広島県・広島市・福山市
私は広島県の中でも東部の福山市に生を受け、今も住んでいる。地元では広島市と福山市の距離は「大体百キロメートル」という認識で知られている。無論広島市にも福山市にも面積があるから正確であるはずはない。
私は広島市内に往く機会が少ない。広島市内を身近に感じたこともあまりない。寧ろ広島市内に対する隔絶を覚える。
それから自分を「福山人」ならともかく「広島人」と認識したことがない。「広島人」扱いされると戸惑う。
私は福山弁を喋る習慣がない。母が神奈川県出身なこともあってか、私は幼稚園の頃から標準語を喋っていたらしい。らしい、というのが、もうその記憶も薄いのである。父方は福山の出で、内祖母は福山弁を喋っていて、有名な「たう」(届く)も多用していた。そんな内祖母ももういない。
ここで「況や、広島弁」という話題である。ごく最近、訳あって広島局のローカル番組を多く観るようになったが、演出で用いられる「広島弁」が「福山弁」と明らかにアクセントが異なるのである。口調についても、オタフクソースの酢の CM で流れる「食べてみんちゃい」なんて表現は初めて聞く。まあ福山藩は三河から来た水野勝成(徳川家康の従兄弟)が統治していたので名古屋に近い方言が混ざっているとか、日本鋼管(現 JFE)の労働者が全国から集結したとかいった理由で、純粋な山陽方言ではないとは屡々言われるが。
因みに、岡山弁とされる「チャラ書き」(走り書き)は、書道の先生が遣っていた。岡山寄りの出自の人だったのだろうか?
先に「広島市内に往く機会が少ない」と述べたが、私が少年の頃に広島に連れて行かされた主な機会が「十字式健康法」である。私の両親はキリスト教徒で(私は棄教している)、「十字式健康法」というのはキリスト教に基づいた代替療法らしいのだが、背中に十字を書いてトントンと叩くなど明らかに呪術じみた療法なのでキリスト教内にも批判があるらしい。広島では、中国放送の文化センターを借りて行われていた。
その度ににしき堂のもみじ饅頭を買っていた。にしき堂は福山でももみじ饅頭を製造していて、福山人が県外などに出るときにも手土産にするくらいなのだが、私は母が広島で買ったもみじ饅頭を福山で食べていた。抹茶味が一番美味しいという持論は今も変わらない。
他、小学校の平和教育でも広島の原爆資料館へ往くのだが(私の学校では、四年生で往くのが通例だった)、平和公園の優美さはともかく、原爆資料館は戦争の醜さを知るための場所だから、気軽に手土産などできない。学校では他にマツダの工場にも往ったが、カルタしか土産にしていない。
後、十代になって高卒認定試験を受けに広島に往った。その時往きで乗った広電が最初の広電で、帰りに乗った広電が最後の広電である。
大学を中退して以降、知人(通称 Σ 氏)が頻繁にドライヴに連れて往ってくれた。広島現代美術館とかフタバ図書 TERA とかには往ったが「如何にも広島」というか、呑み屋街のような所には往っていない。そりゃ、飲酒運転は違法だし、呑み屋街なら福山にもある。
キング軒の汁無し担々麺は食べたが、花椒の味は苦手である。即席の担々麺をお湯少なめで食べた方が美味しい。それと「広島市内で広島焼(お好み焼、なる恩着せがましい呼称は嫌いだ)を食べる」という発想が昔も今も無い。そういえば「広島つけ麺」とやらはどうなったのか。
それと Σ 氏、「原爆資料館が新しくなったから往ってみないか」などとおっしゃってたが、前述の通り、あそこは物見遊山で往く所ではないと思う。
因みに福山から広島へは、家族と往く時は山陽新幹線、学校の社会見学や先の Σ 氏のドライヴでは山陽自動車道で往くことが多く、在来線で広島に往ったことが未だ嘗てない。在来線は数年前のダイヤの改定以来三原か糸崎で乗り換えねばならず、こういう所にも「安藝と備後」の分断の気配を感じる。
在広島マスコミには、どういう切り口で話を進めようか迷う。
餓鬼の頃は「柏村武昭のテレビ宣言」をやたら喜んで見ていたが、内容をちゃんと理解していなかった気がする。
ともかく私は二十歳過ぎになるまで広島市の「皆実」(みなみ)という地名を「かいじつ」と読んでいたのである。
それと、主に岡山県の人が「広島の芸能人は広島を礼賛し過ぎていて不気味」というのだが、私もさもありなんと思う。
最後に「広島東洋カープ」についてだが、これに関しては「論外」扱いでいいと思う。スポーツの観戦自体今も昔も余り好まないし、況して「地元のチームだから応援する」なるショーヴィニズムは、大嫌いだ。