契約とは……-02(125)
「皓?」
訝しげな視線の恭に、脱線しかけた意識を取り戻して、皓は中途半端な位置で止まっていた掌を、改めて突き出した。
「悪ぃ」
開いた皓の掌へ、恭が首飾りを落とそうとした瞬間、横から伸びた遙の手が首輪自体を見事に掠っていく。
「な?!」
俺には見せたくないのか! と憤慨した皓に、やんわりと遙は笑う。
「違う。その飾りには仕掛けが施して有るから、回収した迄だ」
「仕掛け?」
「ああ」
頷くと遙は皓と恭に石の裏側を向けた。
「それ以上近付いてはいけないよ?」
忠告の言葉と共に、遙は飾りの表面に嵌め込まれた碧の石を、強く奥へと押し込んだ。
「!」
ガチリと言う鈍い音共に裏側から飛び出したのは、無数の鋭利な刃。
「切っ先をご覧」
遙に言われ注視した数え切れない程の小さな刃は、全て筒状に中が開いており、何かを通す管のようにも思えた。
「これは?」
「ここにあるのは簡易の機械に過ぎないから、説明は難しいのだけれど……アビ」
「キュリリー?」
「私の腕を」
「キュリ!」
「大丈夫だ。説明の為の必要分が確保出来れば、直ぐ止血する。心配するな」
動物相手にも関わらず、アビと普通に会話を交わす遙の姿に、皓と恭の顔に複雑な表情が浮かぶ。
「あれで会話が成立しているのか?」
アビと遙が、何やら押し問答を交わしている隙に、皓が素朴な疑問を口にする。
「うーん。けど遙ちゃん神様だし。動物とも会話できるのかも」
確かに傍目には、アビと遙の間に会話らしきものが成立しているようにも見える。
事実有る程度の意志の疎通は成されているようだから、恭の言葉は案外正しいのかも知れない。
「……解った。但し噛んだ後は素早く離れるんだよ。いいね?」
小声で自分達が会話をしている間に、アビと遙の間で何やら話が纏まったのだろう。
遙がその腕にアビを抱き上げ、こちらへと向き直る。
「皓」
「うん?」
「腕を貸してくれないか」
何故か優しく、あまつさえ微笑みながら告げられた遙の言葉に、皓がごく素直に二の腕を突き出した瞬間、アビが遙の腕から跳躍した。
ガブッ!
「――っ!」
腕に深々と刺さった二本の牙。
ふわふわと可愛い筈のアビが、歯を剥き出しにして必死に噛み付いている姿は、先程まで抱いていた印象と余りにも違い過ぎて。
皓は声も出せず、自らの腕にぶら下がったアビを凝視したまま、身動きが取れずにいた。
「良し」
遙の合図と共に、アビが牙を抜いてその場から飛び退ると、小さく鳴き声を上げる。
「キューゥ?」
「大丈夫だ。アビの安全は私が保障する」
「安全って……遙ちゃん」
皓の報復を恐れているのだろうか、アビは心配げな表情で何度も皓と遙を見比べる。
「元々詳しい説明を聞きたがったのは皓達だから、素材の提供は当然だろう? なに大丈夫。少し腕を噛まれたくらいで、皓がアビを恨んだりする筈もない」
「キュリリー?」
「なぁ、恭もそう思うだろう?」
浮かべた満面の笑顔とは裏腹に、遙とアビの無言の圧力がヒシヒシと恭に伝わって。
『どうしたらそんなに都合の良い結論に達する事が出来るのか、誰か教えて欲しい……』
とは口が裂けても遙に言えず、恭は至極曖昧な笑顔でその場を誤魔化す事に決めた。
『ごめん、皓』
期待を込めて熱心に見詰める二対の視線を、恭が無碍に外せるわけもなく、未だ唖然としている皓に、心の中でそっと詫びる。
「遙、血が出てきたが」
アビが相当の勢いで噛んだのだろう。 皓の言葉通り、傷口から少しずつだが、血が流れ始めていた。
「キュルリー」
「皓、血を碧の石に垂らしてくれるか」
アビの声に反応した遙が、碧の石を表に返し、皓の血が流れる腕を手に取って導く。
「良く見ておくんだよ」
ポタン
垂直に落ちた皓の最初の血液。 首飾りの表面に変化が始まったのは、突然だった。
眩いばかりの円形の光が突如発生し、首飾りから真っ直ぐ皓の腕下まで立ち上がる。
「中央の碧の石に血液を垂らすと、血液が余所に飛び散らぬよう、周囲の赤い菱形の石から光の壁が立ち上がる」
この細かい光の粒子は特殊な磁場を発生させ、飛散防止以外にも不純物が誤って血液中に混入するのを防ぐ役割も担っている。
碧の石はそれ自体が簡易の精製機となっており、外からは見辛いが内部には三つの層があり、それぞれが違う働きをこなしている。
第一の層は血液を下部へと取り込み、濾過を行う。 第二の層は濾過された血液に対し、必要ならば加工を行う。
「加工?」
「ああ。血液に含まれる必要な成分の濃度が薄い場合、そのまま取り入れたところで効果はたかが知れているからね」
内部に刻まれた窪みへ必要な成分だけを抽出し、要らぬ水分を極力蒸発させ、少しでも濃度を上げてから、一番下の三層へと送り込む。
最下層に隠された小さな力の断片は、侵入した成分の濃度に応じ、適度に溶解する仕組みだ。
「内部で凝縮された成分は、精製後、裏側に設けられた無数の針を通して排出される」
「それが、これ?」
「ああ」
満たされた小瓶の中身を繁々と観察する恭に、遙が忘れていた説明を付け加える。
「裏の針を使えば、直接体内に注入も可能だぞ。何なら恭で――」
「結構です」
みなまで聞く必要もないとばかりに即答した恭に、遙は不思議そうに小首を傾げ、皓に視線を移した。
「皓。済まなかったな」
呟いた遙が皓の腕を掴んで、傷痕を左手で軽く触れる。
宛がわれた掌の異様に熱い感触に、皓が何かを尋ねようとした時、綺麗に傷痕は掻き消えた。
「!」
「本当にアビは怒らないでやってくれ」
悪いのは私だから。
眼を伏せて詫びる遙に、足元に擦り寄るアビの感触に、皓は諦めて黙って頷いた。
「それから、俺達は順にその液体を飲んだよね」
最初は皓が。次いで恭が。
想像した印象と違って無味無臭の液体は、何の違和感もなく喉を通り、二人はそれを飲み干した。
「そう言えば、注意事項を一つ言い忘れていたな」
全てを飲みきった後に遙の笑顔。
どうもその笑顔に信用が置けなくなってきているのは、俺達の共通の感情に違いない。
「人によっては飲んだ後に副作用が出る場合もあるが、何大した事ではないから、気にするな」
「副作用って……」
「出ない人間もいるから、出てから考えればいい」
どうせいま打てる手は何もないのだから、と遙は本当に大した事でもない口ぶりでその場の会話を打ち切ったのだ。
「皓もしかして!」
「副作用ってこれか!」
同じ結論に達したのだろう。 どちらともなく自然に肩から力が抜け落ちる。
「何が大した事がないだと、遙」
地獄の底から絞り出すような皓の声音に、恭が驚いたような顔で皓を見下ろす。
「どうしたの皓?」
衝撃は大きかったが、冷静に考えると遙の告げた通り、確かに大した事ではない。
現在まで遙を探して無駄に失くした時間を取り戻したと思えば、むしろ――
「ふざけるな! 俺は絶対に許せねぇ」
「?」
何がそんなに腹立だしいのか。
いま一つ恭には理解し辛くて、再び暴れ出した皓を胸元深くに拘束したまま、自身の頭を必死で回転させる。
やがて行き着く一つの結論を、迂闊にも口に出した事で、恭は暫く顎に鈍い痛みを抱える事となるのだが。
「解った! 皓ってもしかして俺よりチビになった事が――」
ガツン!
鈍い衝撃音と共に、眼から火花が飛んだ恭は、堪らず後方に仰け反った。
それでも皓を掴んだ手を離さなかったのは、我ながら奇蹟に近い仕業だと、恭は思う。
「二度と言うな!」
激情のまま吐き出した声も、普段より随分と高い音で今一つ迫力に欠けるが、皓は必死なのだろう。
「本当は俺の方が背は高いんだから、忘れるなよ!」
羽交い絞めにした皓から、繰り出された渾身の頭突きを顎に喰らって、恭は激しい眩暈に襲われると、眼に薄っすらと涙を浮かべた。
「……酷いよ、皓」
俺達に出た、液体の副作用は――若返り作用。
若返った姿は、互いに見知った姿ではなかったから、出逢う以前まで年齢は遡っているのだろう。
「とにかく行くぞ遙の部屋へ」