闇の誘惑(136)
「皓、お前は闇の存在を知らないから、そんな事が言えるのだ」
緩やかに皓の意見を否定した斎に、皓は言葉を再度重ねて、正しく意味を伝え直す。
「……いいや斎。俺は昔闇に呑まれかけた事があるから、知っている」
「皓?」
知らなかったと言いたげな表情を浮かべた恭に、皓は一つ頷いてから説明を始める。
「恭に逢う、ずっと前の事だがな」
気の狂いそうな孤独に包まれていた日々。
軋んだ精神の狭間を縫って、闇は段階的に柔らかな触手を伸ばす。
徐々に侵食され、堕ちていく精神と引換に、身体の奥から湧き出る、言い知れぬ昂揚感。
自分が世界の全てだと思い込み、恍惚感さえ漂う歪んだ精神を、闇の懐は、抗い難い優しさを伴って抱き締める。
――身を任せればどんなに楽になれるだろう。 絡み取られた手足を委ね、何もかもを放棄してまえば、俺は――
けれど闇の中に差し込んだ、視界を覆いつくすまでの、明るい光を伴った恭の存在。
『だって俺、皓と友達になろうって、決めたんだ』
互いに人間に在るまじき力を持った者同士、取り巻く状況は共感しか生まなかったのは確かだ。
気紛れで受け入れた皓に対し、笑顔と共に皓に向かって真っ直ぐに差し出された、恭の掌。
思えばあの日から、皓の魂が闇に囚われかけた事は、一度も無い。
『決して闇に落ちてはいけない。他人との繋がりを、絶ってはいけない』
何度も皓を正常な位置へと縛り続けてくれた、不思議な子供が残した、言葉の意味。
自分の気持は誰にも理解出来ない。 自分は独りだと思い込む事から、闇は生まれる。
どうせ理解出来ないからと、最初から心情を吐露しなければ、当然誰も踏み込めず、重い荷物は自分独りで背負うしかない。
「俺は誰にも何も打ち明けた事はない」
辛い事も、楽しい事も。 自分の生い立ちすら、何一つとして聞かせた事はない。
恭が訊ねない事を逃げ道にして、遙の屋敷を目指している事すら、皓はぎりぎりまで、恭に打ち明けはしなかった。
「だが全てを独りで背負うと言う事は、裏を返せば、他の誰をも信用してはいないと言う事に、繋がる」
誰も信じられぬ事で、否応なく孤立を深めた精神は、結果として闇へと棲み処を求める以外に、安住の地を得られる事はない。
「事実、俺は誰も信じていなかった。それで良いと思っていたし、人間は所詮独りだと考えていたからだ」
けれど無条件で皓を信頼する恭の姿に、いつからか、皓の中で言い表せぬ迷いが生じ始めて。
『俺は何故誰も信じない? 信頼した相手から手酷く裏切られた時が怖いからか?』
恭と出逢ってから、皓の胸中で何度なく繰り返された、自問自答のなれの果て。
――違う。 本当は俺は誰かを、……恭を信じたい。
だが精神の根底に横たわる、皓の暗い過去が、それを全身で拒絶する。
恐れられ、家族からも疎まれた存在。 利用されるだけ利用された、自分の「力」
『隣で笑う恭がそうでないと、どうして解る?!』
裏切りが怖い訳ではない。
ただ単にもうこれ以上、相手を信じる事によって、自分を傷つけたくないだけだ。
信じたい気持と、傷つきたくない気持と。
追い詰められ、極限の状況下で働いた皓の自己防衛本能は、恭から逃げだす道を選んだ。
「俺は恭から何度となく逃げ出した」
けれど。
『ここにいたんだー』
振り払っても振り払っても、諦める事なく差し伸べ続けられた、温かい恭の掌。
真剣に他人と向き合う場面を、意識してずっと避けて来た皓に、恭は向き合う大切さを教えた。
「自分が信頼した相手が裏切るか裏切らないかは、誰にも解らねぇ」
だが先ず自分が相手を無条件に信じなければ、相手の信用も得られる筈がない――
「俺にそれを教えてくれたのは、恭だ」
「皓……」
「何故そう言い切れる? 親友だから、とでも言うつもりか」
辛辣な言葉を皓に向って吐き出す斎を、どこか冷めた瞳で見詰めた皓が静かに返す。
「……俺と恭が親友かどうかは解らんが、俺は恭を信じると決めた」
例えば恭が闇に堕ちても、今度は自分が恭の掌を決して離さない。 そう決めたから。
「皓……」
「そして恭は絶対に、俺を裏切る事はない」
臆する事なく言い切った皓に、何故か視線を絡める事が難しくなった斎は、僅かばかりに眼を逸らす。
――皓の何が、そんなに己を苛立たせるのだろう。
己の中で蠢く暗い感情を、なかなか律する事が出来なくて、斎は軽い戸惑いを覚える。
彼等の……皓と恭の考えを青いと感じながらも、何処か羨やましいと感じるのは何故だろう。
正論が必ず通るとは限らない。 まして奇麗事や、理想論だけでは生きては行けない。
仲間を信じているからこそ、口に出して言えない事柄もまた、確かに存在するのだ。
「だが皓、闇の誘惑は抗い難い」
「ああ。けど俺は、いや俺達は大丈夫だ」
互いに信じられる人間が傍にいる限り、俺達二人の魂が闇に囚われる事はない――。
「……」
皓の揺るぎない強い言葉と視線を正面から受け止めて。
斎の中でようやく結びついた全ての事柄。
――ああ、そうなのか。 多分己は皓に違う人間を重ねていたのだ。
冷静な思考の片隅で過ぎる、心配そうな親友の顔。
性格が似ている二人だから、同じような言葉を、必ず彼も斎に告げるに違いないと、そう己は推測したのだ。
矜持の高さは、時として感情を素直に表す事すら、頑なに拒絶する。
己を信じているかと、本当に訊ねたい相手は他にいるのに、斎は皓と恭を利用して、疑似の答えを得たのだ。
「……皓、恭。今日の講義はこれで終わりだ」
「まだ大した時間でもないぞ?」
「いや。もういい」
自室で待機するようにと、皓と恭を半ば急き立てるようにして、斎は二人を外へと追い払った。
誰もいない室内で一人。
冷たい壁に背を凭れさせて、天井を仰ぎ見る斎の唇から溜息と共に洩れる、本音の一言。
「だが彗に直接聞けるくらいなら、己は己を止めているだろうよ――」