城
ひゅるりと頼りなく一抹の風が額髪を揺らした。
あの閃光に包まれた時点で乗っていたはずの姉のオペルは、少なくとも私の周囲には存在していない。
私の周囲に存在しているのは、緑なす草原、そして姉。
「どうしよう、お姉ちゃん。ていうかここはどこ。何が起きたの」
呆然と呟く私に、姉は苦虫を噛み潰したような顔で答えてくれた。
「あなたの好きな小説みたいなことが起きたのよ」
「はい?」
いせかいしょうかん、と姉は言った。
「ここは、シュルヴェステル国。ケウルライネン大陸の中央を分断するルミヤルヴィ山脈の東、サンナ平原、そしてそのサンナ平原を横断するリューディア川の北に位置する、王制を敷いた国。そしてこの草原は・・・アレクサンテリ大公家の領地。地球の日本で2012年5月12日だった本日、シュルヴェステルではオルセン暦1490年アラーノの月、シルパ3の日。あなたの名前は、佐藤環ではなく、サニー・フランシス・オルセン。ただし、オルセンという姓は通常名乗らないこと。アレクサンテリ大公家のサニーです、で済むから」
さっきまで車の中でいかにもつらそうにしていた人とは思えない、しっかりした声と足取りで、姉は草原を迷いなく歩き始めた。
慌てて立ち上がり、それを追いかける。
「お姉ちゃん、もう少し筋道だてて話してくれないかな。異世界召喚とか、そういう冗談はナシで。私って事故のとき気絶したかなんか?」
立ち止った姉は、珍しく諦めたように微笑んだ。
「ごめんね、環。いつか言わなくちゃと思ってたけど、言えなかった」
「は?」
「私たち家族は、13年前にここから、あの地球のあの国へ跳んだの」
姉の瞳には、本当に珍しいことだけれど、挑戦的な色の代わりに私への労わりと気遣いが浮かんでいた。
立ち尽くしていた私は、その場に膝を折った。
「お父さんは、アレクサンテリ大公。お母さんはその夫人、私はアレクサンテリ大公家の長女。あなたが4歳のとき、地球とこことで同時に金環食が起きた。それは予測されていたことだったから、金環食に合わせて準備をして、跳んだ。まぁ・・・次元を超えた亡命、みたいなものかしらね」
亡命貴族、あのお父さんとお母さんが。
「ど、どうして? 革命とかなんか?」
それに答える姉の言葉に私は頭を抱えてしまった。「そんな大層なことではなくて・・・お父さん、今の仕事をしたかったらしいのよね」
父の職業は電器メーカーの工場勤務。電子レンジとかテレビとかを組み立てている。
「・・・工場勤務したいお貴族さま? 社会主義者かなんか?」
「じゃなくて。機械が好きなの」
そう言って姉は私の手を取り、立たせた。
「この世界では、魔力という生命エネルギーによって文明も文化も成立している。でもその魔力には個人差があってね。魔力の少ない人々にとってはひどく不自由なことだって多いの。不自由なだけじゃなく、その魔力の多寡で身分も将来もある程度決まってしまうというか。お父さんはそういう事態を憂えて・・・と本人は言ってるけど、とにかく魔力を使わない生活必需品を開発しようとしていたところ、違う次元の世界には魔力の代わりに電力を使う機械文明があると聞いて・・・」
「行っちゃったの?」
「そう。行っちゃったの」
ぐらり、と景色が揺れる気がした。
父のことは大好きだ。毎日楽しそうに仕事に通い、休日ともなれば庭に建てた「研究室」という名のささやかなプレハブ小屋でさまざまな機械装置を(大して役には立ちそうもない代物ばかりだったが)造るのが唯一の趣味という、極めて無害な人だ。夫にするなら理想的だと思う。思っていた。
でも。いくらなんでも。
「機械いじりの工場勤務の為に、異世界にまで渡るお貴族さまって、どっかおかしいんじゃない? 電子レンジのネジより頭のネジ、心配するべきなんじゃない?」
「私は、お父さんの頭のネジについては日々心配しているわよ」
ひどい言い草だが、それは事実だ。姉がいつまでも嫁に行かないのは両親が頼りないせいもあるのだろうと常々思っていたぐらいだ。
──ああ、でも。そういう理由ではなかったのかもしれない
13年前といったら姉は21歳だ。もしかしたら、こちらの世界で誰かと恋をしていたかもしれない。そして父の傍迷惑な趣味を追うための異世界渡りに巻き込まれ、引き裂かれ・・・その恋の相手のことを忘れられなかったから結婚はしなかったのかも・・・。
「お姉ちゃん可哀想」
「・・・あなたの頭のネジも時々心配よ。さっきまでの会話でどこをどうすれば私が可哀想なんて感想に繋がるのか少しも理解できないわ」
そう言って私に背を向けると、姉はまたさっさと歩き出した。
その背中はずいぶんとしゃっきりしている。
だいいち、声がおかしい。いや、おかしいというか、まともな声になっているのだ。
姉の固有名詞を羅列した解説よりも、その身体症状の劇的な改善、という事実の前にはこの突拍子もない事態にいくばくかの真実味があると思わざるを得なかった。
ショッピングモールの駐車場からここまで、姉の体調が本復するほどの時間が経っているにしても、本当に異世界に来てしまったのだとしても、いずれにせよ突拍子もないことであるには違いない。
だいいちそれほどの時間失神していて、草原で目が覚める時点でおかしいよね、うんおかしい。それなら普通は病院のベッドの上だよね。せめて家のベッド。一億歩譲って、交通事故のせいで重篤な意識状態に陥った私を哀れに思った姉が、せめて好きだった草原の風を(別に好きだったわけではないが)感じさせてやろうと連れだした・・・ならば、草原は草原でもストレッチャーの上だろうと思うの。
地面に寝てましたから、気がついたとき。
いくら姉の心は鬼でも、体力の無い姉が私を担いでここを歩けるはずはない。
とにかくね、見渡すかぎり、草しかないの。
電線一本見当たらないのよ。おかしくない? いくらなんでも。今日び、ちょっとやそっとの山の中なら高圧線ぐらい通ってるって話よね。
「そこの斜面を下ったところに城があるから、とりあえずそこに行きましょう」
「城? 誰の? 王様の?」
「うちの」
ああ、もういいや。
私はもしかしたら、唐突に記憶が混乱する病気か何かに罹ったのかもしれない。つまり姉と二人でハイキングに来て突然意識が、ショッピングモールを出た2012年5月21日に逆行したとかね?
さっきからの姉の言動はぶっ飛んでるけど、うちのお姉ちゃんは、そんな大変そうな記憶障害に直面した妹を異世界話でからかうほど鬼だっただろうか。
・・・「そんなことない」と断言できないのが苦しい。
でも「うちの城」てなに。
結論。確かに城でした。
江戸城とか名古屋城とか、そういう日本のお城ではなく、シャトーっていうか。
中世ヨーロッパの貴族のお城という雰囲気の「城」でした。きっとこれはアレよね、「シャトーなんとか」っていうラブホだよ、きっと。猥雑さはあまり感じられないけれど郊外型ラブホは建築条例の都合であんまりいかがわしくできないのかもしれない。
門を入ったところから、アプローチ沿いにずらりと・・・使用人? いや、従業員か。そんなような人々が並んで、姉と私の姿を認めると一斉に頭を下げた。
その先頭にいた初老の男性が代表らしく、一歩前に進み出る。
「無事の御帰還、心よりお喜び申し上げま・・・」
言いかけた男性の頬を姉が拳でぶん殴った。
「おっ、お姉ちゃん!」
私の制止の声を無視して姉は、ぞっとするほどの鬼の声を発した。
「驚きもせず出迎えるとは、この召喚はそなたらの仕業か」
「お姉ちゃんひどい。ラブホ借りてまでドッキリに付き合わされている人が気の毒だと思わないの? こんなお歳になってまで・・・仕事選べないのよ?」
姉の鉄拳によろめいたおじいちゃんに駆け寄って、私は姉に言い募った。
「い、いえ、サニー様。レイン様のお怒りはごもっともでございます。なれどお優しきお心遣い、まことにありがとうございます。御幼少の頃よりお優しくていらっしゃいました」
「もういいんですよ、おじいさん。私もう十分びっくりしましたから。いい画も撮れたと思います。カメラ見当たらないけど、きっと隠しカメラなんですよね」
環、と姉が脱力しきって「そういうの『否認』っていうのよ」と呟いた。
「なんてこというのよ。私はまだ清い体よ?」
「そのヒニンじゃない。受け入れがたい現実を否定して認識しようとする姿勢を否認だと言ってるの」
「平成の日本にこんなふざけた建物があるとしたら、古臭いラブホ以外の何物でもない!」
「・・・環」
「あ、待てよ。メイドさんも執事スタイルも・・・ってことは・・・いつから彼等はテーマパークを作るほどの文化に出世したの?」
こめかみを押さえる姉の姿を気の毒そうに見た執事らしきおじさんが(初老の執事は守備範囲外だったが、これはこれでなかなかイケる、と私は思った)諦めたように首を振った。
「レイン様、この召喚は国王陛下の命により王宮魔術師方が執り行われました。お怒りはごもっともでございますが、明日、陛下への謁見が申し渡されておりますゆえ、ひとまず城にお入りいただきまして、おくつろぎのうえ、サニー様にもゆっくりご説明なされた方がよろしいかと。おそれながらサニー様は・・・この・・・っこのアドキンスのことも覚えておられぬ御様子にて」
最後の方はなぜか声が震えていた。
「わーかった。わかったから、泣くな、アドキンス。あのハゲの企画なのね、これは?」
「はい・・・国王陛下たってのお望みでございました」
「というわけだから、環。本日はここに泊るしかないみたい」
おお! と俄然テンションが上がる。中世ヨーロッパ風テーマパーク御宿泊コース! お嬢さまを溺愛する執事付き。
途中で記憶がぶっ飛んでるのはともかくとして、姉とそういう旅行に来ていたのだと思えば辻褄は合う。
姉は比較的若いメイドさんたちに囲まれ、私は逆にお母さんぐらいの年齢のメイドさんたちに案内され、その「うちの城」とやらに入ることとなったのだった。
「ねえ、お姉ちゃーん。『俺の城』っていう飲み屋さんのマッチをお父さん持ってたけど、ここってそれ系の発想だよね」
姉はそれには答えず、可哀想なものを見る目つきで私を一瞥すると、メイドさんに囲まれたまま城に入っていった。




