第2話 起きれずの呪禍 ④
肩に掛ける重苦しい鎖をものともせず、前回と同様に暗闇に寵愛を受けるまま鼻歌を唄い。
Curse of traumerei。カルゼリーは自身の住処とする家屋へと戻ったのだ。その足は悠々と、やたらと軽い様が気になる動きであった。
それはさながら餌を確保した虫が己のねぐらに帰るようにも感じられる。
揃った、揃ったと。カルゼリーの心もまた比喩に漏れない喜びに満ちたものだった。
理由となればやはり、矛と盾。その2つの揃いが、完成となる彼らが、情景を妄想すればするほどカルゼリーを有頂天に昇らせていたからであろう。
「ただいま戻りました」
広いとも狭いとも言えない玄関口にて、そうカルゼリーは口にする。
呪禍の巣でも一般的な造りには違いがない。とてもとても、普通にして普通。木材の比率が高い、一般的な家の玄関であるのだ。
目の前には食器の棚にすら手が届かないだろうと、そんなこじんまりとした背丈の子供らしき人物が一人いた。
白い寝間着に、膨れたウールの帽子。可愛らしくもボンボンが付いている。
長過ぎるとも短過ぎるとも言い切れない黒髪の束が、隠されてはいるものの寝癖が付いて、頬を見れば押し付けた跡が判子のようにくっきりと浮かんでいる。
呪禍の巣に住んでいるのはカルゼリー一人ではない。この女子もまた、等しくその役目に殉じる、呪いに魅せられた申し子なのである。
未だ眠気に抗っているのか虚ろな瞳であるものの、丹田の前に組んだ手指は確固としていた。
「お帰りなさいませ。べラズワード様がお見えになっております」
「あら、彼が参られているのですね?。リアファー、このお、お方を......ジューン様と同室の部屋へとお運び下さい」
どうにも玄関口の幅に合わなかった棺をあの手この手で引き入れた。
ちょっとしたおっちょこちょい。わざとらしくもお茶目な一面を見せその鎖を手渡す。
「畏まりました」
リアファーはその様子には特に反応せず。
よくある事で日常的なものなのだと暗に示しているかの如く。
棺を引き摺るその力はまた、幼子のそれとは乖離した余裕を持っていた。
カルゼリーは温かな瞳で見送ると、不意に閉じて、赤らめた頬のまま歩き出した。
(直接お会いするのは幾月ぶりか。はぁぁ……早くそのお顔を拝見致したい……)
心の中に花を咲かせる。
月夜に照らされたガーデンを思わせるその足取りは、古めかしい長椅子と、煌々と燃ゆる火の粉の手招きを天に差し向ける暖炉。
そんな一般的な日常生活を送るに不便しない一室へと吸い込まれていった。
カルゼリーに背を向けていたのは、幅広のコートを羽織る丈が長い人物だった。
髪は燃え尽きた上に飛灰。まだらに色を失った配色が目に付いた。老人のように覇気を感じず、しかし絵画の如く目を奪われる妙な力があった。
彼は奥にある絵画を見ている。
何気ない麦畑と、老夫婦と思しき人物が2人描かれている物だ。
「ご足労様で御座いますべラズワード卿」
「......用がなければ、どうして斯様な腐臭漂う糞溜まりになど。忌々しい」
元々は鈍重に低く、間延びするかのような声なのだろう。
しかしそこに焼けが入れば、掠れるおどろおどろしい印象にならざるを得ない。
カルゼリーはフードを下ろし、その艶めかしい心を隠す様に頭を垂れ、外気の香りが未だ残る服の裾の両端を摘み持ち上げた。
「ラヤの村にて起きた一件、片付きまして御座います」
「もう一つだ。北の外れにあるヴィーク家へと赴け」
「承りました。うふふ......」
静かな笑み。
それを聞いたであろうベラズワードは振り返り、射殺すような瞳が、強く血筋の伸びたままに眼圧強くカルゼリーへと振り向かれた。
目鼻立ちが良く、歳を経たのであれば荘厳な雰囲気をも醸し出している。
胸元の十字架を模したペンダントが白銀を照る。
「何が可笑しい? 随分と余裕ではないか魔性の女。そんなに自らを発端に振り回される者を見るのは滑稽か? 人の皮を被る忌物の徒弟めが、その血に赤みを残すかこの場で切り裂いてみせようか」
その唇は耐え難く、心情のはみ出しか小刻みに震える。
並々ならぬ関係を思わせる二人の対立は、方やを恍惚と喜びに満ちている。
ベラズワードの心に蠢き、沸騰し、今にも溢れようとする煮え湯が、カルゼリーにはとても綺麗に、それこそ開花間際のフレッシュな1輪に見えるのだ。
であれば、その心には相手を省みない悪戯心というものも生まれるものだ。
蕾が膨れ分かたれようとする姿に、湿る1枚を摘もうと手を伸ばす。
そのような、稚児の思惑だ。
「ふふ。私の名を......覚えておいでですか?」
無頓着に千切るその刹那、一閃がカルゼリーの体を引き裂いた。
多量の鮮血が部屋の一部を汚染する。命ある人ならば倒れようもするそれを、カルゼリーとなれば予想外と驚愕な顔付きを残すばかりで済ませる。
止めどなく溢れるままに、カルゼリーは顔を下ろして、憧れを見る様に笑みを浮かべた。
掬うように手を添える。視線は平の器に溜まる液へ注がれた。
「本当に切られてしまいましたね」
死する事はない。
特殊な呪禍のその身なれば、溶出の程度など、まるで意味を成さず。
粗末な演し物と同義に恐怖の線に触れない。
陳腐に尽きるものだ。
凶器を滑らせたベラズワードは直立に。
カルゼリーの体を斜めに割いたその得物は細長い直剣の造形をしている。
持ち手は異様に反り返り、反対を持つ鞘と合わせれば、その印象は杖のそれだ。
仕込み杖。街中で凶器を見せびらかす下品を許せず、しかしその脅威を前にした時対処する為の術。
どちらの要望も熟す、人の社会に配慮した高貴なる者の武装だった。
「......今までの人生に後悔は幾つもある。あそこでその選択をしていれば、或いは選ばず別の道を見ていれば」
後悔を言葉へと傾ける。取り戻せない物を咀嚼するように、味わう苦味が感傷的な香りを漂わせた。
刃に付着した物が重力に引かれ、柄のないままに、ベラズワードの握り手をも汚染する。
「これほどまでに、これほどまで巨大に、邪悪に渦巻くものからすれば劣るのだよ。案内人、夜枷の呪禍。貴様のような者の秘匿名を、お前達のような超常と関わってしまった事に比べればな」
そして徐ろに手首を振るい、血を払うと、風鈴の音のように響かせて剣を納めた。
呪いに蝕まれた者の叫び。ベラズワードの行動とはすなわち、巻き込まれたからこその怒りが孕んでいるのだ。
完全なる敵意がひしひしと、カルゼリーの全身を鳥肌として囲い込む。
「朝日を迎えてしまえば貴様の存在はまるで最初からいなかったものとされる。私の記憶からも貴様は消える。所詮夜とは過ぎ去るのだからな」
「だが日は必ず落ちる。月の輝きが顔を出す。そうすれば不意に、ド忘れしていた何かを思い出すように、貴様を知っていたそれが全て流れ込む。この不快が分かるか? 呪禍の感染が私を苛んでいるんだよ」
「決して貴様を忘れない。忘れられない。記憶を消失しようと、歳を召し呆けようとも、強力な引きつけが私の脳髄を犯すのだ。私にその存在を寄生させるお前を許す事はない」
立て続けに語ったその言葉に、カルゼリーは返す言葉を持てない。
そこに愉しさを感じる性根の悪さまでは持たず、引け目、申し訳なさ、まだ自らの呪いに理解が及ばない時分故の拙さに自罰。
ただの罪悪感として心の内を支配するが、全身に籠もる熱は反してカルゼリーの体を疼かせた。
「でしたらどうぞ続きを。伏して、私は受け入れましょう」
死なない。されど死する以上の贖罪は示せない。
最大限の殺意に応えられる度量が無いことを、その粗相を、カルゼリーはただただ恥じ、べラズワードの醜悪な物を見る瞳へ見つめ返すのみであった。
「夜の枷。繋ぎ止められる貴様を殺す方法などあるものか。仮に殺せたとて、次の日を暗やめばまた姿を現すだろう貴様は」
浴びせた一太刀は精神の落ち着きに効力があったようだ。
声のトーンが露骨に落ち、怒りは鳴りを潜め、溜息混じりに歩き出した。
「用は済んだ」
そう一言を残し、出入り口となる扉の位置的に、必然にカルゼリーの隣を通過する事となる。
目と鼻の先な距離感に高鳴る胸を抑え、目線だけをカルゼリーは追従させた。
「またお会い出来る日を楽しみにしておりますわ」
「願い下げだ。......悍ましい化け物め。夜から拒絶された自己矛盾が、どうして未だ人であると定義できるのか」
最後まで恨み言は潰えず、遠く足音が消え去るのをカルゼリーは聴いた。
短い時間であったものの、非常に満足感を得ていた。
今度はいつ会えるのだろうか——。出血していた事も、既に傷の塞がった事も、感じていた罪悪感も、その全てをどうでもいいと瞬きに忘却し、ただただ今し方のべラズワードの姿を脳裏に刻んでいた。