5、夜の浜
ざざざざざ・・ん
静かな夜更けに、波の音が響く。
「うーん。今夜も気持ちがいい」
こうしてひとり、遠くシンクタンクの明かりを見ながら砂浜を歩くのが、サヤは好きだった。
溶けてしまいそうな闇の中にいると、心の底から癒されて、リラックスしている自分を感じる。
そんなとき、強く感じる。
自分の特異な能力を知られないよう、どれだけ人前で気を張っているのか。
「なんだかな。大変なのなんて、私だけじゃないのに」
自分の弱さにため息を吐きつつ歩けば、今日は何となく砂も水を含んだ湿っぽい感触がする。
「私が湿っぽいからかしら」
今日、ナジェルとバルトにばれそうになった、その事実を思えば落ち込みに歯止めをかけることができず、場所を移動しようと思いついた。
「ここより乾いていそうな場所は、どっちかな」
幸い、この浜は広い。
ここから離れれば、多少は違うのではないかと左右を見渡し、サヤは決断した。
「続きの浜なんだから、どこも同じなのでしょうけれど」
それでも、そこに留まる気にはなれず、そのまま快適な場所を探って移動し続けたサヤは、気づけば遠く士官学校を離れ、大分シンクタンクよりの場所にいた。
「あれ?隋分遠くへ来ちゃった。流石にこの位置はまずいかしら。早く戻らないと」
夜間の散歩は禁止されていないが、シンクタンクへ行くことは推奨されていない。
殊にシンクタンク側が、研究者気質の気難しい人間が多いのだと聞いていたサヤは、ともかく士官学校側へ戻ろうと、再び瞬間移動をしようとして、前方の大きな一枚岩の上で、人影が動くのを目にした。
その人影は、ゆっくりと岩の上を海側へと歩いていく。
淡い星明かりのなか、やや長い髪がゆったり風になびくのが、まるで影絵のように美しいと思う。
夜の、漆黒の海。
空には星があり、シンクタンクの明かりも大分近いとはいえ、海は暗い。
しかも、ここには他に人の気配も無い。
広がる砂浜も暗く、そこから続く岩場も、当然のように暗い。
吹く風に、時折泣いているようにさえ聞こえる波音。
それは、まるで海が呼んでいるような錯覚。
海に、招かれている。
「駄目よ!」
そこまで連想ゲームのように思った瞬間、サヤは勢いよく走り出していた。
走り難い砂浜を蹴り、岩へと駆け上がる。
その視界の先、波飛沫を浴びそうなほどに岩の際に立つ影は、少し風に煽られれば、すぐにも落ちてしまいそうな体勢で海を見つめたままぴくりとも動かず、サヤの不安を煽った。
「待って!早まらないで!きっと人生捨てたものじゃないから!!」
サヤ、渾身の叫びに、人影が振り返る。
「きゃっ!」
「なっ、危なっ!」
突出した石に躓いて転びかけたサヤは、助ける筈のその人物の腕に支えられるようにして、諸共岩の上に倒れた。
「いってえ・・・何なんだ、お前はいきなり!危ないだろう!」
「そ、それは悪かったけど、でも、死んじゃったら危ないどころの騒ぎじゃないでしょう!?」
「俺を殺しかけたのはお前だろうが!ったく、何の恨みがあるっていうんだ」
叫ばれ、心底呆れたように言われて、サヤは動きを止める。
「だって、今、海に・・・」
「は?海を見ていちゃ悪いのかよ」
「悪くはない、けど、でも」
「でも、何だよ?夜の海を眺めるなんて、おかしいってか?悪かったな。俺は夜の海が好きなんだよ」
転んだ時に打ったらしい箇所をさすりながら、その人物は、これ以上ないほどに不機嫌な声でそう言った。
その言葉に、サヤの血の気が引いて行く。
「あのう。つまり・・それは、その。自殺希望者さん、ではないとおっしゃる?」
おずおずと尋ねれば、思い切り深いため息と共に自殺希望と思われた人物は岩肌にごろりと仰向けに寝転んだ。
「はあ。俺を自殺希望者と間違えて、突撃したと。そういうわけか。観察眼皆無だな」
心底呆れたように言われて、サヤは自分がとんでもない誤解をしたことを悟った。
「すみません!あの、私本当に。あの、お怪我、ありませんか?」
問いかけに答えは無い。
とんでもない勘違いをしてしまったのだから当然と思いつつ、それでも一方的な謝罪だけで離れることを躊躇したサヤも、じっとその場に立ち止まる。
夜闇に目が慣れてくれば、その相手がエリート然とした人物なのだろう事は容易に想像できた。
清潔感のある、きちんとした着衣。
天然なのか、少しふんわりとした髪。
残念ながら顔かたちまでは把握できないが、その青年がシンクタンクの所属なのだろうことは容易に想像がつく。
「あのう。本当に大丈夫ですか?どこか、痛いところとか・・・」
「お前、瞬間移動出来ないのか?」
なかなか問いに答えて貰えず、落ち込みかけていたサヤは、思いもしない問いを返されて一瞬思考の止まった後、小さく叫びをあげた。
「あっ」
「莫迦だろう、お前」
くつくつと笑われて、サヤは顔から火が出る思いがした。
<瞬間移動>
あの人影に気づいた位置から、この岩まで瞬間移動するなど、サヤには容易い。
そして、そうしていれば、転倒しそうになって相手を巻き込む、などという事も無かったはずで。
「あの。ほんっとうに、すみません」
サヤは、己の浅慮がほとほと嫌になり、耳まで真っ赤になって大きく頭を下げた。
「・・・・・星が、きれいだ」
しばらくの沈黙の後に聞こえた呟きに、反射的に空を見上げたサヤは、思わず歓喜の声をあげる。
「わあ・・・」
そこに広がるのは、満天の星だった。
降るような、という形容がよく似合う星空。
しかし、しばらくそうして空を見上げていると、首が辛くなる。
サヤは沈黙のまま空を見つめる人物の邪魔をしないよう、そっと声をかけた。
「あのう。隣いいですか?」
「別に、この場所も空も、俺のものじゃない」
変わらず上を向いたまま言われた言葉を了承と取って、サヤはその人物の隣に寝転んだ。
「凄い!パノラマ!」
視界を遮るものの無い場所で見つめる空は本当に美しく、自分はこんなにもきれいなものの下で生きているのかと、サヤは改めて実感した。
「ここなら、流星も見られそう」
ずっと憧れて、けれど未だ見た事の無いそれを、ここなら見ることが叶うかもしれないと、サヤは期待に胸を膨らませる。
「何だ。見たことないのか?」
そんなサヤに、意外だと言わぬばかり、むしろ、そんな奴いるのか、とでも言いたげな声が返った。
「幾度か挑戦したのですが。運が悪いのでしょうか」
「運、というか。短時間で見ようとか思ってないか?」
「結構ねばった、と思いますけど」
「そうか。なら、それは運が悪いな」
「・・・ひどいです」
互いに相手の方を見ることもなく綴られる会話。
初めて会った、顔もよく見えない相手。
なのに、否、だからこそなのか、相手の心を近くに感じ、サヤは、自分の心がすべての柵から解放されていくのを感じた。
「ああ・・・こうしていると、まるで心が空に溶けるみたい」
心が溶け、そこから身体も溶け込んで、すべてが再生していく。
そんな、心地の良さ。
「溶ける、か」
サヤの耳に柔らかく届く声。
「何か。いいな、お前」
くつくつと笑う、その響きさえ、サヤには心地が良かった。
ありがとうございます。