Little ONE
「武官や魔術師たちは、王太子エセルバート殿下を『炎のエセルバート』レイン様を『嵐のレインフォード』と称しておりますように、お二方は他国からも『シュルヴェステルの双璧』と呼ばれるほどの高い魔力と行動力を以て、王族として並々ならぬ資質を証明し続けておいでです」
アドキンスさんの「一般常識講座第一回」の最中である。
「嵐のレインフォード、ですか・・・」
「なにか」
「いえ、大したことじゃないんですけど、お姉ちゃん・・・あ、姉上、はあちらの世界での名前が雫というんです。雫と嵐じゃ大違いだなと思って」
なるほど、とアドキンスさんは重々しく頷いた。
「良いところにお気づきになられました。レイン様の御名は、レイン様御自身が水の女神の加護を強く受けておられるゆえのものでございます。同様に、これまでお暮らしの世界でも、水のお名前を用いておいでだったのでしょう」
「水の女神の加護・・・やっぱり水属性の魔法に強いとかあるんですか?」
「左様でございます。と申しましても、生来の魔力が大変お強い御方でございますので、他の属性の魔法でも、王太子殿下を除けばどなたにもひけはおとりになりまぬが」
「水属性は特に、ってことですか?」
「仰せの通り。レイン様が強い感情に支配されておいでのときは、だいたい嵐になります」
「は?」
「前回の嵐は、界渡りの前々日でございましたか」
遠い目をしたアドキンスさんがぼそりと言った。
「何か、あったんですか?」
私の問いに少し迷ったが、一つ頷くと「いずれ御説明申し上げる必要は出てまいりましょう」と言って答えてくれた。
「本来であれば、レイン様はあくまでも王位継承順位で言えば第二位。王太子殿下が前面にお出になるのが筋でございます。ですが、御成人あそばされてよりこのかた、レイン様は、レインフォード様として男性体で、王族の諸々の御公務をこなしておいででした。そうした事績が重なるにつれ、王位継承順位そのものを見直すべきだという声が諸侯の間で高まったのでございます」
「えーっと、つまり、レインフォードを王太子に、というキャンペーンが起きたということ?」
「左様。国王陛下御臨席の御前会議の最中のことでございました。とある諸侯が、かねてより彼等の間で懸案となっていた事柄であるとして、国王陛下に御進言申し上げたのでございます。その途端、晴天にわかに掻き曇り、轟く雷鳴に王宮は近衛兵から水汲み女に至るまで悲鳴をあげたといいます。雷鳴轟くのみならず、御前会議が催されていた王宮・楓の間は雷の直撃を受け、屋根が半分ほど失われ・・・」
──お姉ちゃん・・・
名調子で続けようとするアドキンスさんを両手で「どうどう」と押しとどめた。
「だいたいのところは理解できました。でもどうして姉はそんなに気分を害したのでしょう?」
「レイン様は・・・序列を重んじる御方でいらっしゃいます。国王陛下に御子がおありでないならともかく、歴とした王太子がおわす時点で王位継承順位を云々するその姿勢こそが国の乱れを招くと」
なるほど。
姉の言いそうなことである。私は深く深く頷いた。
「そういうヒトですよね」
「はい。そのような御気性の御方であらせられます」
「でもその王太子殿下は、なぜ後の国王にふさわしくないんですか? 王位継承問題が浮上したということは何か問題があったからですよね? その・・・なんだっけ『炎のエセルバート』さんに」
「いくぶん御病弱であらせられるのです」
すらすらとアドキンスさんが答えた。
「そもそもレイン様が、レインフォード様として国政の前面にお出になったのもそのためでございます。王太子の激務は、エセルバート殿下御一人には重すぎる荷物だったのでございましょう」
「じゃ、諸侯の皆さんにも一理あったわけですね」
「レイン様はそうはお思いにならなかったようですが」
「というと?」
「レイン様のお考えは、私ごときには然とはわかりかねますが、わかる範囲で申し上げますと、つまりは王が誰であろうと、それを支えるだけの能力が諸侯や官吏にはあるべきだと。王太子殿下に致命的な能力的人格的欠陥があるわけでもないのに、王太子をすげ替えねば諸外国との外交に支障が生じるという考えそのものが怠慢である、とおっしゃられたそうにございます」
ふむふむ、と私は頷いた。
その頃すでに日本や地球について聞き知ってはいたはずだ。スノードームその他を取り寄せる実験をしていただろうから。
姉のその発想──有能な官吏と閣僚の力で政治が滞りなく行われ、王族は象徴的に存在する──は、とても地球っぽいな、と思う。
そこでふと思った。
「アドキンスさん、この国・・・というかこの世界は、王様が直接政治を行われるわけですか? 大臣とか官吏とかは?」
「もちろんおいででございますが、大方は王族の手によって政は為されております。大臣と申しましても、貴族諸侯の名誉職といった趣が強く、生まれながらに王族として帝王学を学ばれた王族の皆様にはとても及ぶものではございませぬ」
──はっはーん
言葉を選んだアドキンスさんの表現から、とりあえずかいつまんで理解したのは、要するにこの国の「大臣」たちは、身分が高いだけの烏合の衆である、ということだった。
「・・・サニー様はお聡くていらっしゃる」
「は?」
「いえ。今日はもうずいぶんと多くのことを学ばれました。そろそろお疲れでございましょう」
──いえいえ、学校で勉強することに比べたら
関数や古文に比べたら「本日のお勉強」は、まるでファンタジーの世界なので、脳はさほど疲れていない。
疲れているのはむしろ感情の方。淫魔とか淫魔とか淫魔とか。
姉が男性体でイケメンの王子様だった、ということよりも「淫魔」問題の方が重大である。処女の私にとっては。
姉に淫魔の血が流れているということは私もじゃん、とかね。
「お部屋にお戻りになりますか?」
「あ、いえ」
アドキンスさんが怪訝そうに私の目を覗き込んでくる。
「お庭、とかありますよね。昨日ちらっと見た限りですけど」
「ええ。庭園を御散策なさいますか」
──「お庭」じゃなくて「庭園」かよ
にっこりとほほ笑んで私は「ちょっとそこらへん、という程度でいいんですけど」と応じた。
庭に出た私にアドキンスさんは言った。
「レイン様がお出かけの前に庭園にも結界を施しておいでです。と申しましても、あまりに広大な庭園全部というのは必要ないとの御判断でございました。サニー様が『庭』と認識なさる程度の範囲でよろしい、と仰せでしたが、見当はおつきになりますか?」
──それってすっごく狭い範囲なんじゃないの? ここの規模に比して
ちょっと卑屈になりそうだったが、アドキンスさんにそれをぶつけても仕方がない。
「ええ。だいたいは。それにこの・・・皮膚にちくちくする感じが魔力っていうことです、よね?」
「おお。それがおわかりになられるのでしたら話は早い。左様、それが結界の魔力をお感じになっておられるということでございます。その感覚の消えぬところまで、というのを目安に御散策くださいませ。ご希望でしたら私が同行いたしますが」
控え目に付け加えた言葉に私は慌てて首を振った。
「よろしいのですか?」
「ええ。少し一人で外の空気を吸いたいだけですから。それに姉の、結界? の中だけ、ということでしょう? だったら一人で大丈夫です」
とりあえず一人になりたいのでございます。
アドキンスさんもエイダさんもいい人たちだし、この世界に来て2日目の私が日常生活の瑣末なことでも戸惑うと考えてずっとついててくれるのはありがたいのだけれど、そろそろ自由行動がしたい。割と切実に。
こちらの世界のお嬢さまならいざしらず、日本での私は女子高生(庶民)だったわけだから、いい歳をしたおじさんおばさんが24時間くっついてくる生活なんて、ストレス以外の何物でもない。
「そうですね。お一人のお時間も必要でございましょう」
──おお、アドキンスさんわかってる!
「では、くれぐれもお気をつけて。もし何か不都合がございましたら、お心のうちで私をお呼び下さればすぐに参りますので」
「あ、アレですね。瞬時に移動するとかいう」
「はい」
満足げに微笑んで、アドキンスさんは出血大サービス的に私の眼前でふっと掻き消えて見せてくれた。
ちょっと粋なおじさんである。
「さて、と」
──しかし、広過ぎるだろう
思わず苦笑が漏れる。
よく手入れされた芝生に生垣。
だだっ広いだけで花のないその一角は馬で走れそうなぐらいだ。
──というか、たぶんそうなんだろうな
起きて身支度をした私が、姉はもう出かけたのかと尋ねると、アドキンスさんは「はい。正式の謁見でございますので馬車での登城でございます。早暁に御出発になりました」と教えてくれた。
つまり、馬車があって馬がいる、と。
玄関から僅かに脇に入ったこの一角は、馬で駆け込んできてもいいように、というスペースなのだと考えられる。
日本にいる母は、ここに比べれば花壇と間違えられそうなほど小さな庭ではあったけれど、庭にはどの季節でもたいてい何かしらの花を咲かせていたように思う。
その母が、貴族の夫人だからといって花の一輪もないこの庭をそのままにしていたとは思えないので、きっとどこかに花の咲く庭があるはずだ。
くるりと向き直って芝生に足を踏み入れた私は、そこに想像もしなかったものを見つけて、固まった。
ばし、と口を手で覆い、叫び出しそうになるのを堪える。
──ちょ・・・なにこれ、かわいい!
私を見上げているのは、黒曜石のように黒く艶やかな瞳を持つ、真っ白なふわふわの、仔犬だった。ぶっとい前足はそれが相当な大型犬の仔であることを示している。首には真っ赤なリボン。
──そうか! そうよね、こんだけ広かったら犬は飼い放題! どんな超大型犬でもどんと来いだよ。神様、これは私への贈り物でしょうか。ですよね、きっとそう。ていうか、うちの庭にいた時点でもう私のモノ
迷わずそれを抱き上げて頬擦りである。
白いふわふわの被毛の中にたまに強い毛が混じっているのは、少し毛が生え換わり始めているのだろう。ふわふわのアンダーコートと、硬いトップコート、そして立ち耳。
これ何の犬種だろう。
異世界だから、あんまり見たことない犬種なのかな。
でもいいや。かわいいから。
仔犬はふんふんふんふんと私の耳の匂いを嗅いでいる。
「名前は何にしようねぇ」
私がそう呟いたときだった。
ちりっと五感を騒がせる気配を感じ、辺りを見回す。
ピンク色の靄が、さっきまで私が立っていた地点に漂い始めていた。
──これ、お姉ちゃんじゃない、よね
昨夜姉が転移してきたときには、こんな色はしていなかった。
というか、ピンク色という愛らしい色であるはずなのに、どこか禍々しいのはなぜだろう。
仔犬を抱いたまま思わず後ずさってしまう。禍々しいピンク色って、なんかすごくイヤ。
ごくりと息を飲んで、靄が晴れるのを待った。
靄の中からいったいどんなトンデモ生物が現れるのか、と思いながら。
ゆるりと風に流れていく靄の中から現れたのは、ものすごい美女だった。
「ほぅ・・・そちは・・・」
私の顔を見て、その絶世の美女は少し驚いたようで、そんなことを呟くと、唐突に両手を広げた。
──さ、叫びたい。お姉ちゃん助けてって叫びたいけど、でも、昨日それやってちくちく皮肉を言われたばっかりだし・・・
一瞬だけ逡巡した。
「さぁ! 母と呼べ。父でも良いぞ!」
──これは非常事態と判断します、オネエサマ!
「おっ、お姉ちゃーーーーーーん! 変質者登場ーーーーーーー!」
とりあえず私は全身全霊で叫んだのであった。