与えられた、試練-04(103)
想像さえし得なかった圧倒的な力を前に、皓や恭は何一つ充分に仕掛ける事は出来なかった。
赤子の手でも捻るように、遙は明らかに二人を相手にしても、遊んでいた。
「くそっ!」
地上では誰よりも自分が強いと、皓は自負していた。
事実、どんなに身体が大きい相手でも、多勢に無勢でも、いままで敗れた事は一度も無かった。 ……それなのに。
「お帰り、家族の元へ」
吹き飛ばされる瞬間、遠く遙の声が、聞こえたような気がした。
『違う遙。お前は何も知らない』
俺には、俺の帰りを待ち侘びてくれる家族などいない。 帰る場所なんて、最初からどこにもない。
――俺は人で溢れたこの世界で、もうずっと、独りきりだ。
どこを探しても、何をしても、俺を受け入れてくれる場所さえ、この地上には在りはしないのに。
『……遙。お前は俺に、どこに帰れと言う?』
遙の行方を探し、当てのない旅を繰り返したあの日々。
数年にも及ぶ長い年月の間、訪れた町や村は、遠く夜空に浮かぶ星の数よりも多い。
だが何処にも、皓が落ち着ける場所はなかった。
それどころか『黒き戦神』の噂を聞き付け、挑んできた相手と戦う、それだけを繰り返す日々だった。
自業自得の面は否めない。 売られた喧嘩を、後先関係なく買い占めてきたのは、他ならぬ皓自身だったから。
『本当に俺が、地上に居る誰よりも強いのなら。いつか俺の名が、遙の下へ届くかも知れない』
そんな淡い期待を抱いたのが、そもそもの間違いだったのだろう。
結果、この世の誰よりも強くあろうと、戦う相手を容赦なく叩きのめして来た。
繰り返される殺伐とした生活は、正常な精神を疲弊させ、皓はいつしか少しずつ、目的を見失っていた。
道を見失った皓を、最初に救ったのは、小さな子供。
その子供に声をかけたのは、偶然だった。
夜も更けた空の下、すれ違った細い肩が、背格好が、遠い昔に別れた弟を否応なく、皓に思い出させた。
脅えもせずに、野宿をすると言いきった、理由有りの子供。
別れた当時の弟と同じ位の、その幼い容姿に。 離れ難かったのは、きっと自分の方だ――。
一人では危ないと、理由をつけて、強引に寝床を共にした。
瞬く満点の星屑の下、枕を並べて話すのは、お互い当たり障りのない話ばかり――。
暫く話すうちに、張り詰めた緊張感も弛んできたのだろう。 程なく子供の瞼が落ちる。
横になった小さな身体に、そっと毛布を掛け直しながら、皓は一人、自問自答を繰り返し続けていた。
『どうしてこんなに遠くなってしまったのか。自分はどこに進もうとしているのか?』
眠った子供の横顔に、別れた弟の顔を重ねてみても、もう思い出すことすら、難しい。
『笙、お前は幸せなのか?』
皓が居なくなった事で、家族は移住を繰り返す必要がなくなった。
弟も折角出来た友達と別れる必要もなければ、肩身の狭い思いを感じる必要もないだろう。
「うーん」
寒いのか、毛布を抱えるように身体を丸め、声を漏らした子供に、皓は追想を止め、自分の毛布を捲り上げた。
遠い日、皓の寝床に潜り込んで来た弟にそうしたように、眠った子供の身体を、そっと懐深くに抱え込む。
子供特有の日向の匂いに、何故か胸が締め付けられるほど、苦しかった。
『笙……お前に逢いたい』
「大丈夫ですか!」
「!」
小さな手で身体を揺すられ、皓の意識は急速に覚醒へと、向かう。
不覚にも、子供を抱えた状態で、いつの間にか眠ってしまったようだ。
起き上がりざま「どうかしたのか?」と問おうとして、目尻から零れ落ちた、一粒の冷たい光。
「……迷ったんですけど、随分魘されていたので」
横を向いて、落ちた涙に気付かない振りをした子供に、この場合、何と応えるべきだろう――。
「話して、見ませんか」
自分を私と言う、妙に大人びた子供。
年齢の割には思慮深い、碧の瞳を見つめる内に、いつの間にか口をついた、末弟の話。
幼い子供には、多分皓の言いたい事の半分も、理解出来なかったに違いない。
だが嫌がりもせず、一通り黙って皓の話を聞いた後、子供の口から漏れた意外な一言。
「それでも貴方の家族は生きているのでしょう?」
屋敷に押し入った何者かに、不意に襲われた自分の両親は、抵抗虚しく惨殺された。
戸棚に隠された自分と、妹。まだ赤ん坊だった弟は、何処かに連れ去られてしまった。
離れ離れになってしまった弟は、生死すら確認出来ないのだと、その子供は打ち明けた。
「生きているのなら、いつかはお互いを理解出来る筈。感情の縺れは、お互いが根気よく、逃げずに話し合えば、必ず解けるもの。貴方には私と違ってまだ、その機会が残されているのでしょう?」
「だが」
「私はもう何年も弟を探し――」
『何年も?』
皓の顔に浮かんだ怪訝な表情に、唐突に切られた子供の言葉。
咳払いを一つすると、子供はとってつけたように、東の空を見上げた。
「もう夜が明けますね」
完全に陽が昇る前、明け暗れの中、馬鹿丁寧な言葉を遣う子供は、性急に礼を述べた。
「お陰様で安心して野宿が出来ました」
ではこれでと、差し込んだ一筋の暁光に、見事な蜂蜜色の髪を溶け込ませ、逃げるように立ち去る子供の後姿。
呆気に取られ呆然と見送る皓に、振り向きざま、音には出さず唇だけで、子供は何事かを囁いた。
「決して闇に呑まれてはいけないよ」
「!」
思わず後を追った時には既に遅く、見渡す風景のどこにも、子供の姿はなかった。
野宿の後は自分一人の痕跡しかなく、月夜に魅了された魂は、寂しさの余り幻影でも見たのかも知れない。
けれどこの子供の言葉は、不思議とそれ以降も皓の精神に宿り続け、闇に傾きかけた魂を幾度となく、引き戻す役割を担ってくれた。