束の間の休息-06(111)
「遙、少し良いか」
イシェフでの労働を終え、心地よい眠気に若干意識が囚われかけた頃だろうか。
遠慮がちに扉を開け、顔を覗かせた相手を見て、遙は少し驚いた表情を浮かべる。
「彗? どうした珍しいな」
戒律に厳しい彗が執務室ではなく、己の部屋に直接訪ねてくるとは珍しい。
遙は不思議そうな面持ちで、仲間の彗を見詰め、中へ入るよう促した。
「何か問題でも有ったのか?」
椅子に腰掛ける暇もなく、単刀直入に遙に切り込まれ、彗は軽く眼を開く。
「どうしてそれを」
簡単な事だよ。普段のお前なら、戒律に従って絶対に私の部屋には独りで入らない。
だが他の仲間に聞かれては困る問題が有るから、わざわざ彗は単独で私の部屋を訪ねたのだろう?
「つまりそれだけ問題は深刻だという事だね」
「……イシェフでの斎の立ち振る舞いに、仲間から抗議があった」
「イシェフでの?」
一瞬何のことを言われているのか遙自身が解らず、小首を傾げる。
「その……斎が遙に対して接触をした件でだ」
言葉を選んで言い辛そうに告げる彗の態度に、遙は漸く思い当たって、小さく声を上げる。
「その件なら大した事ではないと、私が否定してもか?」
触れるだけなら構わない。どうせ卵である斎にはあれ以上の行為には及べない。
淡々と言葉を返す遙の声を遮って、彗が酷く苦しそうに言葉を繋ぐ。
「遙。最近の斎の態度は、卵としての自覚を欠いている」
遙を抱き寄せ、頬に触れた斎。貴女が愛しいのだと、感情を見せては駄目なのだ。
決して応える事の出来ない想いに、遙を巻き込んではいけない。
届かぬ想いに苦しむのは、何も斎だけに限った事ではない。
卵である者は等しく同じで、誰もが己を律する事を、限界まで強いられているのだから。
『誰も遙とは交わる事は適わない。故に遙は誰のものにもならない』
不毛な道を歩むのは己だけではない。けれど皆が同じ立場なら、また我慢も可能だろう。
「斎はそれを一番解っている筈の立場だからこそ、問題なのだ」
我々仲間を纏め上げるリーダーとしての責任は重い。
「――斎をどうしろと?」
「記憶の抹消を」
「……」
育った想いの抹消を。現在までの仲間に対しても、何度となく秘密裏に行われた行為。
溢れた想いを無に帰す事で、斎の魂は救われる。
「斎は力が強いから、完全に記憶を消す事は不可能かも知れない」
「皆もそれは承知の上だ」
例え完全に記憶が消せなくても。このままの状態で、遙の傍らに斎を置いておく訳にはいかない。
取り返しのつかない最悪の事態を招く前に、我々は打てる最善の策を考えなくては。
「最悪の事態、か」
抑えの利かない魂が闇に呑まれた場合、理性は失せ、衝動だけが支配する魔物となり下がる。
暴走し、本能だけで動く魔物は破壊と混乱を招き、正気に還る事はない。
「彗。お前は斎の親友ではなかったのか?」
私には親友の記憶を奪えと告げる、お前の真意が解らない。
斎の一番身近にいるお前が最も斎を擁護する立場なのではないのかい?
「だからだ遙。俺は斎を殺したくはない」
親友だからこそ、俺は。 斎が闇に呑まれ狂った場合、俺が斎を殺すと決めた。それは遙にも譲れない、俺の役目。
「そうか」
彗の決意の重さにだろうか。一瞬、彗の返答を聞いた遙の眼が、大きく見開かれる。
「頼む遙。斎を助けてやってくれ」
苦渋の決断であろう事は、力無く項垂れ、唇を噛み締める彗の様子から充分見て取れて。
「……解った」
答える遙の声は、酷く切ない。
「なあ、遙」
「うん?」
遙の私室からの去り際、何気なさを装って彗は確信に触れる。 聞きたくて、聞けなかった事。
「俺は過去に記憶を消された事は有るのか?」
記憶を消された覚えは当然だが、本人には残らない。
自分ではきちんと気持の管理は出来ているつもりではあるのだが。
「……いや」
返された遙の声音に、彗は付き合いが長い己を呪う。
……だから遙はさっき俺の言葉に眼を見開いたのか。 そして多分、依頼者は斎だったのだろう。 ……そうか、斎。今度は俺の番だ。必ずお前をそこから救ってやる。
「斎の件、頼んだぞ遙」