2 何もかもが始まった日
揺蕩う意識と曖昧な自我、その中で善はかき混ぜられているような感覚に陥っていた。
抵抗もできず、波に揉まれ揉まれ、奇妙な何かが入り込んでくる。
それは魂というべき何かであり、記憶というべき何かであった。それは優しさに包まれていて、心地よさと安心感を齎し、善の全てが再構築されていく。
わけのわからぬまま自身の『進化』を認識し、善は目を開けて――
「「……あ」」
一人の少女と目が合った。空色の髪をまとめた彼女の、宝石のような翡翠色の双眸が善の顔を覗き込む。
少女は濡れた布を手に持っており、どうやら看病してくれていたようだ。少女は善が目覚めたと見るや否や、すぐに立ち上がり外へと出ていった。
背中の感触は柔らかく、ここが森の中ではないとすぐにわかる。見るに、ここはテントであり、今善は布団のようなものに寝かされているようだ。
全身に罅が入ったと錯覚するほどだった激痛も、今は完全に消えていた。
脳裏に映るのは、意識を失う前に見た中年だ。
灰色の短髪で、それ以外の印象が記憶に残らないほど薄く、その『どこにでもいそう』という雰囲気とは裏腹に、グリフィンを一撃で沈めるほどの実力者。
あの時、ありえないことが連続して善の脳は疲労のピークに達していたせいか、あるいは考える暇もなくグリフィンの襲撃を受けたからか、善はこの状況について考察できるほどの余裕が残っていなかった。
そう考えると、一度気絶し目覚めたことで今ではある程度冷静な思考を取り戻しつつある。
体を起こし、顎に手を置いて善は思案する。
洞窟の中で目覚めてからというもの、善の持つあらゆる知識が通用しないことばかりが起こっている。
グリフィン、それを撃退した中年――先ほどの少女も、まず日本では見ない髪色と目の色だ。
これが現実味のない妄想ばかりしてきた善の見ている夢でないのなら、善が考えられるのは一つのみ。
「異世界転移……?」
悲しきかな、ラノベしか読まずまともな勉強もしてこなかった善の頭では、こんな結論しか導き出すことはできなかった。
***********
異世界転移。
それはラノベで幾度となく取り扱われた主題であり、善自身も呆れるほど触れてきたジャンルだ。
剣と魔法のファンタジー世界に突然転移し、主人公たちはそこで地球へ帰る方法を探したり、何か目的があるわけでもなくただこの世界を満喫するだけだったり、多種多様な過ごし方をしている。
剣も魔法もまだ見ていないが、グリフィンとそれを打倒した中年。この二つの非現実っぷりが焼き付いてしまっている。というか、ここが地球ではないファンタジー世界でもなければこの状況を受け入れられる自信がないのだ。
重なり連なる無理解に押しつぶされてしまわぬために、善は自衛手段としてこの現象を異世界転移と仮定することにした。
テントの隙間から差し込む日差しが瞼を焼き、善は目を細める。
見れば、誰かがテントの中へと入ってきていた。
看病していた少女と、もう一人、真っ黒なフードを被った人物が、剣を腰に差して立っていた。
フードは彼、もしくは彼女の顔を完全に隠しており、外見からその人となりを推し量ることはできそうにない。しかし、いつでも抜剣できるよう構えていることから、少なくとも歓迎はされていないことがわかる。
「……こんにちは?」
額に滲む脂汗、それを拭うこともせず、慎重に言葉を選んで善は言った。
会話が通じないなんて事態は想像もしたくないが、意識を失う前、中年の話した言葉が日本語だったように思えたのだ。
それでも、ここからは分の悪い賭け。そもそも一度は失ったと思った命、ここで差し出さずしてどうするというのだ。
緊張と静寂の中、賭けの結果は――
「――こんにちは」
フードの人物によって示された。即ち、『勝利』として。
第一段階は突破した。コミュニケーションができるなら、やりようによってはこの場を乗り切ることも可能なはずだ。
善は思案して、思案して、最善を模索して、
「どうやら警戒されているようだけれど、ボクに君をどうこうしようという気はないよ。僕が来たのは、この子に呼ばれたからだね」
そう言って、フードの人物は隣に立っている少女を手で示す。少女はおずおずと善の前へと歩を進め、緊張がにじみ出るまっすぐな姿勢で、深く深く頭を下げた。
「ふ、フーミア・シストールです……以後、お見知り置きを……」
緊張のせいか、声が震えている。頭を下げたままぴくりとも動かない少女に困惑し、フードの人物に訝し気な視線を向けると、彼は肩をすくめた。
「君を介抱していたのは彼女だよ。君がここに運ばれてきた時、真っ先に飛び出して君を診ると言い出したんだ。今でこそ君が目覚めたことに驚いている様だが、どうか邪険に扱ってあげないでほしい……あ、ボクの名前はルプスヴァルグだよ」
「ああ、あなたが……ありがとうございます」
体の調子はすこぶるいい。
死に体だったことが嘘のように、自分の思うように動く。当たり前のことなのだが、全身が動かせない事態を経験した手前、今はその当たり前に感謝せずにはいられない。
フードの人物――ルプスヴァルグと名乗った彼も、どうやら怪しい見た目をしているだけでそこまで警戒すべき人ではないようだ。
「俺を運んでくれた人にも、挨拶しておかないとなあ……」
生の実感を噛み締めながら、ぽつりと善は呟いた。それは誰に向けてのものではない、まさに独り言だったのだが、少しばかり声量が大きかったか。
「ディエスさんなら、さっきまた洞窟のほうに向かっていきましたよね?『調べることがある』とかなんとか……」
「『守神』のことだね。ボクも見たことはないからわからないんだけど、どうやら最近この辺に変律体が集まってきてるみたいなんだ」
「『守神』……?」
宗教じみた何かを感じるその響きに、善は首を傾げる。
ルプスヴァルグはその様子を見て「ああ」と言い、
「この村は『変律体』に襲われなくなっているんだよ。その恩恵をこの土地に授けているのが『守神』らしくてね、ボクたちも詳しくは知らないし儀式的な何かをした訳でも無いんだけど、そのお陰で今まで生きてこられてるって訳だよ」
善は唇をへの字に曲げる。
『変律体』、襲われる、守護、まだ右も左もわからない善でも、この言葉に込められた事実には流石に気づく。
ーーそれはつまり、『守神』とやらの守護がない土地の人間は、皆呆気なく殺されてしまっているということではないだろうか。
少しきな臭くなってきた。
まず一つ目の懸念は、この村以外に人の集落が残っているかどうか。
そして二つ目の懸念は、この村が善の味方たるかどうか。
特に後者が、今の善に不安として押し寄せる。
現状、善は自分がこの村に保護されたということしか知らない。
考えすぎかも知れないが、この村が怪しげな宗教団体である可能性も否定はできない。
「ーーまだ信用できない?」
そんな善の心中を見透かしたかのように、ルプスヴァルグが落ち着いた声で言う。
フーミアと名乗った女性は、彼の発言の意味がわかっていないのか、オロオロと善とルプスヴァルグを交互に見ている。
善の動悸が激しくなる。どうにか言い訳を口にしようと、考えなしのまま言葉を紡ごうとしてーー
「その反応でこっちも安心したよ。君は些か、感情が表に出過ぎる。隠すのが下手だ。少なくとも、君がスパイである可能性は今ので無くなった」
「……俺はーー」
「おっと、余計な事は言わないほうがいいよ。外にはボクの仲間たちがーー傭兵団の皆が張ってる。下手に好戦的なことを言うと、彼らが突入してきちゃうから」
ーー傭兵団。
先ほどから、善の聞き馴染みのない言葉ばかりが飛び出してくる。
これは善が無知である、というだけで片付けられない。
しかも、現代日本で「傭兵団」なんて言葉は全く聞かないのだ。
目覚めた直後の善が立てた突拍子のない仮説、それの信憑性が増していく。
「あ、あのっ!!」
張り詰めた空気の中、フーミアが声を上げる。彼女は意を決したような表情で善に詰め寄り、
「私たち、どこかで会ったことありますよね!?」
そんな、善にとっては訳の分からないことを言った。
***********
木々生い茂る森の中、そこにその男はいた。
男は草木を掻き分け、目的地にーーある小さな洞窟へと到着する。
そこの中に入り、水音に鼓膜を震わせながら、一歩一歩と踏み締める。
そうして、洞窟の最奥まで辿り着いた彼はーー
「ーーうん」
ただ一言、それだけを溢すと、踵を返して歩き出す。
灰色の短髪をかき上げ、その男はこれから起こるであろう波乱を憂うのだった。