Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜
好きな映画って何?
頭に浮かぶ映画が一つある。
退廃的な街の空気と、グリコの歌声。
岩井俊二の『スワロウテイル』。
特に岩井俊二のファンというわけでもない。
岩井俊二の映画は、これ以外見たことはない。
ただ、あの時、僕にはこの映画の主題歌が、
あの曲が、必要だった。
名古屋駅の深夜バスの乗り場は、いつも妙に明るい。
時刻は二十三時を過ぎていた。
蛍光灯の白い光の下に、乗客たちがまばらに座っていた。
スマホでゲームをしている人。
イヤホンをして何かを聞いている人。
大きなバッグを膝の上に乗せている人。
みんな何かを抱えて、どこかへ向かおうとしていた。
時刻通りに東京行きのバスは発車した。
僕はリュックを足元に置いて、窓の外の暗い高速道路をずっと見ていた。
車窓には自分の顔が薄く映っていた。
高速道路の白い灯りが、一定のリズムで流れていった。
あるビジネス系のイベントで彼女と出会った。
きれいな人だと思った。
彼女が結婚していたのは、出会った頃から知っていた。
そのままだったら、少し年上の素敵な既婚の女性。
ある日、彼女が言った。
「自分で稼げるようになったら、離婚するって決めてるんだ」
その時に、関係が決定的に変わった。
それから数回、二人で会った後、恋人同士になった。
距離と彼女の状況とで、会える時間は限られていた。
それがさらに彼女を愛おしくさせた。
別れ話は急だった。
どこで話を聞いたのか、もう正確には覚えていない。
カフェだったかもしれない。覚えているのは、彼女の声のトーンだけだ。
穏やかで、低くて、決まっていた。迷っている声ではなかった。
「自分で稼げるようになったら、離婚するって決めてるんだ」
その言葉に嘘はなかったと思う。彼女の気持ちが夫から離れていたのは、彼女を見ていればわかった。
僕への気持ちも、同じように離れていったということだろうか。
都内のホテルの部屋に戻った。
ベッドに、コートのままうつ伏せになった。
何時だったのか、覚えていない。別れ話の後、ホテルに戻るまで何をしていたのか、今はもう思い出せない。どこかを歩いていたのかもしれない。ただ歩いていたのだと思う。
感情が、僕を包もうとしているのを感じた。
ただ、それを受け取ることが、怖かった。受け取ってしまったら、もう立てない気がした。
スマホを取り出した。
YouTubeで「あいのうた」と検索する。
Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜という正式名称と、白黒のグリコの顔のサムネイルが表示される。
タップすると、Yen Townを空から写した映像とともに、なんの音色かわからないメロディの切ないイントロが流れた。
彼女と一緒に聴いたわけでもない。思い出の曲でもない。
ただ、あの夜、この曲が必要だった。
白黒の映像の中で、廃墟みたいな街。グリコの声が響く。
「私はうわの空で、別れを想った」
その歌詞が流れた瞬間、何かが止まった。
感情が来ようとしていた、あの気配が、止まった。
僕の内側で何かが壊れるより、一瞬だけ早く、この曲が間に合った。
僕は泣かなかった。
ただ、上の空でいた。
僕はうつ伏せのまま、スマホの画面を見ていたわけではない。
ただ、グリコの声を聴いていた。
今ならわかる。
この曲に包まれて、上の空でいることで、自分が壊れていくのを止めていたんだ。
あの夜の俺には、グリコの声が、必要だった。
あの退廃的な世界の空気が、必要だった。
あれから9年経った。
あの時、あの曲が、必要だった。




