146話 ぽこと赤ん坊のお世話①
ピーター・ウェインの秘書に、貴族の称号も校長職も辞退するとはっきり言ってから、気が楽になった。
新人育成や指導者の育成をしていても、クエスト屋の職員という立場ではなく、冒険者として接せられる。
いや、正直に言おう。
仕事からの帰り道、鼻歌が出るのは、プロポーズが無事に終わったからだ。
何と言っても気恥ずかしく、万一にでも断られでもしたらと想像するだけで勇気が必要だった。
「退職日は調整中だが、冬になるまでには戻れるはずだ」
隣を歩くぽこに伝えると、ぽこが挨拶する相手をリストアップし始めた。
「エミリアさんと恋人さんでしょ、図書館のジュリアンにルイス、それに――」
ぽこは元来、人付き合いがいいらしい。
王都でも知り合いができたらしく、何度か聞かされたことのある名前を聞きながら、生返事する。
俺が挨拶するのは職場以外は九重蔓の館の女主人であるイスタリさんくらいのものだ。
鮮やかなピンク色の葉で覆われた九重蔓の館に帰ると、ケリーが飛んできた。
ぽこの手から、パンの欠片を貰って嬉しそうに尻尾を振っている。
ぽこは、人生初の怖くない犬ができたと言っているが、ケリーが走ってくると、数歩たじろいでいる自覚はないらしい。
一階から赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
ふにゃふにゃした頼りない泣き声が耳に入ると、なんだかそわそわしてしまう。
左端の部屋の扉が開き、赤ん坊を抱いた女性が出てきた。
ガウン姿で髪も梳かせず、ふらふらしているが、俺たちを見て大慌てで髪を手櫛で整えた。
「あ、うるさくしてごめんなさい!」
「わぁ! 赤ちゃん見せて貰っていいですか?」
ぽこが駆け寄って、泣いている赤ん坊を見た。さりげなく抱っこまでさせてもらっている。
「小さい! 可愛い‼」
ぽこがゆらゆら身体を揺らし、とんとん優しくリズムをつけてあやすと、赤ん坊が泣き止んだ。
「どうやっても泣き止まなかったのに」
女性は驚き、その後大きなため息をついた。
「十人の甥と姪の面倒を見たから、たまたまできただけ。もう少ししたら人見知りして、ママしか抱っこさせてもらえなくなっちゃう」
「十人も⁉」
ぽこの若さで十人も甥と姪がいるのは珍しい。
「旦那さんは?」
「今週は訓練で」
そういえば、ここの旦那さんは騎士団員だから、訓練に出ると何日も帰ってこれないと聞いたことがある。
九重蔓の館の住民は、騎士団関係者が多いというのも最近知った。
「生まれたばかりなのに、大変じゃないですか?」
「そうなの。まだふらふらするのに、一人で家事も育児もしなくちゃいけなくって……。食事はイスタリさんが差し入れてくださっているけど、赤ちゃんを育てるのは初めてで」
「おしめを変えて、おっぱいあげて、げっぷさせて、寝たと思ったら、また泣きますもんね」
「そうなの。私が全然寝れなくって、どうやって皆これを乗り越えてるのかしら?」
顔色が悪く、話していてもふらふらしている。
お腹が鳴る大きな音がした。
俺とぽこのではない。俺たちはさっき食べたばかりだ。
「良かったらご飯の間、抱いてましょうか?」
「いいの⁉ ありがとう!」
余計なお世話かと思ったが、女性は大喜びで部屋に俺たちを入れた。
部屋の間取りはどこも同じらしく、入ってすぐが台所だ。
女性はイスタリさんからの差し入れを温めもせずに、かき込むようにして食べ始めた。
「私たち予定はないから、ゆっくり食べて」
「お茶も出さずにごめんなさい」
言われてみれば、女性はお茶も飲まずに食べている。
「お茶を淹れてこよう」
「うちのを使ってください」
失礼してお茶の用意をし、ついでに溜まっている洗い物をしてしまう。お茶の用意ができた頃には、女性は食べ終わって、大あくびをした。
今にも寝てしまいそうだ。
ぽこと視線が合う。
「良かったら、次の鐘が鳴るまで寝てください」
判断力に欠けるのか、はたまた、ぽこの寝かせ技が女性にも効いたのか、女性は大きく頷いた。
「さっき搾乳したのが、そこに入ってます。おしめはそこ」
今にも寝てしまいそうに身体を前後に揺らしながら、女性が最後の力を振り絞って、赤ん坊の世話に必要な物の在りかを教えてくれる。
「安心してゆっくり寝てくださいね」
身体を引きずるようにして居間にたどり着き、長椅子に倒れた瞬間、大きないびきをかき始めた。
なるべく音を立てないように、言われた赤ん坊の荷物をまとめ、二階の自室に引き上げる。ぽこが腕に抱いた赤ん坊も、母親と同じようによく寝ている。
ぽこは、注意深く赤ん坊をベッドの真ん中に置いて、自分もその脇に寝転んだ。
愛おしそうに赤ん坊を見つめる姿を見て、軽口を叩こうとしていた言葉が引っ込んだ。
あぁ、ぽこは自分の子が欲しいんだな。
プロポーズが成功して、満足していたが、足りないものがある。
俺たちには、やはり古の薬が必要だ。





