未知への一歩
初夏の朝
初夏の穏やかな朝。6時を告げるアラームが鳴り、小泉悟志は目を覚ました。
リビングからは、妻・朋美が朝食を準備する音が微かに聞こえてくる。
「おはよう、朋美。」
悟志は声をかけながらベッドを出て、リビングへ向かった。セキセイインコのピーコがケージの中で囀り、愛犬ベルが足元に寄り添いながら尻尾を振る。
朋美が振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。
「おはよう、悟志さん。朝食、もう少しでできるわ。」
朝のルーティンは変わらない。ふと窓の外を眺めると、子どもの頃の記憶がよみがえる。
少年の好奇心
「好きな本を選んでいいわよ。」
母にそう言われた書店で、悟志が手に取ったのは宇宙の本と人間の体についての本だった。
「宇宙の果てはどこにあるんだろう。人間の体の中にはどんな秘密が隠れているんだろう。」
未知を知りたい――その気持ちが、科学の道へと彼を導く原点になった。
講義の準備
朝食を終えた悟志は、最寄り駅へと向かう道を歩く。道中の商店街では、店主たちが開店準備に忙しそうだ。
「先生、今日もいい天気ですね。」
馴染みの八百屋の店主が、手を振りながら声をかけてきた。
「ええ、気持ちがいいですね。」
悟志は軽く会釈し、足を速める。
電車に揺られながら、今日の講義の内容を考える。
「科学に疎い新入生たちに、どうやって物理学の面白さを伝えようか。」
未知の世界への興味を共有する。それが、彼自身の使命だと思っていた。
宇宙の構成
教室に入ると、新入生たちが次々と席に着いていく。悟志は教壇に立ち、穏やかな声で話し始めた。
「皆さん、こんにちは。小泉悟志です。東京大学で講義を担当しながら、理化学研究所でも研究をしています。」
ホワイトボードに「宇宙の構成」と書き、大きな円を描いた。その円を3つに分けて、それぞれに「5%」「25%」「70%」と書き込む。
「この円は、宇宙に存在する物質の割合を示しています。私たちが普段目にしている星や銀河、そして私たち自身の体は、このうちどれくらいだと思いますか?」
教室内は静まり返り、学生たちは戸惑った様子だ。悟志は笑みを浮かべながら答えた。
「正解は、わずか**5%**です。」
驚きの声があちこちから漏れる中、悟志はさらに説明を続けた。
「この5%が、私たちが知っている普通の物質です。一方、残りの**25%は暗黒物質、そして70%**は暗黒エネルギー。これらは直接観測することはできませんが、重力や宇宙の膨張速度を調べることで、その存在が明らかになっています。」
ホワイトボードに「観測できないもの」と書き加えながら、悟志は学生たちに目を向けた。
「つまり、私たちが見ている世界は、宇宙全体のほんの一部なんです。残りの95%を解き明かすことが、物理学者たちにとって大きな挑戦です。」
学生たちの中には、驚きと好奇心を宿した瞳がいくつも見られた。
新たな出会い
講義が終わり、学生たちが教室を出ていく中、一人の青年が悟志に近づいてきた。
「先生、少しお話ししてもいいですか?」
その青年は高原と名乗り、真剣な眼差しで語り始めた。
「僕、3歳の頃に母と兄が1年前の大地震の話をしているのを聞いたんです。でも、その地震自体を全然覚えていなくて…。その時、初めて『記憶って消えるんだ』って気付いたんです。」
彼は少し息を整え、悟志の目を見て続けた。
「それ以来、何か大切なことまで忘れてしまうんじゃないかって思うようになりました。自分がどこから来たのか、これからどこに向かうのか、それさえも全部消えてしまうんじゃないかって。」
高原は少し微笑みながらも、その目は真剣だった。
「4歳の時、初めて出席したお葬式で、人間が死ぬということを知りました。その時、まるで死という名のジェットコースターに無理やり乗せられたような感覚でした。降りたくても降りられない。どんなに叫んでも止められない。それが怖くて…でも、どうしても知りたくなったんです。『時間って何だろう』とか、『僕らがここにいる意味って何だろう』って。」
悟志はその言葉に、自分の若い頃を重ねた。
「それで物理学に興味を持ったんだね。」
高原は頷き、力強く言った。
「今日の講義を聞いて、物理学がその答えを探す鍵になるって確信しました。先生に教えていただきたいです。」
悟志は笑みを浮かべ、言った。
「分からないことがあれば、いつでも聞きに来ていい。一緒に答えを探していこう。」
高原の表情が明るくなり、深く頭を下げた。