遙との契約-02(117)
「明日から本格的な訓練を始めるから、今日迄はゆっくりと休んでおくと良いだろう」
契約する事に異論はない、と答えた皓と恭に、かけられた遙の言葉。
屋敷内の環境に慣れるまで、と与えられた二人部屋は、互いの荷物を全て運び入れても尚、
もの淋しく感じる程の充分な広さが、確保されていた。
「契約の解除ならいつでも応じる、か」
「何か遙ちゃん、いつもより綺麗だったね」
「ああ」
愁いを滲ませた碧眼に、吸い寄せられそうになったのは事実だ。
「先日から馬鹿に検査が続くとは思っていたが、容量調べとはな」
「だよね」
「なぁ恭よ。俺達も遙と契約を交わせば、斎の様に馬鹿強くなれるのか?」
「うーん」
大切な物を守るためには、強さは不可欠だ。だから契約を締結する事に不安はない。
人の世界で生きられなかった自分達が、いまさら人に在らざる者になったところで、
何の違いが有ると言うのだろう。
「肉体的にはそうかも知れない。けど俺達の場合、精神も鍛えないと駄目だねー」
「ああ、そうだな」
屋敷に滞在してかなりの月日が経つが、未だ仲間との正式な顔合わせもなく、
皓と恭は斎から直接下される指示に従って、行動している。
「遙に仕えたいのなら、先ずは遙の役割を知る必要がある」
初日に告げられた斎の言葉通り、具体的に遙が何をしているのかを知る事が、
現在の皓と恭に与えられた主な課題だ。
『私? 私は皆を導く立場にいる者だよ』
「遙の役割とは何だ?」と、率直に尋ねた皓達に対し、遙は迷うことなく、そう答えた。
屋敷に日々届けられる、何千何万という『願い』や『祈り』の声を遙は聞き分け、
用途に適した仲間をその場所へ派遣する。
「それは願いを叶える為に仲間が行く、って事だよねー?」
「いいや」
「?」
「勘違いしているようだが、私は願いを叶える者ではない。彼等の願いが叶う手助けをする者なのだよ」
「手助けだと?」
「人々をより良い方向へ導く手助けをするのが、私本来の役目で有り、務めだ」
努力無しで『願う』奇蹟からは、何も実らない。安易に『祈る』だけでは、何も得られはしない。
「私が彼等に与える『奇蹟』は、彼等が最大限の努力をした事に対しての、報酬に過ぎない。
奇蹟など、本当は彼等が自力で願いや祈りを叶える為に努力した結果が、生み出した産物なのだよ」
――だから遙は努力をしない者には、何も与えようとはしない。
だが願いさえすれば、望みの全てが叶うと都合良く信じ込んだ挙句、自らの努力を放棄し、
ただ『奇蹟』を待ち望む民が存在するのも、避け難い事実だ。
「こんなに祈りを捧げているのに、何故遙は願いを叶えてくれないのか」
彼等の他力本願で一方的な感情は、やがて「何もしてくれない」遙に対し、深い怨嗟を生み出すのだ。
けれどそんな時でも、遙は少し淋しそうに笑うだけで、弁明すらしようとしない。
『彼等もいつかは己の過ちに気付く。だから彼等を責めてはいけないよ』
実態を知って憤る自分達に告げられた、遙の穏やかな言葉。
『それに私は強いから、大丈夫なんだよ――』
麓で何度無く聞いた、同じような意味の言葉。
……遙の言葉は一種の自己暗示だ。あんな状態の遙を、このまま放ってはおけない。
この場所に来て初めて理解した、俺達に求められるべき、真の『強さ』の意味。
遙を支える為には、遙が安心して頼れる位の精神的な強さを、先ず自分が身に付けなければいけない。
ただ肉体的な強さを誇るだけでは、この屋敷に、遙の傍に、仕えられはしないから。
「俺達は、まだまだ弱い」
地上では自分が弱いなど、これっぽっちも思い浮かばなかったが。
「上には上がいる、って事で。頑張んなきゃね、俺達」
「ああ。……なぁ恭」
「うん?」
――感じるのは自分だけかも知れない。恭に尋ねるべきかどうかも、本当は迷った。
けれど胸に巣食う違和感を、一人ではどうしても拭い去れなくて。
「遙は俺達に何か隠していないか?」
「何を?」
「いや上手くは言えないが」
言葉に出して言うには余りに曖昧で、些細な「何か」
外見的な差異ではなく、内面的な何かだが、何処かが以前の遙と違うのだ。
それが麓で何気ない会話を交わしていた遙と、屋敷内で皓達を前に話す遙の態度に、
僅かな齟齬を生じさせている。
「イシェフにいた頃と違って、俺には現在の遙の態度が随分とよそよそしく思える」
「あ、解る。遙ちゃんって、わざと必要以上の会話を避けているよね」
巧に擦り抜け、それと解らぬよう周囲の眼を欺いてはいるが、皓達だけの現象ではないのだ。
常に傍らに控える斎に対してまでも、遙の態度は以前と微妙に喰い違う。
「何でだ?」
屋敷に滞在してからまだ一度も、遙の笑顔を俺達は眼にしていない。
完璧に計算された立ち振る舞いと表情で、仲間に接する遙の態度は見ている此方が痛々しい。
「上下関係が理由、って訳ではなさそうだしね」
同じ屋敷に暮らす、唯一の仲間なのだ。
敢えて仲間との距離を空ける遙の意図が容易に見えなくて、皓は軽い苛立ちを感じていた。
「遙の纏う気は、強くなったり弱くなったり、常に安定感に欠ける」
一定な波長を放たない遙の気は、何故か皓の不安を誘う。
絶対の自信を持つ部分と、妙に弱気な部分とが混在している様子が、麓で接していた頃の遙と違って、
全然隠し切れていないのだ。
「俺達が屋敷に来るまでの間に、仲間と何か有ったのか?」
感情を殺さなければならない、何か。必要以上に仲間に頼る事の出来ない、理由。
一体それは――?
「遙は己の力に対しては、絶対の自信が有る。だが、仲間から見た自分の存在意義に対しては、
自信を持つ事が出来ないからさ」
「!」
発した質問に対しての返答が、恭からではなく、背後から返されて、皓は即座に振り返る。
「誰だ!?」
責めるような皓と恭の視線を受け止めて。動じる事なく男は続ける。
「内緒話なら、部屋の戸は閉めておくべきだな」
「そう言う事だ」
「斎」
聞き慣れた斎の声に、男が自然と前を譲る。
後ろに控えても尚、斎より頭一つ大きい男は、私室の扉をぎりぎり潜れる身長だろうか。
かなり背が高い部類に入るその男の、何より左頬に鮮明に刻まれた紋様に眼が止まった。
「あ?」
皓と恭の視線を感じたのだろう。男は左頬を撫でると、ニヤリと笑って見せた。