第1話 眠れずの呪禍 ①
あ。
あ。
あ。
あ、あぁ。
ああ、あ、ああああ、あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
あああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
絶叫がその男の脳髄を支配する。
思考に及ぶ知性は破損し、ただ一音のみを無作為に繰り返す。
無機質な石レンガに囲まれた小さな一室だった。
天辺付近に小さな窓はあるものの、出口はたった一つだけに酷く閉塞感を伴う場所だ。
そこには重苦しい鉄格子が嵌められ、勇ましく太い金属が軒を連ねている。
仮にもし男が罪人であってもこれほどの強度を求めるだろうか?。
手足は鉄の錠にて不衛生なベッドに縛り付けられ、脂肪も筋肉も見放した細長い枝が、見合わぬ金属音を響かせ続ける。
暴れる体は処理がされていない排泄物を擦り付け、得も言われぬ不快感を伴った粘り気を発話する。
出してはまた擦り付け、絵画の如く厚塗りを重ねる。
男の髪は秋終わりの雑草のように萎びて、抜け切った色素が尚もその物へと思わせるのだ。
既に絶えた命だと。ここにあるモノはその抜け殻なのだと。
風前の灯であり、絶えかけていると感じられる。
ただ、その鬱血し張り出した眼球が月明りに照らされた時。さながら上等なワインを思わせる艶を残し怪しくも輝くのだ。
据えた臭いと害虫が蔓延る闇の坩堝にあって、悍ましくも救いの一欠片。
男の生き延びたいとするささやかな抵抗にも思えた。
恐ろしくも真の狂気の最中に居る者は、自らの身に振り撒かれた呪いの効果を一心に車輪を回す。
汚物に塗れた闇の中。
眠れずの呪禍と称されるそれが男の体を蝕んでいたのだ。
「あああああああああああああああああああああっ、ああああああぁぁぁぁぁああ!!!!」
男の更なる絶叫。恥部から零れる液が仄かに湯気を上げる。
ベッドの端まで伝い、垂れたそれが床へと落ちる。
飲物だと集り、我先だと数匹の害虫が啜る。
地獄の一端は此処に有り。
この憐れなる男の名はジューン・ニソット。
かつてはとある商船の操舵手を勤めていた。
荒海の裁縫人とあだ名を付けられるほど船の操舵に長けた技能を持ち得ていた。
見るに堪えないこの現状を思えば、その全ては過去の軌跡と唾棄出来よう。
青空が広がって海も落ち着いた、粗探しをしようとも見つけられない。
そんな最高のコンディションの日だった。
初見でなく何度も通った事のある航路。
だが到着予定の港に着艦せず、神隠しにあったように、ジューン含む数十人を乗せた船は忽然と姿を消したのだ。
発見されたのはそれから一月後。
海を朧気に漂うその船を、たまたま通りがかった同業の商船が発見した。
内部に人の痕跡は存在せず、ジューン1人だけが海原の一点を見つめ、まだ力強さの残っていた腕だけは経験を忘れず舵輪を握り続けていた。
気を振らせる呪禍の影響下にあっても、この時だけは意思疎通を図れる余力は残っていたのだ。
助け出され戻ったジューンはその詳細を語らなかった。
うわ言のように繰り返す「恐ろしいものを見た」と、頼りにならない大枠だけの言葉だった。
事件の詳細となると途端その言葉だけをリピートし、追求する者も尋常ならざる様子を見れば強引に聞き出そうとは思わない。
誰もがそうだった。聴き取り手の老若男女は問わず。
……きっと、思えなかった。そうする方が正しいと感じ取ったのかもしれない。
体をガチガチと震わせ歯を叩き、自らの皮膚を引き裂いて抱く恐怖の有様。
段々と狂気への階段を降り、人が獣へと退化していく過程。
付随する周りの対応を見て行けば、確かな現実として受け入れざるを得ない。
想像に及ばない体験を知る勇気があるか。
見え透いた罠へ掛かりに行ける者はいるのだろうか。いや、断じていない。
問い詰められる者は、誰一人としていなかったのだ。