再びの試練(113)
「遙」
「うん?」
「皓と恭がイシェフを発ったらしい」
「ふうん? 意外と早かったね」
斎からの報告に一瞬、間を置いてから遙は答える。
確かイシェフの麓に追い返して今日で十日目だが、早くも勝負を挑むまでに、回復したのか。
「昨晩の収穫作業は普段通りこなしていたから、油断したね」
あれから毎日、律儀に収穫作業に参加している恭と皓は、イシェフの住人との距離を
着実に縮めていた。荒れていた皓の性格も、少しずつだが、確実に修復されつつある。
「あの二人はこのまま麓にいつくかと思ったが」
斎の残念そうな言葉に、遙は原因が解って、軽く笑う。
「ふふっ。彼等が仲間になったら、指導は頼んだよ、斎」
「……だと思いましたが」
斎の崩れかけた敬語交じりの言葉に、不意にほんの少しだけ、遙が表情を沈める。
「どうした、遙?」
「いや、何でもない」
――そう何でもない事なのだ。創られた感情の、記憶をほんの少し失くしただけ。
斎の魂が闇へ堕ちるのを防ぐ為に、仕方のない事だったのだと、理性ではきちんと理解している。
けれど。私は一体何がこんなに哀しいのだろう――
『私が行っている行為は、來とどう違う?』
本人の意思を除外して、記憶を操作すると言う点では、結局、遙も來と同じなのだ。
『來だけを責める権利はない』
背負うべき罪は、來と同じ。我々は人間を都合よく操る事を、止めようともしない。
何が正しくて、何が悪いのか。善悪の基準は何処にあるのだろう――
それでも。
前に道が続く限り、先頭の私が足を竦ませて、立ち止まってはいけないのだから。
「ねえ斎。お前はこれから先も、私の傍にいてくれるかい?」
願うのは我儘だと解ってはいるのだが。せめて。
「遙……?」
「ひぇー相変わらず遠いねぇ、遙ちゃんの屋敷は」
「無駄口叩かずさっさと歩け」
「くぅぅー。皓ってば、とっても冷たいよね」
「……」
どうして恭といると、いつもこうなる?
隣で自分の緊張感を悉く、木端微塵に破壊し続けてくれる恭を、皓は眇めた眼で物憂げに見遣る。
『やはり麓に置き去りにするべきだったか』
騒ぐ恭を相手にすると、怒ったり脱力したりして、自分の調子がいつも乱れる。
しかしあの結界を突破するには、どうしても恭の力が必要不可欠で。
『それに』
面と向かっては伝えなかったが、恭と一緒に遙の元へ、と思ったのも、また事実だ。
『俺と一緒に行こうなんて、恭に言ってみろ』
小躍りする恭の姿が目蓋に浮かんで、皓は少しの間、黄昏る。
……俺は選ぶ相手を、きっと何処かで間違えたに違いない。
「皓、早く行かないと日が暮れるよー?」
恭の浮かれた言葉に、重い溜息を一つ付いて。皓は荷物を持ち上げた。
イシェフを発って早一週間。前回よりはかなり早い段階で、到着する事が出来た。
漸く辿り着いた屋敷で、待ち草臥れていた様子の遙は、恭の挨拶を完全に無視して、
俺達の勝負を受けて立った。
「懲りない人間共だな」
全身を纏う気を、がらりと変えて。
吐き出した言葉の冷たさは、息さえ凍りつくかと思える代物だ。
「どうした? 見ての通り私は素手だぞ?」
碧の瞳に浮かぶ静かで穏やかな感情も、武器を構える事なく立つ、華奢で小さな身体も。
見た目通りの印象なら、どんなに楽な相手だっただろう。 けれど実際には寸分の隙間すら、
遙には存在しなくて。
「くっ……!」
挑発する遙の言葉にも、皓は容易に動く事が出来ない。
『精神的な強さはともかく、こいつの武術の腕前は並の強さじゃねぇ』
最初の戦闘で、遙の桁違いの実力は嫌と言うほど確認済みだ。
『正攻法で闘ったところで俺達に勝ち目はねぇ』
決戦に向けて、事前に何度となく打ち合わせを重ねた恭に、皓は密かに合図を送る。
張り詰めた空気の中、最初に仕掛けたのは皓だった。
地面から土煙を舞上がらせながら、怒涛の如く突進してくる皓に、遙は慌てる事なく掌を向けて、
嘲笑を浮かべた。
「!?」
皓に向けて、掌から赤い光球を一つ。軽い衝撃波をお見舞いすると、間髪入れずに身を捻る。
避け切れず、見事に吹き飛ぶ皓の姿を横目に捉えたまま、背後の恭へ攻撃を。
「攻撃を繰り出すのは、掌だけと思わない事だな!」
不意に空高く、蹴り上げられた白い脚。
捲くれた衣から大胆に覗く細い足首に、不釣り合いな程付けられた、華やかな装飾品の数々。
思わず眼を奪われた隙に、攻撃は放たれた。
「なっ!」
恭が盾代わりに使用にした石像を、木っ端微塵に打ち砕く。
僅かな時間差で放たれた二発目の光球は、隠れる場所を失った恭を確実に弾き飛ばした。
意識さえ朦朧とする中で「卑怯者……」と小さく呟く恭の声。
「引っ掛かるお前が愚かだよ」
微かに笑いを含んだ遙の声に、恭は言い返す気力すら、最早持ち得なくて。
『確かに恭は愚か者だ』
地面に投げ出され、己の顔さえ上げる余力がない状態で、皓は思う。
遙は仕込み武器を使用する可能性が高いと、皓は事前に恭に警告をしておいたのだ。
傍目には宝飾品にしか見えなくても、実戦では武器に早変わりする代物も存在するから、
遙の動きに気をつけろと。
『あれほど念を押したのに……恭よ、お前一体何に眼を奪われた?』




