4、夕景
気持ちの良い風が吹く広々とした並木道を、サヤ、ナジェル、バルトは、寄宿舎へ向かってゆったりと歩く。
「何故、この僕が歩いて移動など」
緑が鮮やかに萌える。
そんな心地の良い場所で、ナジェルが不機嫌を隠しもしない声を出した。
「はいっ、ナジェル先輩!それは、瞬間移動出来る能力残量が、俺に無かったからです!」
ナジェルの不機嫌をものともしない元気な声で答えて、バルトは嬉しそうにサヤの隣で、ぴょんと跳ねた。
「瞬間移動できないと時間はかかりますけど、こうやって長くサヤ先輩の近くにいられるから、ラッキーっす」
悪びれることなくそう言って、バルトは、つつつとナジェルのそばに寄った。
「ナジェル先輩は、先に行ってもいいんすよ?」
そして、手で顔を隠すように言った含みある呟きに、ナジェルは底意地の悪い笑顔を返す。
「ほう。本当にいいのか?その場合、もちろんサヤも連れて行くが。こんな夕暮れの人気の無い場所に、お前とふたりになんかさせられないからな」
言下に言い捨てられ、うーっと唸って、バルトは恨めし気にナジェルを見た。
「ナジェル先輩って、サヤ先輩のお父さんみた・・・あ」
しかしバルトの恨めしい視線など、一切関係無い様子のナジェルに、精一杯の嫌味を込めて言いかけたバルトの顔が奇妙に歪んだ。
「どうした?」
「います!」
今の今まで嫌味を言っていたナジェルに縋るように、バルトが必死の形相で訴える。
「何が、って・・・ああ。フレイアか」
敵襲か!?というほどの一瞬の緊張の後、ナジェルは脱力したように肩から力を抜いた。
「バルトは、本当にフレイヤが苦手なのね」
隣を歩いていたサヤも、同じように警戒した後、バルトが何に怯えたのかを知って、苦笑するしかない。
「『ああ。フレイアか』とは何ですか、その脱力した言い方。仮にも級友に対し、失礼ではありませんか」
そんな三人の会話が聞こえたのか、やけに尖った声と共に、深紅の長い髪を靡かせたフレイアが、三人の前方の木立より徒歩で現れた。
街灯に、きらりと光る細縁の眼鏡は、苛烈な性質を持つ彼女の代名詞ともなっている必須アイテム。
『愚鈍、愚鈍、たまらなく愚鈍』
謳うようにそう言い、バルトの情けなさを情け容赦なく言い放つ年長の彼女を、バルトは酷く恐れていた。
しかし、今日は相手も徒歩だったという事実に力を得たか、バルトはナジェルの背後から半身を覗かせて、言わなければよかったと後に悔やむ発言をする。
「あのう。今日は、フレイア先輩もパワー不足ですか?何か、親近感感じます」
「パワー不足?」
バルトの言葉に眉を顰めて一瞬沈黙した後、フレイアは、ああと何か得心したように口角をあげた。
「カルドアの息子バルト。つまり貴方は、能力残量不足で徒歩、なのですね。瞬間移動出来ないという、情けない理由により徒歩。他に選択の余地の無い故の、やむを得ない徒歩。ふっ。そんな理由での徒歩と、わたくしの優雅な散歩を、同じように扱わないでください。まったく、本当に、相変わらず体たらくですね。貴方は、元々の能力値が普通では考えられないほどに低いのですから、もっと考えて消費しなければならないのです。もっと頭を使って行動しなくてはならないのです。それとも、それさえ考える脳量が足りないとでも?」
「の、脳量が足りない・・・」
衝撃の余り言い返せないバルトをふふんと鼻で笑って、フレイアはサヤに向き直った。「不躾ですよ、パトリックの娘サヤ。何か問いたいことでもあるのですか?」
言われて、サヤは、自分が図らずもフレイアをじっと見ていた事実に気づく。
「あ、ごめんなさい。何かフレイアって大きく見えるな、って思って」
「は?」
「バルトの方が背も高いし、肩幅だってずっと広いのに、ふたりでそうして言い合っていると、フレイアの方が大きく見えるなって思ったの」
サヤの言葉に、フレイアは呆れたように大きく息を吐いた。
「今この話題の最中にそんなことを?ああ。こんなのほほんさんに、このわたくしが連敗中だなどと」
肩を落として呟いたフレイアが、次の瞬間、拳を強く握りしめる。
「いいえ、負けは負け。わたくしは潔くその事実を認めますわ。そして次こそは、わたくしがヴァイントの息子ナジェルをも越えて、海洋科の首位に立つのです!」
「うん。頑張って」
「パトリックの娘サヤ!このわたくしを莫迦に・・・って事ではないのですよね、貴女の場合」
はあ、と再び嘆息して、フレイアは緩く首を横に振った。
「これで万年学年二位だなんて、詐欺みたいですわ」
「凄いっすよねー、いっつも二位なんて」
「常に二位。恒常の二位。安定の二位。可もなく不可もなく・・・は、少し違うか」
フレイア、バルト、ナジェル。
三人に口ぐち言われ、サヤが困惑の瞳を向ける。
「・・・ちっとも褒められている気がしないのだけど」
「褒めていませんから!」
「褒めては、いないな」
「俺は本当に凄いと思っているっす!・・・て、あれ?何なんすか?サヤ先輩、ため息なんて」
肩を落としたサヤの顔を覗き込み、バルトがひらひらと手を振った。
「あ!もしかして、すっごくお腹すいちゃいましたか?それは大変す!」
『緊急事態発令!』突如そう叫んで、バルトがサヤの手を取り、そのまま強く握る。
「おい!」
気づいたナジェルが止める間もなく。
「高速発進!っす!」
物凄い勢いでバルトが走り出した。
「え?あの、ちょっと待って!」
よろけるように走り出したサヤが、必死の面持ちで足を動かすも、バルトの速さは並では無い。
あっというまにサヤは足をもつれさせ、転ばないようにするのが精いっぱいの状況となった。
「おい、バルト!サヤを引き摺るな!」
一瞬遅れて走り出したナジェルが、見事な速さでバルトに追い付き、その前に立って動きを止めた時、サヤは足の踏ん張りがきかずにそのまま倒れかけ、ナジェルの強い腕に支えられて事なきを得るほどに疲労していた。
「おお、やっぱりナジェル先輩凄いっす!速さ、半端ねえ。それに、動きに無駄も無いとか、凄すぎっしょ」
そんな状況にも気づかず、純粋に感動したバルトが、ナジェルの静かな怒りに満ちた表情に目を見開く。
「え?ナジェルせんぱ・・」
色々、厳しい発言も多いナジェルだが、その本質は優しく穏やかで、これほどの怒りを見せるナジェルを初めて見たバルトが、その場で硬直した。
「大丈夫か?サヤ。ゆっくり息を吐け・・無理はしなくていい。ゆっくり・・そう、上手だ」
更に驚くことに、ナジェルはそんなバルトを気遣うことなく、サヤの背を優しく摩っている。
緊張を孕んだナジェルの声にサヤを見れば、大好きだと公言して憚らないその人が、ナジェルに抱きかかえられたまま、ぜいぜい、ひゅうひゅうと音が鳴るほどに、ひどく荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫っすか!?サヤ先輩!」
それが、自分のせいだと気づき慌てるバルトに、サヤは精いっぱいの笑みを見せた。
「だ、だいじょう・・ぶ」
切れ切れに言うサヤの背をゆっくりと摩りながら、ナジェルが真っ直ぐにバルトを見やる。
「バルト。彼女とは身体の作りが違うということを考えろ」
「だって・・・サヤ先輩は優秀だから平気と思ったんです・・・」
「それでも。男のお前が本気で走ったら辛いに決まっているだろう。それでなくともお前、足は速いんだぞ?」
諭すようにナジェルに言われ、バルトはしゅんと項垂れた。
「ごめんなさい、サヤ先輩」
「びっくりはしたけど。これから気を付けてくれれば、大丈夫よ」
「サヤ先輩~」
うるっ、と泣きそうになったバルトの目を、サヤがそっと覗き込む。
「ね、バルト。いい機会だったと思えばいいのよ。相手は、自分とは違う。それを知れる好機だった、って。バルトもやがてはラトレイアとなって、ラトレイア・パートナーを持つでしょう?その時、パートナーの状況を正しく判断することも大事になるから」
漸く呼吸も回復したサヤが、俯いたままのバルトに、これも後の訓練に役立つかも、と悪戯っぽい笑みを見せる。
「うっ・・い、胃腸に命じます」
「胃腸に命じる・・・?」
そんな言葉あったか、と怪訝な顔になったナジェルが、はあああ、と大きくため息を吐いた。
「なんです?ナジェル先輩。あ、もしかして、ナジェル先輩は知らない言葉でしたか?忘れないようにする、って意味で」
「それを言うなら、肝に銘じる、だ」
「へ?」
揚々と言いかけたバルトに、サヤも笑いを嚙み殺す。
「い、胃腸って・・・バルト、貴方」
「え?胃腸じゃなくて、肝、なんすか?」
「ああ。きちんと覚え直せよ?」
ナジェルに念を押すように言われ、バルトはため息を吐いた。
「はあ。やっぱ俺の馬鹿さ加減って無限なんじゃ・・・って、サヤ先輩!そんな笑いっぱなし、酷いっす!」
「ご、ごめん。ああ、落ち込まないで!・・ええと、ほら、いいこともあったじゃない!」
一瞬怒り、再び、ずううん、と落ち込んでしまったバルトに、サヤが焦って声をかける。
「いいこと?そんなん、何かありましったっけ?どうせ俺は馬鹿なんで、分からないっす」
「もう。拗ねないの。ほら、ナジェルが言ってくれたじゃない。『バルトは足が速い』って」
「あ」
言われ、バルトが期待に満ちた目をナジェルに向けた。
「別に。僕は、ただ事実を述べただけだ」
「誉めてくれて嬉しいっす!ナジェル先輩ってば、そんな、照れないでくださいよぉ」
くいくい、とナジェルの肩を小突き、バルトが爛漫な笑みを浮かべる。
「あのな。足が速いのは事実だ。だが、今日のような真似、二度とするなよ?」
「はいっ。いちょ・・じゃなかった、肝に銘じます!」
すたっ、と敬礼をしてバルトが、にへらっと表情を緩めた。
「なんだ?気持ちの悪い」
「ふふ。バルト、ナジェルに初めて誉められて嬉しいのよ。気持ち、分かるな」
「サヤも誉めてほしいのか?なら、学年で一位を取ることだな」
そうしたら存分に誉めてやろう、と言うナジェルにバルトが懐く。
「へへ。ナジェル先輩」
「どうしたバルト。俺はサヤじゃない。第一、気持ち悪いぞ」
「気持ち悪い、って。ナジェル先輩酷いっす」
言いつつも、機嫌のいいバルトは弾むような足取りで歩き出す。
「いいから早く、ご飯にしましょうよ!今日の晩飯何すかね?・・・って」
「ん?バルト、どうかしたのか?・・・・あ」
「急に固まって、何か・・・・あ」
そして、くるりとナジェルとサヤを振り向いたバルトが固まり、次いでナジェルとサヤも固まった。
「皆さん。わたくしの存在、お忘れではありませんこと?」
こつ、と靴音高く三人に追い付いて来たのは、深紅の髪を棚引かせたフレイア。
「まあ、尤も?わたくしは、同行者ではなかった、と言われればそれまでですが。これ如何に?」
やわらかに首を傾げて、フレイアは、自身の持つ色とは正反対のような、氷点下の笑みを、ゆったりと浮かべてそう言った。