思い遣る心(137)
「遙!」
結界を越え、敷地内へ足を踏み入れた瞬間、背後から聞き慣れた声で呼び止められて、遙は振り返る。
「彗?」
陽光を背に、流した遙の視線の先で、大木の木陰に身を預けている彗の姿を、見咎める。
「どうした、そんな処で?」
逆光による反応だろう。 此方を見て、眩しげに眼を細めた彗の様子に、遙は自らが歩みを寄せた。
「いや特に理由は無い。偶然ここを通りがかった時に、遙の気配を感じただけだ」
「そうか? だが有難う」
わざわざ出迎えた訳ではなく、通りかがっただけだと主張する彗に、遙は事もなく礼を述べる。
「……」
遙の労いの言葉を受け、ピクリと神経質そうに動いた彗の眉に、遙は真実を見つけると、嬉しげな微笑を浮かべる。
幼い時からの彗の癖。 己の考えを読み当てられると、彗の片眉は、僅かに跳ねるのだ。
彗のずば抜けた聴覚の良さは、卵だけが持ち得る固有能力の一種だ。
卵によって保持する能力がそれぞれ異なる為、遙とて、卵達の能力全てを、掌握出来ている訳ではないのだが。
『本当は私の足音を聞いて、待っていてくれたのだろう?』
屋敷に住まう卵の中で、最年少に位置付けられる彗は、他の卵達と比べ、感情表現が各段に豊だ。
守るべき決まり事は厳守するが、それ以外は基本的に、遙と斎以外の命令は聞かない。
そんな自由奔放な彗の態度は、彼がまだ若いと言う、証拠でもあるのだろう。
時して斎の予知を大きく上回る行動を起こす彗に、未だに遙は驚かされる事も多い。
『大人なのか、子供なのか。彗は変わった卵だな』
驚くほど大胆な行動を取るかと思えば、緻密で繊細なまでの気遣いをみせたりもする。
あの日怪我を治すと言った遙に、黙って彗が差し出した包帯は、その象徴のようで――
「……」
ふと見詰めた遙の視線を感じ取ったのか、彗が己の掌を見遣ると、「ああ」と笑い声を上げる。
「これか。本当はもう、とっくに治っているのだがな」
「ならば何故包帯を?」
不思議そうに、少し小首を傾げた遙の様子を見た彗が、ふっ、と全身で柔らかく笑う。
「……何を笑っている?」
甘い響きに感じる、拗ねたような遙の物言いに、不安定に揺れる彗の精神が、何故か酷く触発されて。
――気付けば彗の両腕は遙を捉え、抱き寄せていた。
「彗?」
戸惑った様子で、彗の名を呼ぶ遙の唇を、鍛えた腹筋で塞ぐように押し潰してから、彗は撓る遙の背に手を当てて、更に深く抱きよせる。
「……少しだけ、遙」
辛うじて絞り出した声は、彗自身が驚くほど掠れていて。
微かな身動ぎと共に洩れる、諦めとも取れる、遙の吐息を感じても、なお。
胸元に包んだ、小さくて柔らかな遙の身体から伝わる、少し早めの鼓動と体温が、どうしてか、胸を衝くほどに切ない。
『俺は一体何が不安で、何が怖いのか?』
胸を占める不安を掻き消したくて、遙に逃げている己は、何と弱い人間なのだろう――
「彗。斎は大丈夫だ」
抱き締めた小さな身体から聞こえた、恐らくは己がもっとも聞きたいであろう、言葉。
「!」
思わず身体から遙を引き剥がし、彗は遙の腕を掴まえたまま、至近距離で見詰め合う。
「遙、どうしてそれを」
「うん?」
彗の突然の行動に動じる様子もなく、遙の瞳に宿る感情は普段通りで、少しの揺らぎすら、感じさせない。
「……理由を聞きたいかい、彗?」
遙の言動は何もかもが、彗の考えを読んだ上での、発言なのか。 それとも。
問い返した遙の言葉に、彗は軽く眼を見張ると、否定の意を口に乗せて、首を振った。
「いや、いい」
即座に否定した彗の様子を見て「ならば違う事を教えようか」と遙は薄く微笑んだ後、言葉を繋ぐ。
「斎は矜持が高いから、中々お前を相手に、素直な感情を表すことをしないだろう」
皆が集う屋敷の中で。 一番の年長者でも有る斎は、その背に責を負って立つ、過酷な立場にいるのだ。
弱音を吐ける立場ではない事を、斎自身が嫌と言うほど、理解している。
「けれど彗。お前が斎を信じているか、どうか。本当は斎自身が一番不安なのだよ――」
「斎自身が……」
斎が迷うなどと、考えた事は無かったかも知れない。
いつも強い斎の背中を、彗はただ我武者羅に追って来ただけだから。
「斎とて完璧ではない、という事だよ」
穏やかにそう告げる遙は、全ての事象を把握した上で、斎を疑いもしないのだろう。
『それに比べて俺は斎を――』
「斎に育てられたお前も、素直ではないからね」
無意識に強く握り締めた彗の拳に、遙はそっと包むように己が両手を重ねて、更に深く微笑んだ。
「ねぇ彗。お前自身は、大丈夫なのかい?」
先程よりほんの少し、心配そうな声で訊ねられた言葉に、彗は苦笑する。
やはり見抜かれていた己の中の迷い。
何故、と改めて、己は遙に聞く必要もないのだろう。 遙は全てを見通せる者なのだから。
「俺は、……いや俺も大丈夫だ、遙」
闇に一度でも足を踏み入れた魂は、度々耐え難い誘惑に襲われると聞く。
守らなければならない絆。 譲れない想いは強く、自ら手放す訳には、絶対に、いかない。
『斎が俺を信じてくれるのなら。何があっても、斎は俺が闇から救い出す』
「ああ。もうこんな時間か。早く屋敷へ戻らなければね」
斎の気持ちを彗に伝えた事で、この先彗の気持ちが不安に揺らぐ事はないだろう。
彗の引き締まった表情を見てそう判断すると、遙は溜息と共にわざと大袈裟に呟いて、彗の注意を内側から外へと惹いた。
「本当だ。帰るか」
遙の声に確認した陽光の位置は低く、冷たい風が二人に早く屋敷へ帰れと後押しする。
予想通り彗の意識が逸れた瞬間を利用して、遙はまだ己に回されていた彗の腕から、ごく自然に擦り抜けると、屋敷へと歩を向けた。
「ああ、そうだ遙」
「うん?」
屋敷へと続く扉に手をかけた時点で、彗が思い出したように、遙の姿を振り返る。
「皓と恭が若返った」
「?!」
大きく眼を見開いて絶句した遙に一つ頷いてから、彗は確認のように、鷹揚に呟いた。
「副作用の類ではなく、どうやら申し子達は、必ず全員若返るようだな、遙」
「……のようだね」
『やはり皓と恭には誤魔化さず、きちんと説明しておくべきだったか』
などと言い訳を山のように考えながら、遙は二人から詰問される事を想像して、力無く頭を垂れた。
「大丈夫だ遙」
けれど。温かい言葉と同時に遙の頭に載せられた、彗の大きく力強い掌。
「何かあったら、俺が遙を守ってやる」
「彗、それはどう言う意味だ?」
「深く考えなくてもいい。俺が後ろについているから、という意味だ」
「? そうか別に一人でも、私は大丈夫だが」
不思議そうな表情で言葉を返した遙を、彗は不遜な笑顔で促して、皓と恭の部屋へと向かった。
――その言葉通り、しどろもどろで皓と恭にあれこれと詫びを述べる遙の直ぐ後方で。
「……皓、これって」
『一種の強迫というものでは?』
敢えて言葉には出さない恭の無言の訴えを、皓は正確に読み取ると力なく返事を返す。
「ああ……間違いねぇ」
遙に気付かれぬ範囲で、両腕を組んで必要以上に自分達を威嚇し続ける彗を相手に、皓と恭は成す術もなく、
全面的に遙の謝罪を受け入れるしか、救いはなくて。 無論、鈍い遙がその理由に気付く気配は、存在しない。
「良かった」と軽い足取りで去っていく遙の後姿を、皓と恭はそれぞれ万感の思いを込めて、遠い目をして見送った。