真に大切な、もの-01(126)
「いやだから、まだ時間的に無理だって」
痺れた顎の所為で発音は限りなく怪しい。
この場合、舌を噛まなかった事がせめてもの救いだと思うべきなのか、思案しつつも恭は何とか言葉を絞り出す。
「それにまだ、遙ちゃん達はイシェフから帰ってきていないかも知れないよ?」
念の為にと、遙から外出禁止令が出された皓と恭には、昨夜のイシェフでの労働がいつまで続いたのか、解らない。
「……」
「ね、皓。取り敢えず武器は元の場所へ戻してくれる?」
万が一にでも、斎達に謀反をおこしたと誤認された場合、一瞬の後には揃ってイシェフで倒れているに違いない。
「以前みたいに背中に紙が貼られる程度で済めば良いけど、風穴でも開けられたら、俺達どうするんだよ?」
神様の眷属だから、眼に余る惨い仕打ちはしないだろう。
が反面、嘲笑を誘う悲惨な状況に置かれる事は、想像に難くない。
「それに絶対、遊ばれる」
「……確かに。斎はともかく、遙と彗あたりなら嬉々として遣りかねん」
即座に否定できない事が、この屋敷に馴染んでいる証拠だとしたら、余りに哀しい気もするが。
「解ったら武器を置いて、出来るだけ静かに見に行ってみようか、ね?」
「ああ」
光源を絞った薄明るい闇の中、先導を切って歩く皓の背中は想像以上に小さくて、自分も幼くなっているに関わらず、恭は不思議な感覚に捕らわれる。
『皓って、背低かったんだなー』
万遍なく緩やかに背が伸びた恭とは違い、皓はある一定の時期を境に、急激に背が伸びる形なのだろう。
昨日まで、優に頭一つ分高かった皓の身長は、現在は恭の胸元程度でしかない。
『うーん、幾つくらいになってるのかなー? 声変わりもまだとなると、かなり若くなってるよね、俺達』
恭は冷静に状況を把握しようと試みるが、如何せん与えられた材料が余りに少な過ぎて、原因を追究するに至るまでもなく、早々と挫折する。
長い廊下を、足音を立てずに移動したにも関わらず、目指す遙の部屋の前に人影を見つけ、皓が低く唸る。
「待ち伏せか!」
薄暗闇の中、扉に長身を軽く凭れかけさせ、眼を閉じた格好の彗が、皓の言葉に不機嫌そうに薄紫の眼を開く。
「馬鹿が……俺の何処にお前を待つ必要が有る?」
「違うのか?」
「あのなぁ……」
言葉遣いに気を付けろと零しながら、彗は組んでいた腕を解き、肩と首を大きく廻した。
「丁度交替の時間だ」
「交替って」
彗の言葉に恭が説明を求めるより早く、斎が隣室から姿を現し、彗に無言で頷いた。
「斎?」
私室から出て来たにも関わらず、何故か全身に寒気を纏った斎に、恭が不思議そうに呼び掛ける。
「彗、今宵は冷える」
「そうか」
呟いた斎に頷き返すと、彗はちらりと皓と恭に視線を投げてから、自分の部屋へと戻っていた。
「何だ、あいつ」
「こんな時間に、お前達こそどうした?」
自室に消えた彗に悪態を付く皓を無視して、斎が恭に疑問を投げ掛ける。
「どうしたって……。俺達のこの姿を見て、斎も彗も何とも思わない訳?」
「多少は若くなっているようだが、何か不都合でもあったか?」
不都合と言う斎の言葉に、皓が激しく反応すると、斎に物凄い剣幕で捲くし立てる。
「大有りだ! 俺の背を返せ!」
「いや皓、そんな事じゃなくって」
「何がそんな事だ!」
誰彼構わず噛み付く皓に、最早話し合いにもならないと踏んだ斎は、皓と恭に一度自室へ帰るよう促した。
「時間になれば、改めて遙から話が有るだろう。それまでは自室で待機していろ」
緊急を要する件ではない限り、朝早くから遙を起こす必要はない。
「大人しく自室へ戻らないなら、実力行使をするまでだが」
と斎に真顔で告げられては、さすがに皓も恭も、その場で黙り込む以外方法はなくて。 滲む悔しさに、唇を噛む。
「帰るな?」
「……」
何だか本当に小さな子供に戻ったようで、斎の言葉に素直に頷けない自分がいる事を、皓はどこか他人事のように感じていた。
『俺は身体だけじゃなく、精神までもが幼くなっているのか?』
不可思議な現象が身体に影響を及ぼしただけで留まらなかったとしたら? 精神も同様に若返っている可能性は大きい。
『……くそっ!』
「ねぇ斎。一つ教えて欲しい事が有るんだけど」
「何だ?」
押し黙った皓をこれ幸いと、恭は疑問を口にする。
「彗はさっき交替って言ったけど、もしかして斎達は見張りでもしているのかな?」
「聞いてどうする?」
「うん? ただ変わった警備だなーと思って」
屋敷の入口ならまだ、理解出来るのだ。 だが斎と彗は、屋敷の内部に位置する遙の部屋を、直接守っている。
「どこが変わっているんだ?」
矛盾に気付かない皓に、恭が噛み含めるように、ゆっくりと言葉を選んで説明する。
魔物の来襲に備えた警備なら、外部に重点を置き、内部を見張る必要もないだろう。
いくら結界が存在するとはいえ、誰も屋敷の外を警備している様子はなく、遙の部屋のみ厳重に守られている。
「導き出される答えは二つ有るんだけど」
一つは遙自身を、斎達が監視している可能性。
「でもこれは不自然だよね? 遙ちゃんを監視したところで、何にも得るものはないだろうし」
「……」
険を含んだ斎の視線を真っ向から受け止めて、恭は恐らく正解に近い答えを口にする。
「もう一つは、遙ちゃんを仲間から守っている可能性」
「仲間から? 何故そんな必要が?!」
驚いた皓の様子を横目で捉えながら、恭は「理由は斎に聞かないと」と小さく囁いた。
「……斎、話してくれないかな?」
「遙を守っている理由を、お前達が聞いてどうなると言うのだ」
「もし俺と皓で協力出来る事が有れば――」
「何もない」
「けど!」
「理由を知って苦悩するならば、知らぬ方が良い事も存在する。どの道、お前達に踏み込める領域ではない話なのだから、触れる必要もなかろう」
「役に立つか立たないかは、俺達で判断する。斎に決めつける権利はねえよ」
「皓!」
「自分一人で背負う必要はないだろう? 何の為の仲間なんだ俺達は!?」
――遙も、彗も、斎も。何でこの屋敷の人間は何でも自分で背負いたがる? そんなに仲間が信用できないのか?!
「……いや、皓。そうではない。何も仲間を信用していないからではない」
それでも事情を話すかどうか、決断に迷っているのだろう。 しばらく何事かを逡巡した斎は、躊躇いながらも口を開いた。
「そうだな、逆にお前達は知っておく必要が有るかも知れん」
「求め、願えば必ず遙は応える」
契約を終えた時に遙から伝えられた約束事。 遙は契約を通して眷族となる全員の未来が視えるという。
「お前達の命が尽きるその日に、たった一つだけ、望む『願い』を叶えよう」
契約と引き換えに、必ず叶う最期の願い。 遙が口にした言葉は、未だ二人の記憶に新しい。
頷いた皓と恭に、斎は一瞬だけ眼を伏せて、何かを吐き出すように、言葉を続けた。
「己に出来る事ならばと、遙はこちらの要求に可能な限り、応えようと努力するだろう。……例えそれが身体を合わす事であっても、だ」
「それは幾らなんでも遙ちゃんに失礼じゃない?」
勝手に決め付けるないで、と訴える恭の意味を正確に汲み取った上で、斎は続ける。
「遙はお前達が考えているほど、自分に重きを置いてはいないし、聖女でもない」
「斎!」
「何故なら俺は現場を目撃したからだ」
「!」
あの日、間一髪で踏み込んだ斎に、一糸纏わぬ姿で遙は応えた。
怒りのおもむくまま、申し子をその場から追い返し、睨みつけた斎の視線に動じることなく、遙は淡々と胸中を述べた。
「斎。例え最期の願いでも、私の心は誰にもあげる事が出来ないのだよ」
皆を統べる立場にいる以上、誰か独りの気持ちに応じる事が、叶わない。
「そもそも誰かに心を明け渡すという意味自体、本当はまだ私には理解出来ていないのだけれど」
そう薄く微笑む遙を、斎はどうしても許す事が出来ずに、感情のまま激しく怒鳴り返す。
「だから代わりに身体を与えるつもりだったと、そう言うつもりなのか!」
「それが彼ら申し子の『願い』ならば」
「願いなんかどうでもいい! 遙どうして自分を大事にしようとしない?」
遙の考え方が全く理解出来ない。 感情がついていけず、怒りで眼の前が暗くなる。
斎は掌を硬く握り締めて、遙の頬を力の限り張りたくなる衝動を、辛うじて堪えた。
「ねえ斎。人は自分の命が明日潰えるとしたら、最期に何を願うのだろう?」
偽りと知りつつ、それでも恋焦がれた相手と一夜を共にしたいと、本心で願うのならば。
その彼等の切なる想いを叶えようとする私は、何処か間違っているのだろうか。
「正しい、正しくない問題ではなく、俺はただ遙に自分を大事にして欲しいだけ――」
「大事にしている!」
斎の言葉を、突如強い口調で遮って、遙は続ける。
「……自分を大事にしているから、私は彼等の命を踏み台に、今日もまだ生きている」
「遙……」
一瞬強く唇を噛み、静かな声音で、付け足すように囁かれた遙の言葉。
「私には彼等に還せる物がない。文字通り、自分の為に命を落とす彼等に対し、何一つ」
不埒な行為だと遙を責める事は簡単だった。低俗な願いをするなと相手を責め立てる事も。 ……だが。
「叶えられる願いは叶えてあげたい。私に仕えてくれた彼等の想いに報いる為にも」
――例え偽りの一夜だったとしても、刹那的な関係を彼等が真に望むなら、私はそれを最期に与えよう。
「私には失って困るものは命しかないのだから」
恐らくはその命さえも、遙は自分の為ではなく、我々の為に失えないだけなのだろう。
何に対しても希薄な思いしか抱かない遙にとって、自身の命すら、その例外ではない。
結局全ては我々人間の為に。 遙はその華奢な背に、今日も独りで重い荷を背負うのだろう。
「遙」
「斎、所詮お前には私の考えが理解出来ない」
そうではないと返したかったが、寂しく微笑んだ遙を前に、適切な言葉を発する事が斎にはとうとう出来なくて。
「だからそれ以来、俺は遙が同様の願いを叶えぬよう、常に仲間を見張っている」