プロローグ ヒトの後悔
――夢を見ていた。
自分の存在すら掴めず、この世界の推移を、絶望の進行を見ることしかできない。それがどうしても歯がゆくて、自分の無力さが嫌になる。
目の前に広がるのは、彼自身が招いた結果そのものだ。彼のせいで、この絶望は生まれた。彼のせいで、この崩壊は生じた。
後悔が止まらない。無意味な仮説が、想像が、妄想が、幻想が。あったかもしれないハッピーエンドを顧みて、ひたすらに自分を責め続けている。
彼にできることは、ただ一つ。
「ごめんなぁ……ごめんなぁっ……」
救いたかった誰かに謝りながら、消えゆくことだけだった。
*************
嫌というほど覚えている。
蒸し暑かった真夏のある日。じりじりと湿った熱が肌を焼き、これ以上なく汗にいらいらする季節。
体温調節機能だということは理解しているが、こうべたべたしてはやはり集中できない。
手汗が本のページを湿らせ、俺の読書の邪魔をする。
まあ、これも俺の――九十九善の席が窓際だからというのも大きいだろう。日差しが直に降り注ぎ、容赦なく俺の体温を上げていく。
しかし、俺はこの席を立とうとしない。どう考えても移動したほうがいいのはわかっている。ただそれだと、あいつとすれ違いになる可能性にあるのだ。何せあいつは、この席に俺がいないと見るや否や、俺がまだ教室内にいようと、確認もせずUターンして探しに行くような奴だから。
「……おっ、いたいた。善ー!」
「……キョウヤ」
馬鹿みたいに大きな声が、俺の鼓膜を大きく揺らした。相変わらずのやかましさに俺は嘆息して、呆れつつキョウヤに文句を言う。
「そこまでしなくても聞こえてるよ。みんなびっくりしてるだろ」
「でも、お前集中してたら何も聞こえないじゃん……」
唇を尖らせ、バツが悪そうに頭をかくキョウヤ。こいつのこういうところは何一つ変わっていない。小学生の時から、言い訳するときは頭を掻く癖があるのだ。
もっとも、この癖は嘘を見抜くとき役に立つので、うるさく注意するべきではない。というか、そもそもよっぽど悪いものでなければ癖なんて個性の一つとして受け入れるべきなのだ。
何より、変わっていく環境の中で、変わらない何かを見ると落ち着く。
俺は今日もこの日常に安心感を覚え、口角を少しだけ上げた。
「……んで、どうしたよ」
教室のドアの前で手招きするキョウヤ。俺はそれに従って、本を閉じて席を立った。キョウヤのほうへ歩み寄りつつ、要件を聞く。
するとキョウヤは待ってましたと言わんばかりに不敵に笑って、
「異世界転生って知ってるか!?」
「……はぁ?」
途轍もなく間抜けなことを言った。
「はぁ?じゃねえよ。異世界転生ってのはな――」
「知ってるよ。知らないわけないだろ。お前、家に何冊ラノベがあると思ってんだ」
俺はオタクだ。それはもう、典型的なオタクだ。面白そうなラノベを手当たり次第に買って、本棚に並べてはラノベで埋め尽くされた本棚を見て満足するくらいにはオタクだ。
先ほど読んでたのもラノベだし、隠してるわけでもないので当然キョウヤも、何なら一回も話したことないようなクラスメイトですら知っている。
異世界転生なんてラノベの典型、俺が知らないほうがおかしいのだ。
「――ああ、そうか。なら話が早い」
「『話が早い』じゃねえんだよ。お前、まさか十年一緒にいても俺のこと理解できてないのか?」
「やめろよ。俺が何も考えてないみてぇじゃん」
「違うの……?」
「……」
「そこは否定してほしかったよ」
そんなやり取りを挟みつつ、俺とキョウヤは話を続ける。
「んで、その異世界転生がどうしたって?」
「いや、この前お前ん家に遊びに行ったとき、一冊ラノベ借りたじゃん?」
「そうだっけ?」
「自分のものだろ……それが結構良くてさ」
「へぇ……」
キョウヤは所謂活字にめっぽう弱い。まどろっこしい表現とかを嫌い、漫画やアニメなどわかりやすい表現がされた媒体をよく好んでいた。
俺とは真反対なわけだが、ここにきて活字に興味を持ってくれるとは……
口角がさらに上がっていくのを感じる。
「どうして今更ラノベに興味を持ったんだ?」
思わず笑顔を浮かべてしまわないように耐えながら、俺は期待するような眼差しでキョウヤを見る。これからは、一緒にラノベについて語れるかも――なんて思ったのも束の間。
「絵が可愛かった」
「よし、お前右頬出せ」
右手で拳を作り、キョウヤに詰めよる。こいつはだめだ。ラノベというものを舐めている。絵だけを見たいなら、漫画でも読んでればいいというのが俺の持論だ。
一瞬で期待を裏切られたが、がっかりした様子を見せず俺は満面の笑みを浮かべる。
しかし、そこにある感情は先ほどまでのそれとはほぼ真逆と言っていいものだった。
***********
「『挿絵が可愛い』……ねぇ……」
昼にキョウヤから頼まれたこと、それはおすすめのラノベをいくつか貸してくれというものだった。
正直、善にとってラノベを挿絵しか見ないというのは冒涜的な行為だと思っている。ラノベというのは母数が多いゆえに好みに合わない作品も多くある。しかし、中にはストーリーやキャラ、字の文や会話での表現などが秀逸な、傑作に出会うこともあるのだ。
しかし、挿絵しか見ずそれ以外に注目しなければ、それはもはやイラスト集と変わりない。だったら、本業のイラストレーターのSNSでも追ってたほうがまだ有意義だろう。
善の複雑な感情を気にもせず、キョウヤが提示した条件は「挿絵が可愛い」というもの。正直彼にとって何が可愛いのかわからないが、この際それはどうでもいい。
重要なのは、ここからキョウヤに『小説』というものに興味を持ってもらうこと。
善はここが最後のチャンスだと思っている。小説のすばらしさを知ってもらい、日本語の美しさを知ってもらい、初めて善の目的は完遂される。
なので善がキョウヤに貸すのは、挿絵が可愛くかつ、引き込まれるようなストーリーの作品。思わず続きが気になってしまうような、『沼』の入り口となる作品。
「そんなのあるかなぁ……」
キョウヤはかなり活字嫌いが激しい。彼の苦手科目が現代文だということもあり、すっかり苦手意識が芽生え切ってしまっているようだった。
面白いのに、と善は少しばかり不満を抱くが、どうにもならないこともある。
キョウヤの牙城をどう崩すか、善は頭を抱えたい気持ちになって――
「――あれ」
大きくバランスを崩し、その場にへたり込んでしまった。
視界が揺れ、膝をついた彼を襲ったには酷い耳鳴りだった。さらに、鈍痛が頭に生じる。それはどんどん大きくなり、次第に善の意識が朦朧とするまでに至った。
「……んだ、これ」
善は片頭痛などの持病の類は持っていない。となると、これは明らかな異常事態。
救急車を呼ぼうとするも、視界が大きくブレるせいで体がうまく動かせない。
その間にも頭痛はひどくなり、何かが頭を内側から突き破ろうとしているのではないかという錯覚に陥る。
脳裏によぎるのは、キョウヤと過ごした今日の記憶と、さらにその前の前の――彼の人生を振り返るように、様々な記憶が一瞬で善の脳内を駆け巡る。
走馬灯と呼べるものを初めて体験した善だが、それに何の感慨も抱けない。頭痛が容赦なく彼を蝕み、意識を深海へと沈めていく。
「――ぁ」
時間にして数秒、たったそれだけで十数年を遡った善は、ある『記憶』にぶつかり、そして、今まで意識の隅でしか捉えられなかったはずのそれを、確と幻視した。
――自動車が、大破している。
燃え上がった二つの車、そのうち大きくひしゃげたほうの車の中に、幼い善はいた。頭から血を流し、決して安らかとは言えない表情で、意識を失っている。
そして同じ車の運転席と助手席、そこには彼の両親がいた。――否、両親だったものがあった。
衝突の反動で頭から前方に突っ込んだ彼らは、完全に沈黙していた。体中にガラス片が突き刺さり、その空虚で魂の宿らない開いたままの目は、彼らが死んでいるということを無慈悲に突き付けてくる。
「父さん」
ことあるごとに褒めてくれた父も、
「母さん」
彼のやりたいことを全部やらせてくれた母も、
「なんでっ……」
もういない。
これが、齢八歳にして体験した、世界の不条理。この記憶が最後の一押しになったのか、彼の体は大きく傾き、
「……ぁ、い――」
彼の意識は閉ざされ、無の世界へと放り込まれた。
***********
「ごめんなぁっ……」
許されないと知っている。赦されないとわかっている。
彼の罪はそれほどに重く、それほどに度し難いものだったから。
償うことも、逃げることもできない。彼はひたすらにその現実と向き合っては、その残酷さと無常さに吐き気を催す。
胃液などとうに吐ききってしまっている。故に彼が漏らすのは、声とすら呼べない歪んだ音だけだった。
ただひたすらに後悔し、懺悔する。
夢か現か分類できない世界の中で、善は―
「ごめん……ごめんな、■■■」
あまりにも滑稽で、あまりにも惨めな、敗北者の心に触れた。