真に大切な、もの-03(128)
「ねえ、皓。斎はどうしてどうでも良い事だって言ったのかな?」
斎の態度にどこか不自然な感覚を覚えるのだ。
とても小さな違和感は、斎が遙と対峙した時にだけ、僅かな形となって表面に現れる。
投遣りとは違う、強いて挙げるとすれば、自暴自棄に近い印象を抱かせる斎の態度。
「斎と遙ちゃんの間に何か問題でも有ったのかな?」
「……恭」
「うん?」
「うるさい」
結局あの場から追い返された皓と恭は、不承ながらも、斎の命令通り起床時間まで大人しく眠る事に決めたのだ。
だが寝床にも入らず、部屋の中央を所在無げに呟きながら彷徨う恭を見ていると、眠ると言う選択肢自体が無かった事のように、皓には感じられて。
「はー」
諦めとも取れる大きな溜息を一つ付いて、皓は仕方なく寝床から背中を起こした。
「なぁ、恭。例えば遙と斎の間に『何か』が有ったとしても、俺達が口を出せる問題じゃねぇ」
「うん……」
「それに斎に何か有った場合、彗が黙っちゃいねぇから、安心しろ」
「彗が?」
「ああ。多分彗は遙と同じくらい、斎が大事だ」
へぇーと驚く恭に「解ったら大人しく寝ようぜ」と声をかけて。 皓は再び身体を横たえる。
満点の星空を眺めた湯船で。 普段は自信に満ち溢れた態度を取る彗が、不安で脅えながら聞いた、皓への問い。
『なぁ皓。例えだが、お前なら親友である恭を……』
途中で空へと消えた彗の言葉。 あの晩、彗は俺に何を尋ねたかったのだろう――
「おい皓、さっさと起きろ!」
「?」
いつの間にか熟睡していたのだろう。 怒鳴り声と共に、腰の辺りを軽く蹴られて、皓は低く呻く。
寝惚けていても、相手が一言も喋らなくても、誰の仕業か判断出来る所が、その男の存在を認めているようで、皓は少し哀しい。
「……ちっ。この暴力野郎が」
「何っ!?」
囁き程度に漏らした言葉も聞き逃さない彗の聴覚に、皓は布団の中で舌を巻く。
仕方なく這い出た先に、仁王立ちの彗の姿を確認して、皓は所在無げに頭を掻くと、大袈裟な溜息をついて見せた。
「挨拶が聞こえんが?」
「ああ? 勝手に人の部屋に押し入ってだな――」
言い返そうとした途端、不意に彗の左腕に首を強く挟まれて、後の言葉が続かない。
「うぐぐーっ!」
「皓!」
彗は慌てふためく恭に、本気ではないから口を出すなと、暗に視線で行動を諫めた。
「子供が生意気言っちゃいけないよなー?」
副作用で随分小さくなった皓の身体は、容易に捕らえる事が出来て、とても面白い。
暴れる皓の頭部を、散々ぐりぐりと、気の済むまで弄んでから、彗は皓を解放した。
「何しやがる! 彗!」
「弟子に対する躾けだ、馬鹿」
薄っすら涙眼になっている皓に、彗は顔色一つ変えずに、平然と言ってのけると、戸口へと踵を返した。
廊下へ続く扉に手をかけて、彗は未だ呆然としている恭と皓に、顎で要件を伝える。
「二人とも早く庭へ来い。俺が直に訓練を付けてやる」
斎が倒れるという思わぬ弊害の所為で、訓練は予定通りに進まず、契約も遅れた。
本来ならば、皓と恭は屋敷に集った他の候補生と一緒に、鍛錬を積む予定だったのだが。
遙を慕い屋敷に集った者は、有無を言わせず、先ずその場で様々な適性検査を強いられる事になる。
その結果に基づいて、それぞれが己の能力に応じて適所に振り分けられるのだが、当然この結果に納得がいかない者も、多数存在する。
例えば戦闘能力がないと判断された者は、幾ら本人が切望したところで、武器を手に持つ事は許されない。
屋敷内で強者から鍛錬を受ければ強くなれる、と喰い下がったところで、誰も耳すら貸そうとはせず、周囲から下山を勧められるのが関の山だ。
素質のない者を鍛え上げる必要性は確かに無いのだが、基本訓練すら受けさせて貰えない厳しい現状を前に、失望の余り屋敷を去って行った者も数多い。
「まあ、あの二人と一緒に訓練させられる立場も辛いか」
所詮、実力の世界なのだ。
ずば抜けた皓と恭の能力を目の当たりに見せ付けられれば、己に自信を失う者も多いだろう。
皓や恭と共に鍛錬を受けなかった事は、他の候補生にとって、むしろ幸運かも知れない。
「あいつらはただの申し子ではないからな」
身体の何処にも刻印が無い事から、皓と恭は『卵』ではない事が、既に確証済みだ。
だが彼等二人が肝心の『逸れ』かどうか、まだ結論は出ていない。
見分けをつける為の証拠が何一つ存在しなければ、確定は慎重を期さざるを得ない。
「さて、どっちの逸れやら」
本当は彼等を仲間だと認めたくはない。願わくば來の逸れであるようにと、彗は現在も心の底から祈っている。
だが。
皓や恭と接触する事で、遙の様子が良い方向へと変わった事は、仲間の眼には至極明らかな事実で。
いつの頃からだろう。 緊張という名の、強硬に積み上げられた、見えない砦。
脆く壊れそうな精神は、明日が存在する事を思い出し、希望を夢見る事で、何とか踏み止まった。
『遙』
華奢な身体を支えてやる事なら出来る。 何を犠牲にしてでも、敵から護り抜く絶対の自信は、常に己の中ある。
けれど細く揺らぐ遙の精神は、俺達卵では支えてあげる事がどうあっても叶わない。
「どちらの逸れとしても、結局は認めるしかない、か」
例え來の逸れであろうが、遙が再び笑うなら、俺達は受け入れるしかないだろう。
『……で、アビがぶら下がった時の皓の顔ったら――』
遙。俺達が切望した貴女の笑顔。無邪気に浮かんだ本当の笑みを、俺達はどんなに長い間待ち焦がれていた事か。
俺達が何年かかっても成し遂げなかった事を、易々と乗り越えていく皓と恭の存在。
嫉妬と羨望の焔は確かに己の身を焦がすが、何よりも彼等の存在は遙にとって必要に違いないから。
「皓と恭。彼等二人と出逢った事で、遙の何かが、これから大きく変わるだろう」
確かな予知の能力を持つ、斎の言葉。
未来の映像は斎にしか見る事が出来ないが、予知能力が無くて良かったと、心の何処かで安堵したのは、彗だけではなかった筈だ。
その場にいた大半の卵の頬に、浮かんだ苦い笑い。
大きな変化が訪れる事は、遙にとって救いを齎すのだろうが、同時に取り残された俺達には、どう作用するのだろう。
――卵である俺達にとっては、多分、非常に好ましくない変化。
それでも遙が少しでも幸せになるのなら、己は迷わず遙の背中を押し出す立場に就こうと、彗は誓う。
『遙は誰かが背中を押さないと、自分では決して踏み出せない』
だから。
『……まぁ、当分の間は訓練と称して、憂さ晴らしでもするか』
皓と恭を相手に、いつまで己が優位を保てるかは、予知の利かぬ彗には解らない。
だが簡単に地位を譲る気もまた、彗にはなくて。
『覚悟しろ。遙の傍らに立つ事が出来る地位は、まだ絶対に譲らない』