揺れる精神の狭間で-03(122)
「お前達に渡す血の量が決まった。随分と待たせて悪かったな」
どうやら体調が回復したらしい斎を傍らに従えて、皓と恭の私室に遙が訪れたのは、つい先程の事だ。
「両親に報告しなきゃ」
遙達が部屋を辞した後、慌てて家族への手紙を認め始めた恭の背中を、何となしに見詰めながら、皓は一人時間を持て余していた。
「……恭は親と仲いいんだな」
即座に振り返った恭を見て、皓はしまったと思う。
何気ないつもりの言葉が、恭に何か特別な引っ掛かりを与えたようだ。
「皓は、どうなの?」
面と向かって問われる質問に、逃げる訳にもいかなくて。
珍しく怖いくらい真剣な顔付きを見せる恭に、皓も自然と真面目な表情を浮かべた。
考えれば恭に初めて明かす、両親や家族の話。
緊張で急激に乾く喉を、手近にあった水で湿らせてから、皓は重い口を開いた。
「いや。俺は仲が良い、悪いとかの問題じゃなくてな」
間違いなく両親は、異端者だった俺を憎んでいる。
俺の存在を疎んじ、遙に引き取って貰えるよう、日々密かに願っていた両親の、言葉。
「両親の口癖は俺が卵だったなら、だ」
『――あの子が、皓が卵だったら――』
何度となく漏れ聞いた両親の会話は、離別してから何年も経た現在でも、皓を酷く苦しめる。
「多分、俺の家族は今頃幸せだろうよ」
「皓……」
恭の沈んだ口調に、その後の展開の予想が付いて、皓は下ろしていた腰を上げた。
「悪いな。ちよっと用事を思い出した」
何か言いたげな表情を浮かべた恭を、眼の端に捉えながら立ち上がり、自室を後にする。
過ぎ去った過去の事で、今更同情の言葉など聞きたくもなかった。
『それならば、私の屋敷で暮らせば良い』
あの日、遙の差し伸べた掌を取った瞬間から、俺の居場所はここに在る。
必死に生きる場所を探していた俺に、遙は生きる場所を与えてくれた。
だから地上での出来事など、もう考えたくもない――
「寒っ」
薄着で外まで足を運んだ為に、皓の全身を寒さが襲う。
けれど恭が手紙を書いている部屋に戻る気にもなれず、皓は仕方なく冷えた身体を温める為に、浴場へと踵を返した。
「……先客か?」
各室に充分な広さを備えた浴室があるこの屋敷で、大浴場を使う人間は珍しい。
湯気が立ち込める洗い場を抜け、星を望める浴場に辿り着いた先で、皓は自分の不運を呪った。
「何だ、お前か」
軽い舌打ちと共にこちらへと向けられた声と顔。
不機嫌そうなその頬に、くっきりと刻まれた遙の紋様を確認するまでも無く。
「彗」
「……変わらず呼び捨てか」
学習能力が無い奴だな、と呟きながらも、意外な事に彗は自分の身体をずらし、皓が湯に入り易いように、場所を空けた。
「いいのかよ」
「いいですか、だ。馬鹿」
ぶつぶつと呟きながらも、それ以上は何の行動も取らない彗に、警戒しつつも皓は、熱い湯に浸かると、手足を広い湯床に存分に伸ばした。
立ち昇る蒸気と、鼻を衝く硫黄の臭いに、冷え切った身体が芯から解れていく。
「……」
横目で窺う、完璧なまでに鍛え上げられた彗の身体は、無駄な肉一つなく、同性である皓が見ても、眼を奪われる。
筋骨逞しい両腕を、惜しげもなく夜空に曝し眼を閉じた彗は、湯船の中軽くまどろんでいる状態に思えた。
気まずい沈黙が支配する空間で、皓は密かに彗の紋様を盗み見る。
「これがそんなに気になるか」
眼を閉じている筈の彗に、何故か行動を言い当てられ焦る皓に向けられた、静かな一言。
「目立つだろう」
「……ああ」
閉じていた薄紫の眼を開けて、彗が鼻先で小さく笑う。
何事にも物怖じしない皓の性格は、成程斎の指摘通り、己と良く似ている。
「いつも一緒の恭はどうした?」
「ああ?」
風呂にまで一緒に入る趣味は無ぇ、と真面目に返す皓に、確かにそうだな、と笑いを含んだ彗の声。
単に彗にからかわれただけだと皓が気付いた時には、もう彗は違う方向を眺めていた。
友好的なのか、悪意があるのか。彗の性格がいま一つ把握し辛くて、皓は少し戸惑う。
「お前さ……」
「恭とは幼い時からの付き合いか?」
「いいや」
皓の意見を遮って、何処か独り言のように続ける彗の声は、意図的な仕業なのか、酷く淡々としていて感情を推し量れない。
「俺は斎に育てられた」
「えっ?」
余りに目立つ顔の刻印。生後間もない彗を、両親は迷いもなく、遙と來がいる屋敷へと託した。
一番古い記憶は、理由もなく泣く己に対して、笑いかけてくれた斎の笑顔。
「けど斎とお前って、そんなに齢が違うように見えねえぞ」
彗の外見は自分達とは左程齢が離れていない様に見える。対する斎の姿も、どう見繕っても青年の域で、父親と呼べる年齢に達してはいない。
「馬鹿が。俺達卵には見た目の年齢なんぞ意味がない」
齢を数えるのも億劫になる程の年月を生きる卵達は、程度の差こそあれ、全員が非常に緩慢な速度で成長していく。
彗が赤子の頃から、斎は既に現在の年恰好で、長い年月を経た後も、一向に老ける気配すら見えない。
「斎は俺の親であり、親友でもある存在だ」
いつか斎を越えてやろうと、追い続けた背中。 己が大きくなりさえすれば、開いた差は縮まるかと思ったが。
『斎』
己が掌に捲かれた包帯を見咎めた斎の眼に、確かに存在する闇の片鱗を、彗は見た。
空を仰ぎながら、待ち伏せしてでも皓に問いかけてみたかった質問を、彗は何気に投げかける。
「なぁ皓。例えだが、お前なら親友である恭を……」
けれど実際は、中途で空に消えた問い。
己が胸中を占める愚問を口に出したところで、現実には何の解決にも繋がらない。
「彗?」
堪らず頬に浮かんだ苦い笑いを、傍らの皓に悟られぬよう、彗は溢れ出る湯に派手に顔を浸ける事で、
打ち消した。
「……いや、何でもない」
褐色の前髪には、大量に滴る水飛沫。
訝しげな視線を寄せる皓の気配を感じながら、彗は再び満天の星空を仰いだ。
斎。まだ大丈夫だと答えた親友を、俺は信じていいのか。
魂を闇に呑まれれば、その後のお前が迎える運命は『死』しかない。
『斎、俺はお前を助けたい。ただそれだけだ』