甘えられぬ理由(112)←訂正分
「斎を頼むか……」
彗を頼むと、斎に懇願された日の記憶が、否応なく遙の脳裏を過ぎる。
もうどれ位前の事だろう。まったく同じ台詞を斎が遙に吐いたのは。
彗を頼むと告げた斎も、今日の彗と同じ様に、随分苦しい顔をしていた。
「彗を救ってやってくれ」
滅多に己の感情を見せない斎が、隠すことなく彗を想い、遙に協力を希った。
揺るぎない斎の信念を前に、遙は己が折れるしかなくて。
「仕方ないね」
小さく漏れる溜息を一つ。空へと続く窓を開け、彼方へ視線を這わす。目指すは此処から遠く霞む、來の屋敷。
「どうせお前の仕組んだ事だろうね、來」
「おや? こんなに朝早くから貴女の貌が拝めるとは、私は運が良いようだ」
先触れも出さず、不意に訪れた來の屋敷。迎え入れる來は、言葉だけは驚いて。
だが既に窓は開けられており、遙を迎える準備は全て滞りなく、万端に整っていた。
『さすが、お見通しか』
來は優雅に一礼をすると、固い表情を浮かべたままの遙を、己が私室へと招き入れる。
「來。貴様一体彼等に何をした?」
「挨拶もなしですか。貴女は相変わらず――」
「來、悪いが私はお前と言葉遊びをする気分ではない」
どうせお前の事だ。私が来た理由も、本当は全て解っていて惚けているのだろう? 用意周到なお前の事だ。何の準備もなく、私を受け入れる筈がないのだから。
「遙」
要件以外、己の言葉を取り合おうともしない遙に、來は短く嘆息すると、更に言葉を繋げた。
「たまには貴女の笑顔を、私に見せて戴きたいものだが」
「來!」
戯言は要らぬ、と來の言葉を強引に遮って、遙は己の怒りを僅かばかり瞳に乗せる。
冗談を解さぬ口調と、碧の色に混じるほんの少しの紅を見付けて、來は大袈裟に肩を竦めると、口調を改めた。
「彼等とは?」
「斎や彗。それだけじゃない、彼等卵に対してだ」
「ああ。奴等、にですか」
「……」
持て余す程長い脚を組みながら、來は極上の微笑を浮かべた。
流れる瀧のように、細く長く弛る銀の髪。
暗褐色の瞳は切れ長で、知性と冷静さをそこに覗かせる來の姿は、遙の怒りをどこか楽しんでいるように見えた。
「何か問題でも有りましたか?」
「何か、じゃない」
並みの感性なら、恐らくその場で蕩けてしまいそうな微笑を浮かべる來を、物ともせず遙は憤る。
「彼等が私に対する執着は度を超している。明らかに異常な反応だ」
一人や二人ではないのだ。 遙の傍らを固める卵のほぼ全員が、何十年か毎に同じ様な症例を患っている。
「症例……ですか」
遙の言葉にクスリと來が笑う。
「來!」
「失礼。貴女らしい言い方だと思ってね。……遙、奴等の反応は病気ではない」
「?」
「私は奴等に躾を施しただけだ」
「……躾だと?」
「ええ。奴等が我々飼い主以外に、その軽薄な尻尾を振らぬよう、少し躾をしたまでに過ぎない」
生来の魂に、耐え難い程の強烈な思慕を植え付けて置けば、感情の命ずるままに、奴等は自ずと私達を探し、求める。
育った餌の回収漏れ、といった事態を解消出来るこの躾の効果は、我々側からしても歓迎すべき物だろう。
「理性では制御出来ない感情は、動物らしくて奴等にはお似合いだろう?」
「だが來よ、その強烈過ぎる思慕が、私にとっては問題なのだ」
「……触られでもしましたか」
愉しげに薄く笑う來に、咄嗟に返す言葉も思い浮かばず、遙は仕方なく口を閉ざす。
「でも大丈夫だったでしょう?」
奴等は動物ゆえ、原始的本能が求める繁殖行為は、どうしても否めない。 そこで私は奴等の身体に、二重の仕掛けを施した。
「それが第二の刻印か」
「ええ」
我々に必要以上の接触行動を起こした場合、奴等の身体に刻んだ刻印は発動する。
一時的に全神経を麻痺させ、一切の自由を奪う刻印の発動は、時として心臓の動きすら、強制的に停止させる。
「あくまでも貴女の身を守る為の処置ですが」
優しすぎる貴女は、繁殖期を迎え、己に迫る奴等をその手で始末する事など、出来はしないでしょうから。
己の身が守れない、遙の卵だけに刻まれた印。 事実來の卵には、第二の刻印はない。
「私は貴女と違って、己の身は守れますから、印など必要ないんですよ」
咎める遙の視線を正面から受け止めて、來は囁くように遙に問う。
「覚えが有りませんか?」
確かに己に執拗に触れている最中に、不意に意識を失った卵が何名かは存在する。
……と言う事は。
「あれは、繁殖行動だったのか!」
やけに執拗に身体に触れる相手だとは思っていたが、そういう意味だったのか!
結論に達し、驚きを隠せない遙に、來はとうとう声を上げて笑った。
「貴女の事だから、もしかしたらとは思いましたが」
閉鎖され、必要以外の人間は入室すら禁止された、遙専用の管理部屋。
特殊な環境下で育成された遙に取って、最も無縁であるべき行為は、学習対象にすら、ならなかったのだろう。
「やはり私の見解は、間違いなかったようですね」
そして密かに続けた、言葉には出せぬ、胸の中の強い想い。
――ねぇ遙、私が貴女の身体に、私以外の者を触れさせる筈が、ないでしょう?
貴女がもう少し周囲の感情に敏感ならば、こんな回りくどい方法は必要ないのだ。
卵も私も、求める相手は同じなのに、どうして貴女は――
現に切なく見詰める此方の視線に気付きもせず、遙は己の考えを整理する事で、精一杯だ。
「私は、卵は我々に触れられない生き物なのだろうと、どこか漠然と思い込んでいたが……そう、お前の付けた刻印の所為だったんだね」
口惜しげに告げて、指先を噛む遙の様子を、どこか突き放した眼で眺める己を認識しながら、來は言葉を続ける。
「だが遙。私は奴等には、前もってその事実を伝えている」
「えっ?」
お前達には、永遠に遙を手にする事は出来ない。 餌となって喰われる事でしか、想いは満たされぬ、と來は彼等に告げた。
「遙に喰われる事が、卵にとって想いの成就だと」
さすれば遙が衰弱した折に、彼等は喜んでその身を遙に捧げるに、違いないからだ。
流石に感情自身をその身に植え付けたとは説明していないが、何大した事ではない。
「喰われる事が彼等にとって想いの成就だと……そんな馬鹿な事は」
力なく首を振る遙に、來は言葉を畳み掛ける。
「貴女には、何も解らない。貴方は結局のところ、愛情とは何か知ろうともしない」
「來?」
不安定に揺れる碧の瞳に、薄く色付く唇に、無駄と解っていてもなお、何度己の魂を奪われた事か。
「遙、お前は奴等との距離が近すぎるが、くれぐれも間違えるな。奴等は我々にとって所詮、ただの餌に過ぎない」
「來……」
「奴等が貴女に優しいのは、躾の結果に過ぎない」
好かれたい、愛されたいと願う心が、遙に対して優しさを生んでいるだけ――
「体よく躾られた動物が、単純に飼い主を慕っているだけだ。奴等の本心ではない」
そう躾が無ければ、奴等は貴女に見向きもしないだろう。
「私は」
「遙。貴女を真に必要としているのは、私だけだ」
「……」
あの後、何と言って來の屋敷を辞したのか、現在はもう思い出せもしない。
來に真実を告げられる瞬間まで、私は彼等を理解出来ているものだと、心から信じていた。
彼等が私に寄せる好意は、來が与えた擬似の感情にしか過ぎない等と、考えた事もなく。
……私は彼等の優しさを、無条件に得たものだと、愚かにも勘違いしていたのだ。
私が彼等に対し自然と好意を抱いたように、彼等もまた同じく、ごく自然に私に対して好意を抱いてくれたのだと、そう思っていた。
『けれど真実は――』
來の告白を聞いてから、月日は何千と巡ったが、あの日の記憶は、痛みと共に一向に消えはしない――
斎も彗も。 その想いの正体が、我々から与えられた擬似の感情だとは、思ってもみないだろう。 知らぬ間に感情すら操られ、その身を自由に動かされる、哀れなお前達。
『躾が無ければ、奴等は貴女に見向きもしないだろう』 ……確かにそうだな、來よ。
「だから私は彼等に甘えてはいけない」
彼等の想いが、彼等のものではなく、來によって創られた、仮初の想いならば。
「彼等の命を別け与えて貰う事も、金輪際してはならないだろう」
私は彼等に頼るべき存在でも、甘えるべき存在でも、決して有りはしないから。
だから本当は、誰に頼まれるまでもなく、私はお前達に対し、常に責任を取らなければいけない立場にいるのだよ。
「斎、彗……。全ての事実を知れば、お前達は私を憎むだろうか」
お前達を欺き続ける事は、実はとても、苦しいのだよ――