互いの心(105)
「遙、戻ったのか?」
続き部屋の物音に気付いた斎が、扉越しに遙へ呼びかける。
「ああ」
「要件は済んだのか」
「いや、まだだ」
珍しく歯切れの悪い遙の答えに、斎が扉から顔を覗かせる。
「遙、どうかしたのか?」
『――私は斎に、何と答えれば良いのだろう』
答える方法がどうにも見つからなくて、斎に自室へ下がるよう、遙は手で命じる。
下した命に従い、何を訊ねる訳でもなく、斎によって再び静かに閉められた扉を、遙はどこかぼんやりと眺めた。
肝心の要件を彼等に告げる前に、皓の取った態度に驚いて、不覚にも屋敷まで舞い戻ってしまった。
あれしきの行為で動揺するとは情けないが、実際心臓は今も早鐘を打ち、疑問符が頭の中を駆け巡る。
迷いもなく、真っ直ぐに遙へと伸ばされた、皓の掌。 流れた感情は決して不快な物では無かった。
『皓……? どうしてお前は、私に触れた?』
皓に触れられた頬が熱い。子供以外の人間に、あんな風に触られたのは初めてだ。
大概の人間は、神と呼ばれる遙には、意識して触れないように努めているというのに。
「我々に、俗世に生きる穢れを移してはならない」
來が最初に告げた言葉は、絶対的な効力を放ち、その場に居た人々全てに、強力な暗示を与えた。
一握りの人間から大陸中に広まった來の言葉は、いつしか太古からの禁忌として子々孫々に口上で伝えられ、現在や子供ですら、遙から触れない限り、例え指一本でも触れようとはしない。
――穢れなど――
來、お前は気付いていないだろうが、本来最も穢れている者は、『私』なのだよ。
人間を騙し、人間を喰らう。 おぞましい性に従う私は、この世の誰よりも、罪深い――
遠い昔、故郷を発つあの日、來に声をかけ「お前も船に搭乗するかい?」と問うたのは、他ならぬ遙自身だ。
別に深い意味もなく、ただの気紛れで、來に声をかけた。
だが長い旅の途中、予想さえしなかった事態が、來が起こした行動を引き金に発生し、船は航行不能となった。
避けられぬ最悪の選択の結果、遙達一向は見も知らぬ惑星に拘束を余儀なくされた挙句、仲間を次々と失った。
無事地上へ降り立った五名のうち、生き残りは最早、遙と來の二名を残すだけだ。
仲間が生きていれば、もっと早くに故郷へ帰る術が、判明したかも知れない。
或いは遙達が生き延びる術を、何か別の方向から探れたかも知れない。
『どの道、それも全ては仮定の域でしかないが、な』
他に方法が有ったか、無かったか。 考えたところで答えは所詮、闇の中でしかない。
『地上に残された私達は、己が生きる為だけに人間を騙し、彼等の身体を己が都合よく創り変えているのだ――』
卵は基より、契約という名の下に、己が『力』を分け与える申し子も、また然り。
人間はどう足掻いた処で、最終的には、遙達に喰われるだけの存在にしか成り得ない。
『皓、恭。申し子になれば、お前達も例外ではない』
彼等を申し子にしてしまえば、いずれ彼等の寿命が尽きた時、その身体は契約に則り遙に喰われる。
『私はもう誰も喰らいたくはない。このまま飲まず喰わずで後どれだけ生きれば、私の寿命は潰えてくれるのだろう――?』
「貴女が助かる為なら、俺は何だって犠牲にする!」
残された唯一の同胞である來と、何度密な話し合いを重ねたところで、お互いの意見が交わる事は、最早永遠に有り得ない。
『來、お前は生きる事を諦めない強い男。己が命を守る為の執着ならば、理解もまだ出来ただろう。だが何故お前は私の命にまで干渉する?』
「私は決して諦めない。貴女を絶対に死なせはしない」
――けれど、來。本当はもう、私は全ての事から解放されたいのだよ――
「先に湯船使ったぞ」
身体に残った僅かな水滴を拭き取りながら、皓は部屋へと続く扉を大きく開ける。
大の男二人に一室とは流石に狭いが、一般の民家しかないイシェフでは、これが最善の状態なのだろう。
提供された寝室で、机一杯に広げられた恭の荷物に、自然と皓の眼が止まる。
「あ、ごめん」
慌てて隠した先に、大切に束ねられた、家族からの沢山の手紙が見えて、皓は無意識に眼を逸らした。
「お湯、どうだった?」
皓の視線に気付かなかった筈がない。
けれど当たり障りのない会話を交わそうとする恭に、皓は溜息ついでに、率直な意見を述べる。
「手紙、書けよ」
「うん?」
「そこまで俺に気を遣う必要はねぇよ」と皓は恭に向かって小さく呟いた。
一緒に旅を始めた当初、恭は頻繁に家族への手紙を認めていたような覚えがある。
新しい村に着いたと、いつも通り家族への手紙を書きながら、何気に聞かれた一言。
「皓は手紙を書かないの?」
「……俺には家族なんていない。俺の消息を知りたがる奴なんて、この世のどこにもいやしない。だから手紙なんか必要ねぇ」
「皓……」
――恭が家族への手紙を書かなくなったのは、多分、あの日以降だ。
「解ったら俺に変な気を使うんじゃねぇ」
「うーん。って言うか、もう少し状況が進展しないと、何も書く事がないんだ」
もう何年も同じ生活だし、話題に新鮮味がねーと肩を竦め笑う恭に、皓はそれ以上何も言えなくて。
「じゃあ早いとこ、遙の仲間にならないとな」
素っ気無く少し乱暴な言い方で隠した、本当は伝えたい言葉の意味。
不器用に伏せられた皓からの伝言を、確かに受け取って恭は笑う。
「だねー。そん時は絶対手紙書くよ」
「なら、いい」
嬉しそうな表情を満面に浮かべた恭から、何故か照れくさくなって、皓は再び眼を逸らした。