番外編「深淵の底で見つけた唯一の光」
◇レオン・ヴァレンタイン視点
静寂というものが、これほどまでに甘く、心地よい質量を持っていることを、俺は彼に出会うまで知らなかった。
特別療養室の分厚いカーテンの隙間から、夜の冷たい月光が細い糸のように差し込んでいる。
その青白い光の帯が、俺の腕の中で深い眠りについているエドガー・オルコットの横顔を淡く照らし出していた。
規則的に上下する華奢な胸の動き。
少し開かれた柔らかい唇から漏れる、静かで温かい寝息の音。
彼の皮膚の下を流れる穏やかな血の巡りすらも、今の俺には手に取るように伝わってくる。
俺は自身の大きな手で、エドガーの細い腰をそっと引き寄せ、その体温を自分自身の奥底へと溶かし込むように深く抱きしめた。
ほんの数週間前まで、俺の世界にはこのような安らぎなど一片たりとも存在していなかった。
特異覚醒者としての力が完全に定着してからの十数年間、俺の五感は常に剥き出しの刃で切り刻まれるような過負荷の激痛に晒され続けていたのだ。
空気中を舞う微小な埃が床に落ちる音すらも、耳元でガラスを叩き割られるようなノイズとなって鼓膜を貫く。
昼間の陽光は網膜を焼き焦がす炎となり、すれ違う他者の感情の揺らぎは、吐き気を催すほどの悪臭となって鼻腔を侵犯してきた。
学園の地下に設けられた魔力封じの結界部屋で、ひとり膝を抱えて終わりのない痛みに耐え続ける夜が幾千回あったことか。
強大すぎる戦闘魔術の才能は、国からも学園からも重宝されたが、それに適合する波長を持つ導き手は誰一人として現れなかった。
俺に触れようとした優秀な導き手たちは皆、俺の体内で荒れ狂う魔力の圧力に耐えきれず、精神を破壊される前に悲鳴を上げて逃げ出していったのだ。
俺は誰にも救われない怪物なのだと、とうの昔に絶望し、諦めきっていた。
他者を傷つけないために分厚い氷の仮面を被り、誰にも心を開かず、ただひたすらに孤独という名の檻の中で息を潜めて生きるしかなかった。
あの日、旧校舎の薄暗い廊下で最悪の過負荷状態に陥ったとき、俺はついに自らの命を絶ってこの苦痛から逃れようとすら考えていた。
制御を失った魔力が周囲の空間を破壊し始め、俺の理性は狂気の淵へと完全に崩れ落ちようとしていたのだ。
そこに、ひとつの小さな足音が近づいてきた。
逃げろと叫ぶ余裕すらなかった。
近づけば、俺の漏れ出した魔力がその不用意な侵入者の命を容易く奪ってしまう。
しかし、その足音は途切れることなく俺の目の前まで歩みを進め、そして、ひどく冷え切っていた俺の頬に、温かく小さな手のひらが触れたのだ。
その瞬間の衝撃を、俺は生涯忘れることはないだろう。
俺の魂を焼き尽くそうとしていた業火の中に、果てしなく深く、底知れぬほどに澄み切った一滴の水が落ちてきた。
それは俺の荒れ狂う魔力を否定するでもなく、力で押さえつけるわけでもなく、ただそこに静かに存在し、すべての熱を優しく飲み込んでいった。
目を開けた俺の視界に飛び込んできたのは、ひどく純粋で、俺の痛みを本気で悲しんでくれている新入生の緑色の瞳だった。
エドガー・オルコット。
波長が薄すぎて測定不能だという落ちこぼれの烙印を押されていたその少年は、実際には誰よりも深く、海のように広大な波長をその小さな身体に秘めていたのだ。
その温もりに触れた瞬間、俺の奥底で長年抑圧され続けてきた飢餓感が、黒い泥のようにどろりとあふれ出した。
彼を手に入れたい。
俺の苦痛を溶かしてくれるこの光を、誰の目にも触れない場所へ閉じ込め、俺だけのものにしたい。
教師と生徒という立場を利用して彼を特別教官室に呼び出したとき、俺の理性はとっくに破綻していたのだ。
表向きは補習という名目を与えながら、密室で彼に触れるたび、俺の魂は甘い痺れを伴う快楽に溺れていった。
彼が俺のためにその澄んだ波長を流し込んでくれるとき、俺の胸を満たしていたのは安堵だけではない。
純粋な好意と献身を向けてくれる彼を、自身の昏い執着と独占欲で絡め捕っていくことへの、背徳的な喜悦だった。
だからこそ、秋季実習の森で彼を孤立させられたと知ったとき、俺は世界そのものを破壊してでも彼を取り戻すことしか考えられなかった。
彼が傷つくくらいなら、対立派閥の貴族どもなど跡形もなく消し去ってしまえばいい。
結界を力任せに破壊し、限界を超えて魔力を引き出した結果、俺の精神は完全に崩壊の臨界点を迎えていた。
しかし、彼は俺を見捨てることなく、あのような地獄の底まで自身の意識を沈め、俺の魂を根本から救い出してくれたのだ。
俺は今、眠るエドガーのうなじに顔を埋め、その肌から立ち上る甘い体臭を深く肺の奥へと吸い込んだ。
彼が俺の奥底まで同調してくれたおかげで、俺の魔力回路は完全に調律され、二度と暴走を起こすことはない。
もはや俺の過負荷を鎮めるための治療は必要ないはずだった。
それでも俺は、彼を手放すつもりなど毛頭なかった。
治療という口実がなくなったのなら、俺のすべてを懸けた溺愛という鎖で、彼の心と身体を永遠に繋ぎ止めるだけだ。
俺の指先が、エドガーの鎖骨のラインをなぞり、その上にある小さな脈打つ熱を確かめるようにゆっくりとなでる。
くすぐったかったのか、エドガーが微かに身じろぎし、無防備に俺の胸元へとすり寄ってきた。
その愛らしい仕草に、俺の胸の奥で甘く重い熱が渦を巻く。
「……お前は、もう逃げられないぞ」
誰にも聞こえないほどの低い声で囁き、俺は彼の柔らかい髪に静かに口づけた。
学園の教師という肩書きも、最強の特異覚醒者という名声も、俺にとっては彼を外敵から守るための便利な道具でしかない。
俺の魂はすでに、この腕の中にいるただ一人の青年のためにのみ存在している。
どんな手を使ってでも、彼の笑顔を、彼の温もりを、彼のすべてを俺の手のひらの中に閉じ込めておきたい。
それは決して清らかな愛情などではなく、自身の命すらも差し出す覚悟を伴った、底なしに重い執着だった。
エドガーが深い眠りの波間から微かに意識を浮上させ、閉じた目蓋のまま俺の背中へとそっと腕を回してくる。
その無条件の信頼と深い愛情が、俺の昏い独占欲を優しく肯定してくれているようだった。
俺は彼をさらに強く抱きしめ、二度と彼を手放さないという誓いを、夜の静寂の中で何度でも心の奥底に刻み込み続けた。




