現世に遺された家族の恨みは深く、出口がない分、募る恨みは尽きる事なく滞留し、
激しい怨嗟となって、些細なきっかけでも全身から溢れ出す。
「何故、いままで誰も止めようとしなかったの?」
瞭のこの問に綺菜が突然、弾かれたように笑い出した。
「何故止めなかったか? そうね何故だか判る? そうすれば村に恩恵が賜るからよ」
「!」
「貢物を捧げれば捧げる程、村は豊かになった」
『望みを叶え、村を豊にすれば、こんな馬鹿な考えは改めてくれるのだろうか?』
「そんな! でも止めてみないと結果は出ないじゃないか!」
「貢物を止めると村は元の状態に戻ってしまうかも知れないわ」
『もう止めてくれ。お前達の願いは叶えてあげるから。これ以上幼い犠牲は沢山だ』
「願いを叶えて続けて貰うには、貢物も永遠に差出し続けなればいけないのよ」
「そんな……そんな考えは」
両者の考え方のズレに、喉の奥が乾いて言葉が出ない。
遙は例えどんな貢物でも、自分から望んで欲した事はただの一度足りとも無い。
まして願いを叶える引換に命を貢物として要求する事など、絶対に有り得ない。
「ここの村人は他人の命の上で豊かに暮らし、その事実から眼を反らして生きているの」
『何故そこまでする必要が有るのだろう? 本当に他の選択肢は無かったのだろうか』
遙。思わず眼を瞑る。
「他人の命と引き換えに願いを叶える神なら要らないわ! 自分達が安泰なら、他人の命を平気で奪える村も
必要ない!」
言いたい事を全て吐き出したのだろう。
てっきり泣き出すものと思って身構えた瞭に対し、綺菜は意外にも唇をきつく噛み締めて、
全身で泣くのを堪えていた。
そんな切ない綺菜の態度に、瞭は慰める事すら出来ず、ただ黙って傍らに立ち尽くす事しか出来なくて。
綺菜に何も出来ない瞭は、いつかの晩に要に告げた言葉を、胸の内で思い出していた。