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悪役令嬢の母に転生しました。娘が断罪される未来より、今日のお弁当のほうが大事です

掲載日:2026/10/14

第一章 七年間の終わり


朝靄に包まれたヴァルハイト伯爵邸の執務室で、レオナルドは万年筆を走らせる手を止めた。


「エリーゼ。君は少々、自分の役割を過大評価しているのではないか」


銀縁の眼鏡の奥で、薄青い瞳が冷ややかに細められる。


机の上には、妻が差し出した一通の欠席届が置かれていた。


北方の貴族夫人たちが集う慈善茶会。その準備に奔走していたエリーゼが、体調不良を理由に出席を見合わせたいと申し出たのだ。


ここ数週間、領内の冬支度と王都からの来客対応が重なり、彼女は十分に眠れていなかった。昨夜も微熱があり、侍女から休息を勧められていた。


だが、レオナルドの関心は妻の体調にはなかった。


「茶会の準備など、家令に任せれば済む話だろう。君がわざわざ出向く必要はない」


「ですが、今年は北部の孤児院への寄付を募ることになっております。夫人方へのご説明だけは、私から……」


「だから、それが思い上がりだと言っている」


乾いた笑いが漏れた。


「領地経営は代官が行い、屋敷の管理は家令が行う。厨房には料理人がいて、庭には庭師がいる。君がいなくとも、何一つ滞らない」


エリーゼは口を閉ざした。


「君が庭の薔薇を摘むのをやめようが、社交界で微笑むのをやめようが、この屋敷は変わらず機能する。極論を言えば……」


レオナルドは書類から目を離さず、何でもないことのように告げた。


「君がいなくても、私は何一つ困らない」


その言葉が落ちたあと、部屋は奇妙なほど静かになった。


暖炉では薪が爆ぜていた。


窓の外では、夜明けの霧が庭園の彫像を白く包んでいる。


エリーゼは夫の横顔を見つめた。


七年間、毎朝見てきた顔だった。


二十歳で伯爵家を継いだ青年は、今では王宮でも一目置かれる有能な領主になっていた。整った容貌、冷静な判断力、隙のない礼儀作法。


彼女はそのすべてを誇らしく思っていた。


たとえ、その誇りを一度も本人に伝えられなくても。


「……そうでございますね」


エリーゼは静かに頭を下げた。


レオナルドがようやく顔を上げる。


「分かったのならいい。君は余計なことを考えず、夫人としての最低限の務めだけ果たしていればよい」


「承知いたしました」


「それと、茶会の件は家令に伝えておけ」


「はい」


エリーゼは微笑んだ。


いつもと変わらない、控えめで柔らかな微笑みだった。


ただ、その笑顔を浮かべるために、もう何の感情も必要としなかった。


「よく分かりました、伯爵閣下」


レオナルドはわずかに眉を動かした。


普段、妻は彼を「レオナルド様」と呼ぶ。


しかし、その小さな違和感を追いかけるほど、彼は妻に関心を持っていなかった。


「下がっていい」


「失礼いたします」


扉が静かに閉まる。


レオナルドは再び万年筆を取った。


彼は知らなかった。


その朝、自分が七年間かけて育てられてきた温もりを、自らの手で終わらせたことを。


政略結婚だった。


南部の穀倉地帯を治めるロレーヌ子爵家の三女エリーゼと、北方の山岳領を統べるヴァルハイト伯爵家の若き当主レオナルド。


豊かな穀物と古い血筋を持つ南部の子爵家。


鉱山と軍事力を有しながら、慢性的な食糧不足に悩まされていた北方の伯爵家。


両家の利害は見事に一致した。


婚礼の日、十六歳のエリーゼに、二十歳のレオナルドは告げた。


「形式上の義務は果たす。それ以上のものは期待しないでほしい」


エリーゼは頷いた。


愛情を期待して嫁いだわけではなかった。


けれど、これから同じ屋根の下で生きていくのだ。


せめて、互いにとって居心地のよい場所にできればいい。


そう思った。


北方の冬は厳しかった。


古い石造りの屋敷は昼でも薄暗く、廊下には冷たい風が通り抜けた。


レオナルドは朝から晩まで執務に追われ、食事さえ書類を読みながら済ませることが多かった。


初めての冬、エリーゼは夫が朝食の紅茶を半分以上残していることに気づいた。


「お口に合いませんか?」


そう尋ねると、レオナルドは書類から顔も上げずに答えた。


「胃が痛む。濃い茶は好かない」


それだけだった。


翌日から、エリーゼは茶葉を変えた。


厨房の料理人に相談し、故郷から持参したカモミールを少量混ぜ、蜂蜜をほんの一匙だけ加えるようにした。


夫は何も言わなかった。


ただ、いつの間にか紅茶を残さなくなった。


それが嬉しかった。


またある日、深夜に帰宅したレオナルドが、暗い玄関で足を滑らせかけたことがあった。


翌日から、エリーゼは玄関ホールにランタンを灯すようになった。


最初は使用人に任せていた。


けれど、夫が帰ってくるまで起きていれば、顔色を確かめられる。


疲れているようなら、厨房に温かいものを用意させられる。


そうしているうちに、いつしか自分で出迎えるようになった。


「お帰りなさいませ、レオナルド様」


「ああ」


たった一言。


それでも、返事があるだけで十分だと思っていた。


彼が熱を出したときには、母から教わった薬草のスープを作った。


幼い頃、病弱だった父のために母がよく煮込んでいたものだ。


庭で育てた香草を摘み、苦味が出ないように火加減を調整し、何時間もかけて煮出す。


熱に浮かされた夫が、そのスープだけは残さず飲んだとき、エリーゼは心から安堵した。


その翌朝、レオナルドはいつも通り執務室へ向かった。


礼を言われることはなかった。


だが、彼女は気にしなかった。


きっと忙しいのだろう。


きっと、言葉にするのが苦手な人なのだろう。


そう思い続けた。


七年間。


朝には暖炉を温め、廊下で挨拶をした。


夜には灯りをともして帰りを待った。


夫が好む香りを覚え、苦手な食べ物を避け、書斎には季節の花を一輪飾った。


彼が仕事に集中できるよう、屋敷の些細な揉め事は自分のところで収めた。


それらは伯爵夫人の義務ではなかった。


誰に命じられたわけでもない。


ただ、夫が少しでも健やかに、穏やかに暮らせるように。


その願いだけで続けてきたことだった。


けれど、今朝、夫は言った。


『君がいなくても、私は何一つ困らない』


エリーゼは自室の鏡の前に立った。


二十三歳になった自分が映っている。


嫁いできた頃より少し大人びた顔。


いつの間にか、目の下には薄い影ができていた。


昨夜から続く微熱のせいか、頬には不自然な赤みが差している。


彼女は鏡の中の自分に問いかけた。


「……あなたは、何を待っていたの?」


夫が振り向いてくれる日。


一度でいいから、ありがとうと言ってくれる日。


自分のことを、妻としてではなく、一人の人間として見てくれる日。


そんな日を待っていたのだろうか。


エリーゼは小さく首を振った。


もう、十分だった。


彼は嘘をついていない。


本当に、自分などいなくても困らないと思っているのだ。


それならば。


「私も、もう頑張らなくていいのね」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥に奇妙な静けさが広がった。


涙は出なかった。


怒りも湧かなかった。


ただ、長い間握りしめていた何かを、ようやく手放せた気がした。


エリーゼは机の引き出しを開けた。


奥にしまっていた小箱の鍵を回す。


中には、亡き父が遺した一通の書類があった。


婚姻解消に関する特別申立書。


父が亡くなる少し前、旧知の法務官を通じて用意してくれたものだった。


『もし、お前が自分を大切にできない場所にいるのなら、帰ってきなさい』


最後の手紙に、父はそう書いていた。


当時のエリーゼには、その意味がよく分からなかった。


今なら分かる。


「お父様」


書類の端をそっと撫でる。


「私、帰ってもよろしいでしょうか」


答える声はない。


けれど、窓から差し込んだ淡い朝日が、彼女の指先を温めていた。


第二章 消えた朝の挨拶


翌朝。


レオナルドはいつもの時刻に寝室を出た。


中央階段を下りる。


磨き上げられた手すり。壁に並ぶ歴代当主の肖像画。窓から差し込む冬の青白い光。


すべてがいつも通りだった。


ただ、踊り場に誰もいなかった。


レオナルドは一瞬、足を緩めた。


そこには毎朝、淡い色のショールを羽織ったエリーゼが立っていた。


「おはようございます、レオナルド様。今朝は冷え込みますね」


そう言って微笑む。


彼はいつも「ああ」とだけ答え、通り過ぎていた。


今朝はその声がなかった。


体調が悪いのか。


昨日、茶会を欠席したいと言っていた。


だが、本人が休みたいと言うのなら、休ませておけばいい。


レオナルドはそのまま食堂へ向かった。


朝食はいつも通り用意されていた。


ライ麦パン、燻製肉、ゆで卵、温かな紅茶。


新聞を広げ、カップを口元に運ぶ。


「……苦いな」


思わず呟いた。


給仕の青年が緊張した面持ちで頭を下げる。


「申し訳ございません、閣下。茶葉はいつものアッサムでございますが」


「いや、いい」


レオナルドはカップを置いた。


確かに、茶葉そのものは変わっていない。


だが、いつもはもう少し香りが柔らかかった。


喉を通るとき、かすかに甘みがあったはずだ。


「茶の淹れ方を変えたのか?」


「本日から、厨房で定められた通常の手順に戻しております」


「通常?」


「はい。これまでは奥様から、閣下のお茶について特別なご指示をいただいておりましたので」


「……そうか」


それ以上、尋ねなかった。


向かいの席は空いている。


「夫人は?」


「お部屋で朝食を済まされました。現在は図書室にいらっしゃいます」


「そうか」


食事を終え、玄関へ向かう途中、レオナルドは図書室の前を通った。


扉が少し開いていた。


窓辺の椅子に、エリーゼが座っている。


膝には分厚い植物図鑑が開かれていた。


レオナルドは足を止めた。


妻が本を読んでいる姿など、久しく見ていなかった。


「エリーゼ」


彼女が顔を上げる。


「何かご用でしょうか、伯爵閣下」


「……登城する」


「承知いたしました。どうぞお気をつけて」


エリーゼは軽く頭を下げ、再び本に視線を落とした。


それだけだった。


レオナルドはしばらく扉の前に立っていた。


何かが足りない。


だが、何が足りないのか分からなかった。


「……昨日のことを、まだ気にしているのか」


独り言のように呟く。


エリーゼは顔を上げなかった。


「昨日のお話でしたら、十分に理解しております」


「ならばいい」


「はい」


穏やかな返事だった。


責める響きも、拗ねた様子もない。


それがかえって気に障った。


くだらない意地だ。


数日もすれば元に戻るだろう。


そう考え、レオナルドは屋敷を出た。


その日、玄関ホールで彼を見送ったのは、当直の従僕だけだった。


変化は少しずつ積み重なった。


朝の挨拶がなくなった。


紅茶から甘い香りが消えた。


書斎の一輪挿しが撤去された。


机の引き出しに常備されていた、胃をいたわる香草の小袋もなくなった。


夜、帰宅しても、玄関ホールにエリーゼはいなかった。


最初の一週間、レオナルドは気にも留めなかった。


二週間目、彼は帰宅するたびに玄関を見回すようになった。


三週間目、見張り番に尋ねた。


「夫人は?」


「すでにお休みになっております」


「……そうか」


それだけのことだった。


妻が眠っている。


何もおかしくない。


むしろ、深夜まで起きている必要など最初からなかった。


彼自身、そう言ったではないか。


それなのに、広い玄関ホールを歩く足音が、以前より大きく響くような気がした。


ある晩、レオナルドは帰宅すると、無意識に口を開いた。


「ただいま」


返事はなかった。


従僕が慌てて頭を下げる。


「お帰りなさいませ、閣下」


「……ああ」


レオナルドは自分の口から出た言葉に戸惑った。


これまで、帰宅時に「ただいま」などと言ったことはなかった。


言う必要がなかったからだ。


いつも先に、エリーゼが「お帰りなさいませ」と迎えてくれていた。


その声に「ああ」と返すだけで、帰宅という行為は完結していた。


彼は暗い階段を見上げた。


二階の廊下に灯りはない。


妻はもう眠っているのだろう。


何を期待している。


自嘲して、寝室へ向かった。


一月が過ぎた頃、レオナルドは風邪を引いた。


王都での長い会議を終え、冷たい雨の中を馬車で帰宅した翌朝だった。


喉が焼けるように痛み、体中の関節が軋んだ。


熱に浮かされながら呼び鈴を鳴らす。


駆けつけた老従僕に、レオナルドは掠れた声で命じた。


「以前、熱を出したときのスープを用意させろ」


「スープ、でございますか」


「香草の入ったものだ。少し甘くて、喉によく効く」


老従僕は困った顔をした。


「あれは……奥様がお作りになっていたものでございます」


「何?」


「中庭で薬草を摘み、厨房をお借りして、ご自身で何時間も煮込んでおられました。料理長も配合をご存じないそうです」


レオナルドは目を閉じた。


記憶が蘇る。


熱を出した夜。


枕元に置かれた陶器の器。


湯気の向こうで、誰かが静かに言った。


『少し熱いので、お気をつけくださいませ』


あれは、エリーゼだった。


当然、覚えている。


けれど、彼女が自ら作っていたとは知らなかった。


いや。


知ろうとしなかった。


「……夫人を呼べ」


老従僕は一瞬ためらった。


「閣下、すでに医師をお呼びしておりますが」


「いいから、呼べ」


しばらくして、エリーゼが現れた。


濃紺の簡素なドレスを着て、髪をきちんと結い上げている。


以前なら、夫が病に倒れたと聞けば、青ざめて駆けつけただろう。


額に手を当て、苦しそうな顔をして、何度も大丈夫かと尋ねただろう。


だが、今の彼女は静かだった。


「お呼びでしょうか」


「……熱がある」


「伺っております。王都から名医をお呼びしました。間もなく到着するそうです」


「以前のスープを作ってくれ」


エリーゼはわずかに目を伏せた。


「申し訳ございません。それはいたしかねます」


「なぜだ」


「あれはロレーヌ家に伝わる民間療法でございます。正式な医師の処方ではありません。伯爵家当主のお体に万が一のことがあってはなりませんので」


「以前は作ってくれただろう!」


思わず声が荒くなった。


エリーゼは動じなかった。


「以前は、私が勝手にしていたことでございます」


「勝手に?」


「はい。閣下から命じられたわけでも、伯爵夫人の職務に含まれていたわけでもございません」


彼女は静かに続けた。


「私の務めは、必要な医療を手配し、適切な看護が行われるよう管理することです。その点は、すでに整えております」


「エリーゼ……」


「どうぞ、ご安心くださいませ」


レオナルドは妻を見つめた。


その顔に怒りはない。


ただ、仕事を滞りなく終えた人間の、穏やかな落ち着きがあるだけだった。


「……まだ、あの一言を根に持っているのか」


エリーゼは少し考えるように首を傾げた。


「根に持つ、とは違います」


「ならば、何だ」


「理解したのでございます」


「何を」


「私がしていたことは、閣下にとって必要のないことだったのだと」


レオナルドは言葉を失った。


「ですから、もういたしません。それだけのことでございます」


「……たかが軽口ではないか」


その瞬間、エリーゼの瞳がわずかに揺れた。


けれど、それはほんの一瞬だった。


「軽口、でございましたか」


「ああ。君を追い出そうとしたわけではない」


「そうでございますね」


彼女は頷いた。


「閣下にとっては、忘れてしまえるほど軽いお言葉だったのでしょう」


レオナルドは何も言えなかった。


「私にとっては、七年間を終わらせるのに十分なお言葉でした」


そう告げて、エリーゼは深く礼をした。


「医師が到着するまで、侍従に冷たいタオルを用意させます。どうぞお大事になさってくださいませ」


扉が閉まった。


レオナルドはしばらく、その扉を見つめていた。


やがて医師が到着し、薬が処方された。


薬湯はひどく苦かった。


だが、それ以上に彼を苦しめたのは、枕元に置かれた空の椅子だった。


以前、熱を出したとき。


そこには誰が座っていたのだろう。


何時間、座っていたのだろう。


自分が眠りに落ちるまで、あの女は何を考えていたのだろう。


初めて浮かんだ疑問に、答えてくれる者はいなかった。


第三章 誰もいない食卓


春が近づくにつれ、レオナルドは奇妙なことに気づき始めた。


屋敷は何一つ変わっていない。


領地からの報告書は期日通りに届き、財政は安定している。


使用人たちは忠実に働き、食事は時間通りに出される。


廊下は磨かれ、庭園は手入れされ、客人への応対にも不備はない。


彼の言った通りだった。


エリーゼが個人的な気遣いをやめても、屋敷は完璧に機能していた。


なのに、なぜこれほど息苦しいのだろう。


ある朝、レオナルドは食堂に入るなり、向かいの椅子を見た。


空いていた。


いつものことだった。


エリーゼはもう、彼と朝食を共にしない。


自室か図書室で、好きな時間に食事を済ませている。


彼女の食事について、レオナルドは何も知らなかった。


何を好むのか。


朝は紅茶を飲むのか、それとも牛乳なのか。


甘いものが好きだっただろうか。


ふと考え、手が止まった。


七年も一緒に暮らしているのに。


妻の好きな朝食を、彼は知らなかった。


「……夫人は、朝に何を食べている?」


給仕に尋ねると、青年は少し驚いた顔をした。


「奥様は、焼いた林檎と柔らかいパンをお好みでございます」


「林檎?」


「はい。南部のご実家では、朝に林檎を焼いて召し上がる習慣があったそうで」


「……そうか」


知らなかった。


妻が故郷の食べ物を懐かしんでいたことも。


この屋敷で、それを口にしていたことも。


何一つ。


レオナルドは紅茶に手を伸ばした。


いつもの苦い紅茶だった。


ふいに、思い出した。


エリーゼは毎朝、彼のために茶を用意していた。


自分が口をつけるより先に、必ず彼のカップを確かめていた。


熱すぎないか。


濃すぎないか。


胃に負担がかからないか。


彼はその間、何をしていただろう。


新聞を読んでいた。


書類に目を通していた。


妻が何か話しかけても、ろくに返事をしなかった。


『おはようございます、レオナルド様』


七年間。


毎朝。


返事もろくにしない男に、彼女は笑いかけていたのか。


レオナルドはゆっくりとカップを置いた。


初めて、胸の奥に別の痛みが生まれた。


妻がいなくて寂しい。


それだけではない。


彼女は、ずっと寂しかったのではないか。


朝、声をかけても目を合わせてもらえず。


夜、帰りを待っても労いの言葉一つなく。


病気の夫を看病しても、感謝されず。


それでも翌朝には、また笑っていた。


なぜだ。


なぜ、そんなことができた。


「……エリーゼ」


声に出しても、返事はない。


向かいの椅子は空いたままだった。


その日、レオナルドは初めて朝食を残した。


数日後、彼は古参の家令を呼んだ。


「夫人について、聞きたいことがある」


家令は静かに頭を下げた。


「何でございましょう」


「……あれは、以前から体が弱かったのか」


「奥様でございますか」


「ああ。冬になると、よく顔色が悪かったように思う」


家令はしばらく沈黙した。


「奥様は、お丈夫な方ではございませんでした」


「なぜ言わなかった」


「何度かお伝えしております」


レオナルドは顔を上げた。


「何?」


「三年前の冬にも、奥様が高熱を出されたことがございました。その折、閣下にお休みをいただきたいと申し上げましたが」


家令は言葉を選ぶように間を置いた。


「閣下は、夫人の体調管理は侍女に任せればよい、と」


レオナルドの記憶に、ぼんやりとした場面が浮かんだ。


忙しい朝だった。


王都から急ぎの書類が届いていた。


誰かが妻の熱について報告してきた。


彼は確かに、そう答えた気がした。


「……そのとき、エリーゼは?」


「二日ほどお休みになりました。その後、閣下のご出立に合わせて、いつも通り玄関に立っておられました」


「熱は下がっていたのか」


「まだ少し、残っていたようでございます」


レオナルドは机の縁を握った。


「なぜ止めなかった」


「お止めしました」


家令の声は静かだった。


「ですが奥様は、閣下はお忙しい方だから、せめて気持ちよくお出かけいただきたい、と」


沈黙が落ちた。


家令はそれ以上、何も言わなかった。


レオナルドも尋ねなかった。


尋ねることが怖かった。


自分が知らずに踏みにじってきたものが、まだいくつあるのか。


知れば知るほど、七年間の記憶が違う色に変わっていく。


妻はいつも笑っていた。


だから幸せなのだと思っていた。


違ったのかもしれない。


あの笑顔は、幸せだったから浮かんでいたのではない。


自分を心配させまいとして、浮かべていたのかもしれない。


レオナルドは初めて、妻の笑顔を思い出すことが苦しくなった。


第四章 最後の願い


その夕暮れ、レオナルドはエリーゼの私室を訪れた。


扉の前に立ち、しばらく動けなかった。


夫婦でありながら、妻の部屋を訪れるのにこれほど緊張するとは思わなかった。


ようやくノックする。


「エリーゼ。私だ」


「どうぞ」


扉を開ける。


部屋の中央に、大きなトランクが置かれていた。


エリーゼは衣類を丁寧に畳み、荷物を詰めているところだった。


レオナルドは足を止めた。


「……何をしている」


「旅支度でございます」


「どこへ行く」


「王都へ。その後、南部へ向かう予定です」


「南部?」


「はい」


エリーゼは机の上から一通の書類を取った。


「ちょうど、お渡ししようと思っておりました」


差し出された羊皮紙に、レオナルドは目を落とした。


婚姻解消合意書。


その文字を理解するまで、数秒かかった。


「……何だ、これは」


「離縁のための書類でございます」


「離縁?」


「はい」


エリーゼは穏やかに頷いた。


「王立法務院への事前申立ては済ませております。婚姻生活の実態についても、双方の代理人を通じて確認が進んでおります。あとは閣下のご同意をいただければ、手続きを終えられます」


「待て」


レオナルドは書類を見つめた。


「なぜ、こんなものを用意した」


「父が遺してくれたものでございます」


「そういうことを聞いているのではない!」


声が響いた。


エリーゼは少しも怯まなかった。


「では、何をお聞きになりたいのでしょう」


「なぜ離縁する必要がある!」


「もう、夫婦である理由がございませんので」


あまりにも静かな答えだった。


レオナルドは言葉を失った。


「……私は、浮気などしていない」


「存じております」


「生活に不自由もさせていない。必要なものはすべて与えてきたはずだ」


「はい。感謝しております」


「ならば、何が不満だ!」


エリーゼは少しだけ目を伏せた。


「不満ではございません」


「では何だ」


「終わったのでございます」


レオナルドは息を呑んだ。


「私は七年間、閣下の妻であろうと努めてまいりました」


エリーゼの声は穏やかだった。


「政略結婚であることは承知しておりました。愛していただけないことも、覚悟しておりました」


彼女は窓の外を見た。


春を待つ庭には、まだ雪が残っていた。


「ですが、同じ家で暮らすのですから、少しは心を通わせられるのではないかと思ったのです」


「……」


「朝、お顔を合わせたら挨拶をする。疲れてお帰りになったら、温かいものを用意する。お体を悪くされたら、少しでも楽になるようにと願う」


一つ一つ、確かめるように言葉を紡いだ。


「それだけのことでした」


レオナルドは唇を噛んだ。


「私は……」


「ですが、閣下は仰いました」


エリーゼが彼を見る。


「私がいなくても、何一つ困らないと」


「それは、違う」


「何が違うのでしょう」


「私は……あのとき、君の気持ちを考えていなかった」


初めて口にする言葉だった。


エリーゼは黙って聞いていた。


「君がしてくれていたことを、何も知らなかった。茶のことも、スープのことも……」


レオナルドの声が震えた。


「君が熱を出していたことさえ、覚えていなかった」


エリーゼの表情が、ほんのわずかに変わった。


驚きではなかった。


懐かしい痛みに触れたような、かすかな陰りだった。


「……そうでございましたね」


「すまなかった」


レオナルドは頭を下げた。


伯爵家の当主として、誰かにこれほど深く頭を下げたことはなかった。


「私は、ひどい夫だった」


エリーゼは何も言わなかった。


「今なら分かる。君がどれほど寂しかったか。私がどれほど無神経だったか」


彼は顔を上げた。


「だから、もう一度だけ機会をくれないか」


エリーゼは静かに夫を見つめた。


「……何の機会でしょう」


「やり直す機会だ」


「私と、ですか」


「そうだ」


レオナルドは一歩近づいた。


「今度こそ、君を大切にする。朝は私から挨拶をする。食事も一緒に取ろう。君の好きなものを教えてくれ。何でも……」


「閣下」


エリーゼが遮った。


「私の好きなものをご存じですか」


レオナルドは口を閉ざした。


「好きな花は?」


答えられなかった。


「好きな季節は?」


沈黙した。


「私が幼い頃、何になりたかったかは?」


レオナルドは目を伏せた。


エリーゼは微笑んだ。


悲しげでも、皮肉でもない。


ただ、静かな微笑みだった。


「私は植物学を学びたかったのです」


「……植物学?」


「はい。父の領地には薬草が多く自生しておりました。幼い頃から、それらを調べるのが好きでした」


レオナルドは、妻が図書室で読んでいた分厚い本を思い出した。


「嫁いでからも、少しずつ勉強を続けておりました。いつか、小さな薬草園を持つことが夢だったのです」


知らなかった。


彼女が何を夢見ていたのか。


七年間、一度も尋ねなかった。


「私は閣下のことを、たくさん知っております」


エリーゼは続けた。


「胃腸が弱いこと。濃い紅茶が苦手なこと。寒い朝には右手の指が強張ること。書類を読むとき、無意識に眉間へ皺を寄せること。疲れているときほど、食事を急いでしまうこと」


レオナルドは動けなかった。


「けれど、閣下は私の好きな花さえ、ご存じない」


「……エリーゼ」


「それが、私たちの七年間でございます」


彼女は書類を机に置いた。


「今になって私を知ろうとしてくださることは、ありがたく思います」


「ならば……」


「ですが、私はもう、閣下に知っていただきたいとは思わないのです」


その言葉は、怒声よりも深く胸を貫いた。


「……なぜだ」


「疲れてしまいました」


エリーゼは静かに答えた。


「いつか振り向いていただけるかもしれないと期待することに。少しの優しさをいただくだけで、また何年も頑張れると思い込むことに」


レオナルドの伸ばしかけた手が止まった。


「私は、もう十分に待ちました」


「今度は私が待つ」


思わず口にした。


「七年でも、十年でも待つ。君が許してくれるまで……」


エリーゼは首を横に振った。


「待たないでください」


「……」


「私の人生を、これ以上、閣下の後悔のために使いたくはございません」


レオナルドは立ち尽くした。


彼女の言葉は正しかった。


自分は今も、妻に何かを求めている。


許しを。


やり直す機会を。


もう一度、自分を見てくれることを。


だが、妻が何を望んでいるかは、もう聞くまでもなかった。


彼女はここを出たいのだ。


自分の人生を生きたいのだ。


「……君は、私を憎んでいるのか」


ようやく尋ねた。


エリーゼはしばらく考えた。


「いいえ」


その答えに、レオナルドは一瞬だけ顔を上げた。


「憎んでおりません」


彼女は続けた。


「憎むことにも、心を使わなければなりませんから」


レオナルドの顔から血の気が引いた。


「もう、閣下のことで私の心をいっぱいにしたくはないのです」


長い沈黙が流れた。


やがてレオナルドは、机の上の書類に目を落とした。


そこにはエリーゼの署名があった。


迷いのない、流麗な文字だった。


「……これに署名すれば、君は自由になるのか」


「はい」


「幸せに、なれるのか」


エリーゼは少しだけ微笑んだ。


「それは、これから私が決めることでございます」


レオナルドは目を閉じた。


初めて理解した。


妻の幸せは、自分が与えるものではない。


彼女自身が選ぶものなのだ。


そして、その選択の中に、自分はもういない。


「……分かった」


声が掠れた。


「署名しよう」


エリーゼは深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


その礼は、七年間で初めて、レオナルドが妻から受け取った心からの感謝だった。


そして、最後の感謝でもあった。


数日後、離縁の書類に署名がなされた。


エリーゼが屋敷を去る朝、北方には珍しく柔らかな日差しが降り注いでいた。


玄関には馬車が用意されていた。


使用人たちが並び、別れを惜しんでいた。


老家令は目頭を押さえ、若い侍女たちは涙をこらえていた。


エリーゼは一人一人に礼を告げた。


「長い間、ありがとうございました」


「奥様……どうぞ、お幸せに」


「ええ。皆様も、お元気で」


レオナルドは階段の途中から、その光景を見ていた。


彼女がこれほど使用人たちに慕われていたことも、知らなかった。


エリーゼは最後に彼を見上げた。


「伯爵閣下。七年間、お世話になりました」


レオナルドは手すりを握った。


言いたいことは山ほどあった。


行かないでくれ。


もう一度だけ笑ってくれ。


私の名前を呼んでくれ。


けれど、そのどれも口にしなかった。


代わりに、彼は深く頭を下げた。


「……君の旅路に、幸運があることを祈る」


エリーゼは静かに微笑んだ。


「ありがとうございます」


それから、馬車へ乗り込んだ。


車輪が動き出す。


レオナルドは見送った。


門を抜け、坂を下り、馬車が見えなくなるまで。


彼女は一度も振り返らなかった。


その日の夜。


レオナルドは初めて、玄関ホールのランタンに自分で火を灯した。


小さな炎が揺れた。


温かな光が、冷たい大理石の床を照らす。


彼はしばらく、その炎を見つめていた。


七年間、彼女は毎晩、こうしていたのだ。


誰かに命じられたわけでもなく。


感謝されるわけでもなく。


ただ、自分が帰る道を明るくするために。


レオナルドはランタンの前にしゃがみ込んだ。


「……ありがとう」


誰もいない玄関に、小さな声が落ちた。


遅すぎた言葉だった。


第五章 春の庭


三年後。


王都から南へ馬車で半日ほど下った丘陵地帯に、小さな薬草園があった。


春にはカモミールが白い花を咲かせ、夏にはラベンダーが風に揺れる。


秋には薬草を乾燥させる甘い香りが漂い、冬には温室の窓が柔らかな光を映した。


その庭で、エリーゼは土に触れていた。


麦わら帽子をかぶり、袖を肘までまくり、籠いっぱいに摘んだ薬草を選り分けている。


かつての青白い顔色は消え、頬には健康的な赤みが差していた。


「エリーゼ」


庭の向こうから声がした。


顔を上げると、アルベルト・ハインリヒが立っていた。


三十代半ばの穏やかな学者で、かつて王立植物園の主任研究員を務めていた男だった。


エリーゼの亡き父とも親交があり、彼女が南部へ戻った際、薬草の研究を続けたいという希望を聞いて、自分の研究室を開放してくれた。


それから三年。


二人は共に薬草園を整え、小さな図書室を作り、村人たちに植物の知識を教えるようになっていた。


「そろそろ休憩にしないかい」


アルベルトが言った。


「もう少しで、この畝が終わりますから」


「それは一時間前にも聞いたよ」


エリーゼは目を瞬かせた。


アルベルトは困ったように笑った。


「君は植物のことになると、時間を忘れてしまう」


「まあ。それはアルベルト様も同じではありませんか」


「私?」


「昨日、研究室で夕食を召し上がるのを忘れていたのは、どなたでしたかしら」


アルベルトは口を閉ざした。


「……それは、反論できないな」


エリーゼは笑った。


声を上げて笑うのは、もう珍しいことではなかった。


「ですから、今日は一緒に休憩いたしましょう」


「そうしよう」


アルベルトは彼女の籠を受け取った。


「重かっただろう」


「大丈夫ですわ」


「大丈夫でも、私に持たせてくれ。君が摘んでくれたのだから、運ぶくらいは私の仕事にしたい」


二人は並んで歩いた。


温室の前には、小さな木製のベンチが置かれている。


そこに腰を下ろすと、アルベルトが包みを開いた。


焼きたての林檎のタルトだった。


「まあ!」


エリーゼの顔が輝いた。


「どうなさったのですか?」


「昨日、君が林檎を見ていたからね」


「見ていただけですのに」


「食べたいのかなと思って」


「……よくお気づきになりましたね」


アルベルトは首を傾げた。


「君のことだからね」


何でもないように言われた言葉だった。


エリーゼはしばらく黙っていた。


「……アルベルト様」


「何だい?」


「私、昔は自分の好きなものを口にするのが苦手でした」


アルベルトは静かに耳を傾けた。


「誰かが困らないように、誰かが不快にならないように。そればかり考えていました」


「うん」


「自分の好きなものなど、後回しでよいと思っていたのです」


春風が二人の間を通り抜けた。


「でも、今は違います」


エリーゼは林檎のタルトを一口食べた。


甘酸っぱい香りが口いっぱいに広がる。


「おいしいです」


アルベルトは嬉しそうに笑った。


「よかった」


「本当に、おいしい」


「そんなに喜んでもらえるなら、また焼こう」


エリーゼは微笑んだ。


「では、今度は私がお茶を淹れますね」


「ありがとう。でも、今日は私が淹れるよ」


「どうしてですか?」


「君は朝から庭仕事をしていただろう。少し休んでいてほしい」


「アルベルト様だって、お忙しいのに」


「だから、一緒に休むんだ」


アルベルトは笑った。


「どちらか一人が頑張り続ける必要はないだろう?」


エリーゼは彼を見つめた。


そして、ゆっくりと頷いた。


「……そうですね」


以前の彼女なら、きっと遠慮した。


自分が淹れますと言い張っただろう。


相手に何かをしてもらうことを、申し訳なく思っただろう。


けれど、今は違う。


「では、お願いします」


「喜んで」


アルベルトが立ち上がる。


その背中を見送りながら、エリーゼは春の庭を眺めた。


白いカモミールが風に揺れている。


あの花を初めて育てたのは、夫の胃をいたわるためだった。


今は違う。


自分が好きだから育てている。


香りが好きだから。


花の形が好きだから。


研究したいことが、まだたくさんあるから。


エリーゼは目を閉じた。


胸いっぱいに春の空気を吸い込む。


もう、誰かの帰りを待って寒い玄関に立つ必要はない。


誰かの機嫌を気にして、笑顔を作る必要もない。


愛されるために、自分をすり減らす必要もない。


それでも、誰かを大切にしたいと思える。


そのことが、嬉しかった。


「エリーゼ」


アルベルトが戻ってきた。


両手には温かな紅茶のカップがある。


「少し蜂蜜を入れたよ。君はこのくらいの甘さが好きだろう?」


エリーゼは受け取った。


「ええ。大好きです」


アルベルトは隣に座った。


二人で同じ庭を眺める。


しばらく、何も話さなかった。


けれど、その沈黙は少しも寂しくなかった。


やがてエリーゼが口を開いた。


「アルベルト様」


「うん?」


「今日も、良い一日になりそうですね」


「そうだね」


アルベルトは微笑んだ。


「君と一緒なら、きっと」


エリーゼは笑った。


今度は、何のためでもなく。


ただ、幸せだったから。


終章 届かない朝


同じ頃。


北方のヴァルハイト伯爵邸には、遅い春が訪れていた。


レオナルドは執務室で書類に目を通していた。


領地の財政は順調だった。


鉱山の収益は増え、街道の整備も進んでいる。


王都での評価も高く、若くして重職に就く可能性さえ噂されていた。


彼の人生は、何一つ破綻していなかった。


ただ、屋敷は静かだった。


朝、階段を下りても、誰も待っていない。


食堂では給仕が丁寧に紅茶を淹れる。


夜、帰宅すれば従僕が出迎え、暖炉には十分な薪がくべられている。


生活に不自由はない。


望めば、どんな贅沢でも手に入る。


それでも、レオナルドは時折、書類を読む手を止めた。


窓辺に飾られた花を見る。


今は専属の庭師が、季節ごとに美しい花を生けていた。


かつてエリーゼが飾っていた一輪挿しより、ずっと豪華だった。


けれど、彼はもう、その花の名前を尋ねることができなかった。


彼女が好きだった花は、何だったのだろう。


最後まで、聞けなかった。


いや。


聞く機会は、七年間もあったのだ。


ただ、尋ねなかっただけだった。


レオナルドは眼鏡を外した。


机の引き出しを開ける。


中には、小さな押し花の栞があった。


離縁後、書斎の古い書物から見つかったものだった。


白いカモミールの花が、一輪だけ挟まれている。


裏には、エリーゼの文字が残されていた。


『どうか、今日も健やかに』


それだけだった。


名前も、日付もない。


誰かに見せるために書かれたものではなかったのだろう。


レオナルドは栞を手に取った。


あの日、妻は言った。


『私は、もう十分に待ちました』


今なら、その言葉の重さが分かる。


自分は三年、彼女のいない朝を過ごした。


たった三年で、これほど寂しい。


では、彼女は。


七年間、どれほどの朝を、一人で迎えていたのだろう。


自分が同じ食卓にいながら、彼女はどれほど孤独だったのだろう。


レオナルドは目を閉じた。


もう、彼女に謝ることはできない。


正確には、謝ろうと思えばできるのかもしれない。


手紙を書き、使者を送り、会う機会を求めることも。


だが、それはしなかった。


彼女は最後に、はっきりと言ったのだ。


自分の人生を、これ以上、彼の後悔のために使いたくないと。


ならば、その願いだけは守らなければならない。


彼女が自分のことを思い出さずに済むのなら。


それが、今の彼にできる唯一のことだった。


レオナルドは栞を引き出しに戻した。


朝の光が窓から差し込んでいる。


廊下の向こうで、使用人たちが仕事を始める音がした。


屋敷は今日も、完璧に機能していた。


彼は紅茶を一口飲んだ。


「……苦いな」


呟いてから、ふと手を止めた。


この茶を淹れた給仕は、毎朝、自分のために湯を沸かしている。


茶葉を量り、温度を確かめ、適切な時間を待っている。


当たり前のように受け取ってきたものだった。


レオナルドは呼び鈴を鳴らした。


給仕が入ってくる。


「お呼びでしょうか、閣下」


レオナルドはカップを置いた。


「……いつも、茶を淹れてくれてありがとう」


青年は驚いたように目を見開いた。


「い、いえ。滅相もございません」


「いや。礼を言いたかっただけだ」


給仕は戸惑いながらも、やがて小さく微笑んだ。


「ありがとうございます、閣下」


青年が退出したあと、レオナルドは再び窓を見た。


あの頃の自分なら、こんなことは言わなかっただろう。


少しは変われたのかもしれない。


けれど、その変化をエリーゼに知ってもらおうとは思わなかった。


もう、彼女に何かを返してもらうために生きるべきではない。


彼女が自分に教えたことを、これからの人生で忘れずにいる。


それだけだった。


レオナルドは万年筆を取った。


窓の外では、北方の雪がゆっくりと解け始めている。


やがて春が来る。


夏が過ぎ、秋が訪れ、また冬になる。


季節は何度でも巡るだろう。


だが、もう二度と戻らない朝がある。


『おはようございます、レオナルド様』


あの声を聞くことは、もうない。


それでも彼は、生きていかなければならなかった。


自分が失ったものを、誰かに埋め合わせてもらおうとせずに。


彼女がくれた温もりを、なかったことにせずに。


そして、遠い南のどこかで、エリーゼが今日も心から笑っていることを、ただ願いながら。


レオナルドは静かに呟いた。


「……おはよう、エリーゼ」


返事はなかった。


けれど、今度はそれでよかった。


その言葉は、もう彼女に届かなくてもよいのだから。


完



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