2012年5月21日
乗り継ぎの駅で降りると、まず携帯を確認するのが習慣だ。
私の通学電車には1回乗り継ぎがある。姉はその乗り継ぎの駅まで車でやってきて、それから電車で出勤するのだけれど、私と姉の登下校や出退勤の時間は基本的には微妙にズレている。
もちろんたまに時間が合えば、この乗り継ぎの駅から車で連れて帰ってくれる。
というわけで私は、次の電車のホームに移動する前に携帯に姉からのメールなり着信なりが入っていないかを確認するというわけだ。
「でもちょっと早いかな」
心の中でそう呟いて、ぱかりと携帯を開くと「着信1件」の文字。
地味な女子校育ちなのが災いしているのか、学校の友達と家族以外から連絡が入ることのまずない、極めて健全な携帯電話なので、それだけで姉からだと察することが出来てしまうのが少し哀しいお年頃だ。
案の定それは姉からの着信だった。
仕事の折り合いで早く帰れるのだろうか。私はすぐに折り返しの電話をかけた。
「あ、お姉ちゃん?」
「・・・環、今どこ?」
掠れた姉の声に私は眉をひそめた。
「また風邪?」
んー、と返ってくる返事にはいつもの姉の、無駄なキレの良さはない。
「今駅についたとこ。お姉ちゃんは?」
「ちゅーしゃじょーにいるから、おいで」
わかった、と答えて電話を切ると、少し小走りに改札を抜けた。
姉はカラダが弱い。
といっても、何か重篤な持病があるとかではなくて、本当に無駄に風邪をひきやすい性質なのだ。
予防接種を受けていても、マスクをしていても、手洗い嗽を励行していても、インフルエンザには毎年襲われている。2種類のインフルエンザが流行っていれば、2種類、しかもご丁寧に2回別々に罹患できる。季節の変わり目には季節風邪。
そんな姉が勤務しているのは製薬会社である。製薬会社の開発部にいるので、職場はほぼ無菌。おそらく姉の進路選択や職業選択はその「無菌」を切実に必要としていたからであろう、と私は思っている。
一方の私は健康優良児。学業成績は中の上だが、無遅刻無欠席が唯一の自慢だ。もちろん姉が何回インフルエンザに罹っていようと私には感染らない。
小学生の頃、父親と一緒に庭で裸になって乾布摩擦をしていたおかげだと思う。たぶん。
当時、もう大学を卒業していた姉はそんな私と父を冷ややかに見て「お父さん、環ももう高学年になるんだから、いい加減にしないと変質者って言われるわよ」ととんでもないことを口走っていた。もちろん乾布摩擦などしなかった。
姉は透けるように肌が白い。著しくインドアな性格のせいだろう。たぶん。同じ両親から生まれても、中学まで陸上部だった私とは人種の違いぐらいに肌の色が違う。
私と姉は17歳の年齢差がある。現在34歳、そして独身。私のクラスメイトの一番若いお母さまは確か37歳。
その話は姉にとって何の感慨ももたらさないらしく、話してみても「20歳で子供産んで、その子供がまた20歳で子供産んだら、40歳で孫・・・切なすぎる・・・」と他人事のように言うだけだ。
妹の私から見ても、うちの姉は(性格はともかく)見た目的に何の支障もない・・・というか、むしろキレイな方だと思うのに、どうしてこうなのか。たぶん性格のせいだろう。
なにしろ三度の飯より「無菌」を愛する姉は、どちらかといえば装飾的でないファッションを好む。スッキリとしたスーツに、髪はさらりとしたショートカットで、年がら年中お風呂に入っている。
透けるように白い肌に、切れ長の薄茶色の瞳。感情を垂れ流さない面差しはクールビューティーという言葉が似合う。「跪いて足をお舐め」という台詞で、うちの姉をイメージしてしまうのは私だけではないと思う。
まあ、まったく男っ気がなかったのではなく、17歳という年齢差ゆえに姉がそういうことで浮ついていた頃の私はいたいけな小学生で、その気配を察することも出来なかっただけのことかもしれない。
私の知っている姉は、年の離れた妹をいささか溺愛する傾向のある、始終風邪をひいている、家族以外に対して無駄に居丈高で潔癖症気味の困った人だ。
潔癖症の割に2カ月ほど洗車をしていない黒のオペルを見つけて、私はまた少し足を速めた。着信の時刻からしてもう20分ほど姉を待たせたことになる。
待っているのは姉の勝手だし、こういうことで怒る人ではないけれど、風邪ひいて会社を早退した人をあえて待たせるのは忍びない。
ここん、と助手席のウィンドウを叩くと姉がロックを解除した。
「おかえり」
「ただいま。お姉ちゃん、また風邪?」
頷いた姉は喉がつらいのか余計なことは何も言わずエンジンをかける。
駅に隣接するショッピングモールは、鉄道会社と結んで「パークアンドライド」運動を展開しているとか。姉は乗り継ぎが面倒だからという理由で、家から電車なら40分ほどのこの駅まで車で通っている。
そのショッピングモールの駐車場から車を出すと、姉は気怠そうに溜息をついた。
「いつもよりひどい感じ?」
ん、と頷く姉の瞳は潤んでいる。妙に可愛いベージュの地色にグレーのチェックの入ったマスクは母の手作りだ。
なんとかフラッシュという、日光などを触媒として活性化する殺菌成分が吹きつけてあるとか。私にはよくわからないけれど、カラダの弱い(というよりも風邪菌に弱い)姉を育てた母はそういうことに敏感だ。実を結んでいるとは言い難いが。
「じゃあ早く帰って寝た方がいいね」
言いながら私は進行方向に目を向けた。
生憎右折する交差点の信号は赤だ。
あー、と不服の声をあげた姉はぐいっとハンドルを切った。交差点の手前で近道をするつもりらしいけれど、お姉ちゃん、少しハンドル操作が乱暴過ぎます。
と。
「なにあれ」
「・・・ぐ」
交差点手前の住宅が立ち並ぶ近道、その家々の屋根の合間に見える青空にぽかりと裂け目が入っていた。
姉の車は、そのまま住宅と住宅の間へ進んでいく。
「今日、何日?」
マスクを外して姉は掠れた声を出す。珍しく少し焦っている。
「え、5月21日だけど」
油断した、と姉が言ったとき、車を閃光が包んだ。