揺れる精神の狭間で-01(120)
「大丈夫なのか、斎は」
「多分、記憶の回路に急激な負担が掛かった為に、意識が飛んだだけだと思う」
「記憶の混乱に、脳の安全装置が働いた結果、だと?」
「念の為に調べた身体には、何の異常も無かったから、間違いは無いだろう」
斎の診断を終えて、彗に返す遙の声は、少し重い。
「ああ、そうだ彗」
「?」
問い返す暇も無く、手首を掴まれた。
遙の意図に気付いて、振り解いた時は既に遅く、彗は己の迂闊さに下唇を噛んだ。
「何故言わなかった?」
――言えば遙はもっと早く同じ行動を起こしただろう。一瞬触れただけで治された手首は熱さえ綺麗に引いていた。
「……遙。俺を喰え」
「彗、何を言ってる?」
話をすり替えるなと告げる遙の声を強引に遮って、彗は己の言葉を強硬に続ける。
「斎の事でもかなり消耗している筈だ。だから俺を喰え」
これから皓と恭を仲間にする事で、更に遙の生命は縮まるのだ。 なのに相変わらず遙は、何も口にしようとはしない。
『本当はお前達相手に、こんな事をしたくはないのだけれど』
遠い昔。來に遙の不調を聞かされた時、俺達の身体が役に立つのなら、と誰もが遙に掌を差し出した。
俺達の行動に驚いた遙は一旦は拒絶したものの、俺達の強い決意を前に、首を縦に振らざるを得なかったのだろう。
時間をかけて個々の負担にならぬよう、俺達全員から、少しずつ力を回収していた。
けれどいつの頃からか。
俺達の差し出す手を巧みに避けて、誰からも逃げ続ける遙は、どこか、何かが、決定的におかしい。
「私は大丈夫だと何度も――」
否定の言葉を乗せる唇を、今直ぐにでも奪いたい衝動と闘いながら、彗は片手を遙の目線の高さにまで挙げて見せた。
――こんな乱暴な方法は、遙相手に取りたくも無かったが――
「何を?」
問いかけには答えず、もう片方の手で握った小刀で、彗は一直線に己が掌を切り裂いた。
「彗!」
「遙来い! 流れる血が無駄になる前に、この血を全部受け止めろ!」
驚愕で大きく見開かれた遙の眼に、大量に流れる己の血が映る。
何故か動かない遙の様子に舌打ちして、自らが血に塗れた手で遙を引き寄せた。
「剛!」
同時に彗は遙の抵抗を封じるために、己が肉体を限界まで強化する。
「駄目だ彗!」
細い手首を左右で一纏めにし、頭上高くに押さえ込むと、残る掌を嫌がる遙の口元に強引に宛がう。
「遙、口を開けろ」
「っ――」
部屋中に溢れる血の臭いに耐え切れず、遙の『飢え』が誘われる。
押しつけられた彗の掌から漂う、眩暈を招くほどの甘い匂い――。
理性は嫌という程、その匂いの正体を知っている。
『駄目だ彗、それはお前の意志じゃない』
脳裏に揺れる銀の髪。 暗い褐色の瞳が、愉悦を湛えた色を宿すのを、遙は混乱の中で確かに見た。
そして告げられた罪は、あの日から遙を捉えて離さない。
『喰われる事が、卵にとって最大の至福だと、私は奴らに伝えた。だが間違えるな、遙。
奴らは我々にとって所詮、ただの餌に過ぎない』
『躾が無ければ、奴等は貴女に見向きもしないだろう――』
「彗、嫌だ!」
悲鳴を上げる為に開いた口腔内に、温かい大量の血液が流れ込んで、遙の言葉を奪う。
『彗――』
流れる甘美な液体を一度口にしてしまえば、強烈な飢えは理性を奪い、確固たる意志を易々と捻じ曲げる。
拒むはずの動きがいつしか自分から求める動きに変わり、掠れた理性では最早呻き声一つ、止める事が出来ない。
「遙」
混じり合い、寄せる吐息の熱さは、どちらが放つ熱なのか。
無意識に流れる涙に、滲んだ景色が揺れて、堪え切れずに、遙は眼を閉じる。
――彗、斎。どうしてお前達は、私を極限まで追い詰める? 私はお前達にどうやって償えば、いいのだろう――
「遙ちゃん?」
視界一杯を心配そうな恭の顔で占領されて、遙は初めて目の前から意識が逸れていた事に気付く。
「ああ、済まない」
「遙ちゃん、もしかして何か悩んでる?」
「いや、別に」
五日前に倒れた斎の意識は、遙達が予測したよりも早く戻り、一時的に衰弱した身体も、
時間の問題に過ぎない程度にまで、回復している。
ここ数日間は新たな魔物も現れる事無く、屋敷は珍しく平穏を保っている状態だ。
「そう? 顔色は随分と良くなったみたいだけど、何か嫌なことでも有ったのかなぁって思って」
重ねた恭の何気ない言葉に、微かに遙が反応する。
「私の顔色は、そんなに良いか?」
喉元まで込み上げる、苦い、笑い。
――顔色は良くて当然だろう。私はあの晩、彗を喰ったのだから――
途中で理性が戻ったから良かったものの、一歩間違えれば、飢えに負けた私は、彗の全てを喰らいつくしていた事だろう。
「遙……ちゃん?」
「遙?」
不審そうな表情を浮かべた皓と恭の顔を、真正面から受け止めて。 いっそ洗いざらい全てを打ち明けられたなら、どんなにか――
「やっぱり何か有ったんだよね、遙ちゃん」
「お前達は何も知らない」
「?」
――私がどれだけの罪を背負っているのか、どれだけの生命を犠牲に生きてきたか、仲間で有りながら、お前達は何も知らない。
私が犯した罪の全てを話しても、お前達は今と同じように、私の事を気にかけてくれるのだろうか?
それともその『罪』すら『愛情』という名の支配下に、儚く消えてしまうのだろうか――
「遙」
不意に強い口調で皓に呼びかけられて、俯き加減になった視線を遙は再び絡ませる。
「俺達は確かに何も知らねぇ」
「……だろうな」
「けどそれは、遙が何も言わないからだ」
「!」
推測でしかない。
だが斎が倒れてから、多分何かとてつもなく辛い事が、遙の身に起きたのだ。
他の仲間と違って、遙と出逢ってからの時間が短い二人だからこそ、解るのだろう。
普段の遙とは異なる、ごくごく些細な、気の乱れ。
「言わなきゃ何もしてやれねぇ」
「……皓」
「俺達は、遙ちゃんの声を聞きたい」
何に傷ついているのか。何を背負っているのか。
どうして仲間に囲まれたこの場所で、遙が独りでいなければならないのか。
「全部聞いて、遙ちゃんを助けてあげたい」
「恭……」
皓や恭が伝える感情は、何と率直なのだろう。真摯な瞳から覗く感情に、偽りの影はどこにも見えなくて。
犯した罪の重さに閉じかけた、精神の深い場所を揺り動かす力は、何と強く、温かい。
――ああ。皓、恭。お前達に負けないほど、私は強く在らねばね――
弱さに揺れた精神を、強く。泣き言を零している暇など、遙には与えられていないのだから。
「皓、恭。本当に……有難う」
消え入りそうな小さな声で呟いた遙の言葉に、恭が咎め、皓が不機嫌そうな表情を強める。
「遙ちゃん? まだ何も聞いていないよ、俺達」
「ああ」
身を乗り出した皓と恭に、遙はいつもの笑顔を浮かべる。
やんわりと拒絶するその笑顔が、会話を打ち切る方向へと向いた時、皓の中で渦巻いていた感情が爆発した。
「お前達の気持は有り難いが、仕方のない事だから――」
「仕方ないじゃねえ!」
「皓?」
――いつもそうだ。
「仕方ないね」この短い一言で、遙は全てを終わらせようとする。 が何がどう「仕方ない」事なのか、皓には全然解らない。
『どうして誰にも相談しない?! 直ぐ近くに沢山の仲間が居るのに、何故遙は何もかも、全てを一人で背負うとする? 』
救いの掌を差し伸べたくても、掴むべき相手が拒絶してしまえば、結果は同じなのだ。
「助けて欲しいなら、助けて欲しいと言えよ、遙」
叫ばなければ、心の悲鳴は聞こえない。
泣き声をあげなければ、笑顔の下に隠された涙に、誰も気付きはしない。
見えない世界の痛みは、置かれた当事者にしか解らないからこそ、声を出して求めて欲しいのだ。
「俺達はその為に、ここに存在しているのだろう?」
遙を救いたい、守りたい。それは何も攻撃からだけじゃない。
本当は誰よりも傷つき易く、脆い精神を、何とか俺達で支えてやりたい。
「だが皓、私は」
「強いから、か。そんな嘘は聞きたくもねぇ」
恐らく遙は、口癖のようにその言葉を自分に言い聞かせ、心身共に強くあろうと努力してきただけだ。
弱い自分を公に曝す事も出来ず、『自分は強いから』と、偽りの仮面を深く被る。
どれだけ長い間、そうやって遙は、色んな事を一人で背負って来たのだろう――
「……」
「ねえ遙ちゃん。俺達は卵じゃない」
皓の言葉に強く唇を噛み締めた遙へ、宥めるような声音でゆっくりと、恭が喋り掛ける。
「遙ちゃんがどんな理由で仲間に甘えられないのか、俺達には何も解らない。聞いたところで多分、遙ちゃんは理由を教えてもくれないだろうから、敢えて訊ねる必要もないしね」
けれどもし、その要因の一つが、彼等が卵だと言う事に起因しているならば。
「俺達には、甘えていいんだよ」
大きく見開かれ、不安定に揺れた碧の瞳を、しっかり見つめて、恭は想いを紡ぐ。
「もっと早くに言っておくべきだったけど」
無条件に遙ちゃんに惹かれる要素がない俺達には、自分の自由意思が確立されているから。
「俺達は、俺達の意思で、遙ちゃんを守りたい」
「恭……」
だからもう「大丈夫だから」と、無理に俺達を拒絶しなくても良いんだよ――
「私は……」
二人に何か言葉を返そうとして、己の唇が震えている事に、遙は初めて気が付いた。
動揺して咄嗟に背を向けた途端、足元に落ちる一粒の小さな滴。
「遙」
背後から伸ばされた腕に、抗う間も無く抱き寄せられた。
包まれた温かい精神に、加速する「何か」は止められそうもなく。
「――」
強引に振り向かされ、無意識に抵抗する腕ごと、更に深く胸元に引き寄せられた。
頬に強く押し付けられた、人間の身体。けれど抱き締める腕は、限りなく優しい。
「見ないから、泣け」
頭上から降る少し乱暴な言葉に、それでも素直に眼を閉じて。……感じる己の弱さ。
――ああ、本当の私は、こんなにも弱かったのだ――




