1 終着点の始発点
夏とは思えぬ静けさと涼しさ、その二つの『異様』に包まれ、善は目を覚ました。
「う……」
うるさく鳴いていた蝉の声も、ガードレールのすぐ先で通り過ぎる、自動車の音もしない。ただ、天井から水滴が落ちる、その音だけが響いていた。
最初に認識したのは、ここが先ほどまでいた場所ではないということ。少し遅れて、ここが岩肌に包まれた、浅い洞窟であるとの理解に至る。
彼はその最奥で、壁によりかかるような形で座っていた。正面からは眩しい太陽の光が差し込んでいて、中々神秘的な雰囲気を感じられる。これが異常事態でなければ、の話だが。
「なんだここ……誘拐……?」
まだ鈍痛が残る頭で必死に考えるも、答えを得るにはあまりに不明瞭なことが多すぎる。
まず善が洞窟にいること。そもそも彼のいつも通る道の近くにこのような洞窟などないし、あったとして立ち寄ろうとするわけもない。彼が夢遊病である、なんて下らない想定をするなどもってのほか。現状、一番ありえそうなのは彼が誘拐されたことだが――ここで二つ目の不明な点、彼が拘束されていないという問題にぶつかる。
もし誘拐だというなら、最初に善の手足を縛り、猿轡でもして逃げられる可能性をできるかぎり小さくしたほうが間違いなくいい。善ですらそうする。にもかかわらず、彼は怪我もなく、拘束もされず、五体満足で放置されている。
その理由として考えられるのは、ここが拘束されていない程度じゃどうしようもない程堅牢な監獄であることと、そもそもこれが誘拐でないということ。
どちらも非現実的な仮説だが、今の彼には正直これら以外の可能性が思いつかなかった。
すなわち――
「……外に、出てみるか」
なけなしの勇気を振り絞り、この先に待ち構えているかもしれない『最悪』をできる限り見ないようにしながら、善は一歩踏み出した。
一度進みだしてしまえば、その足取りはどんどん早くなる。
視界が開けたその時には、その一歩への躊躇は完全になくなっていた。
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「……本格的に不思議現象だな」
寂しさを紛らわすための何気ない独り言、それを皮切りに彼の思考が始まる。
現状、善の身に何か異常なことは起こっていない。この現状こそが異常であると、そう言ってしまえばそれまでなのだが、しかしそれでも、この空間の空気は異様なものだった。
その異様さを肌で直接感じるが故、彼は心の底から安心することはできない。できない、はずなのだが……
「……なーんか、気が抜けるんだよなぁ…………」
洞窟を出た先は鬱蒼とした森だった。勿論休みはいつも家で引きこもっている善は、このような自然に触れた機会など片手で数えられるほど少ないのだ。
それなのに緊張が抜ける、『安心しかける』というのは、木々が発するフィトンチッドによるものか、それがわかるほど善は成熟していない。
不意に学校でのあのひと時が脳裏に浮かんで、消えていく。胸の奥に生じた恋しさをかき消すように、彼は歩みを速めた。
善はかれこれ20分は歩き続けているが、まだこれといった違和感に出くわしてはいない。
強いて言うなら今も聞こえている鳥の囀りが、今まで聞いたこともないような、力強いものであることか。
――いや、力強いというレベルではない。
その声は凄まじい速度で大きく、そして近くなってくる。
もはや囀りとはいえず、猛獣の咆哮と、そう形容するのが正しい。
それに気づいた時には、
「……ッ!?」
木々が薙ぎ倒され、それが善の前に姿を現す。
その目は鋭く、獲物を射殺す威圧感があった。
その翼は猛々しく、有無を言わさぬ気高さがあった。
鳥の頭にライオンの体。赤い双眸が善を捉えて淡く光り、真っ白な毛並みに覆われた体躯、そこから飛び出す四本の太い脚の、その先についている刃物のようなかぎ爪が、今、振り上げられて――
「――」
叩きつけられる。
咄嗟に善は全店で回避。運動不足の自分の体がここまで動くことに驚きを隠しきれないが、自分の成長を噛み締めるのはこの状況をやり過ごしてからだ。
「……グリフィン」
目の前にいるのは、世間ではよくそう呼ばれる、神話上の動物だ。
彼も詳しいわけではないが、『勇敢で守護的な』性格をしていると言われるだけはあり、その風貌からは溢れんばかりの気品が感じられた。
神話の動物が目の前にいる、そんな衝撃的な事実が突き付けられたわけだが、不思議と彼の頭は冷静なままだ。
ちっぽけで弱い存在である人間に自身の攻撃を避けられたことが癪に障ったのか、先ほどより激しく、グリフィンはその四本の足をフル活用して、善を切り裂く、または踏みつぶそうとする。
その全てを間一髪で躱し、今もなお重いけがは負っていないのは、アドレナリンが大量に分泌されているせいなのか、考える余裕が善にはない。
常に思考が向かう先は一つ、この場を切り抜けるということだけ。
幸い、ここら一帯には樹木が多いせいかグリフィン側の視界も悪く、攻撃が避けやすくなっている。
善が限界を迎えるまでに、活路を見出せるかの勝負。
「痛っ」
爪が掠り、制服が引き裂かれ左腕から血が垂れる。致命傷ではないし、十分無視できる痛みではあるが、それでも傷は傷だ。一瞬、善の動きが鈍くなる。
その隙を見逃さず、グリフィンは大きな嘴を開き、彼を捕食せんと迫りくる。
ここでも彼はどうにかバックステップでそれを避け、次の動きに転じようとするも、それは叶わない。
「――くそっ」
背中に鈍い痛みが走り、弱い痺れが全身を包む。
無理して動いたせいで、背後の確認を怠った。その結果、彼は背中から木に突っ込んでしまったのだ。
グリフィンが爪を振り上げる。回避はできない。
頭痛がひどくなり、またも意識が朦朧とし始める。結局、これがなんだったのかも、分からずじまいだ。
背中の痛みも、頭の鈍痛も、強くなっていく。
せめて、意識がなくなってから死ねるなら、痛みも感じなくていい。
諦念が胸を満たし、避けようがない死が善を迎えようとする。
その刹那、生じたほんの少しの胸の疼きが、彼の動かなかった足を動かした。
痛みすらお構いなしに体を傾け、全力で地面を蹴り、振り下ろされる爪を間一髪で回避。
しかしその代償にバランスが大きく崩れ、また胸から地面に飛び込んだのが悪かったのか心臓が途轍もない痛みに襲われ、一瞬呼吸ができなくなる。
最後の足掻き、それも虚しく土に散ろうとした、その時のことだ。
「――?」
人影が飛び込んできたかと思えば、それは拳でグリフィンの横っ面を殴りつける。グリフィンは大きくバランスを崩して吹っ飛び、木々をなぎ倒しながら数十メートル先まで飛ばされた。
明らかに普通の人間には出せないであろう力、それを目の当たりにし驚愕に心を揺らしても、彼はそれを目の前の人物に訴えかけることはできない。
指一本ですら動かせば激痛が走り、骨が軋むような音がする今、彼は何もできない木偶の坊だ。生殺与奪をあっさりと握られ、己の弱さを噛み締めたところで、それを糧にする気力などすでになく、意識が遠のいていく。
飛び込んできた人影は、その灰色の短髪をかき上げて、
「危なかったぁ……君、無事かい?」
そう心配するような中年の声を最後に、善の意識は途絶えた。
***********
「……生きてるね」
目の前で気を失っている少年、その命に別条がないと知ると、その中年は胸を撫で下ろした。
「武器持ってきてないんだよなぁ……参った、ここで『変律体』に遭遇するとは……」
彼はとても戦闘員とは思えぬ軽装だった。薄いシャツと長いズボンのみ、ただそれだけでグリフィンを圧倒してのけたその異常さを指摘できる人物は、この場にはいない。
少年を軽々と担ぎ、中年は来た道を引き返し始める。
「――『守神』の様子を見るのは、もう少し後かな」
その呟きは、誰の耳にも入ることなく、木霊となって消えたのだった。