18、上着
「思ったより濡れちゃったわ。ごめんなさい」
事務棟一階へと戻り、ナジェルの上着を改めて確認したサヤは、そう言って申し訳なさそうに濡れたナジェルの上着を見つめた。
「構わない」
最初からそんな事は分かっていた、とナジェルは笑顔で受け取ろうとするもサヤは、上着を離さない。
「クリーニングして返すから、ちょっと待っていて」
言いながら、ささっとクリーニングの受付へ向かおうとするサヤを、ナジェルは苦笑して押しとどめた。
「クリーニングなんていいから。ほら」
不用意に触れないよう気をつけながら、ナジェルが上着を取り返そうと促すも、サヤは自分の背から上着を出そうとはしない。
「サヤ。君は明日、僕に上着無しで登校しろと言うのか?」
「今から、明日の朝に間に合うようにお願いすればいいことよ。大丈夫。今からなら、間に合うから」
それで解決、と得意げに言うサヤにナジェルはわざとらしく柳眉を潜めた。
「しかしそれは、受け取りを自分でする場合だろう?」
寄宿舎の部屋まで届けてもらえる配達は、明日の始業後になると言うナジェルに、サヤはにこりと笑みを返す。
「それが心配だったのね。でも、大丈夫よ。私が受け取りに来るから」
何も問題ない、と言い切るサヤに、ナジェルは少々意地の悪い笑みを浮かべた。
「サヤ。君は、その上着を何処で僕に渡してくれるつもりだ?結局、上着無しで訓練棟へ行くことに変わりなくないか?」
「・・・・・あ」
ナジェルの言葉に一瞬きょとんとしたサヤが、その事実に気が付いて声をあげる。
ナジェルもサヤも、住まうのは、士官学校の寄宿舎。
その棟は当然のように男女で分かれており、男子が女子棟へ立ち入ること、男子棟へ女子が立ち入ることは禁じられている。
つまり、サヤが始業時間前に上着を受け取ったとしても、ナジェルに渡せるのは共通の場所になってしまい、結局ナジェルは、そこまで上着無しで移動しなくてはならなくなる。
「分かったか。なら上着を寄こせ。僕が自分で依頼し、受け取れば問題ないのだから」
今度こそ、サヤを納得させられたと認識したナジェルが手を伸ばすも、サヤは上着を渡さない。
「待ち合わせして、そこまでお互いに跳べばいいと思う。なるべく人のいない場所にすれば、上着無しの姿もそうは見られないと思うし」
「サヤ。それなら、僕が依頼して僕が取りに来る方が早いと君にも分かるだろう。ほら、いい子だから上着を渡せ」
幼子に言い聞かせるようにナジェルが言い切るも、サヤは納得が出来ず、上着をそっと後ろへ隠した。
「でも、私が借りたから濡れちゃったのに、そんな無責任なことしたくない」
「僕が、もう少しここに居たいと言った結果なのだから、サヤが気にすることはない」
「でも」
「サヤ。僕が自分で受け取った方が、絶対に早い」
そう言われればその通りで、自分が責任を感じることの方が、もはや迷惑かとサヤも思うものの、それではやはり納得できない。
「じゃあ、私も一緒に行く」
「サヤ」
「ああ・・・ナジェルの部屋まで、私が届けに行けたらいいのに」
これ以上言うのは単なる自分の我儘だと自覚するサヤが小さく呟いた言葉に、ナジェルが大きく反応した。
「なっ。サヤ。君は、男子棟へ来るつもりなのか!?」
「行かないわよ。行けたらいいなと思っただけ」
「思っただけ、ってサヤ。心臓に悪い」
はあ、と胸を抑えるナジェルを不思議そうに見て、サヤもまたため息を吐く。
「ああ・・前回は勘違いの押し倒しで、今日は雨に降られて上着を濡らしてしまうとか。あの岩場、私と相性が悪いのかな」
「え?押し倒した?」
「そうなの。今日、ナジェルが連れて行ってくれた岩場。私が知っていたのは、この間偶然行き着いたからなんだけど、そこで自殺志願者がいると思って突撃しちゃったのよ。で、勢い余って押し倒すことに」
苦笑して告げるサヤに、ナジェルの頬がぴくぴくと引き攣った。
「ま、まあ善意なのだから、そこまで気にすることは無いんじゃないか?それより、その相手は・・男・・か?」
「うん、そう。男の人だから、海にまで至らずに留まれたと思う」
思えば、不幸中の幸いね、とサヤは思い返す。
「士官学生か?」
「ううん。ちゃんと自己紹介したわけじゃないけど、シンクタンクの人だと思う」
「思う、って」
「ふふ。でもね、いいこともあったの。あの岩場に寝転んでみた星空、それはもう素晴らしかったわ」
本当に見事だった、と言うサヤに、ナジェルはぎょっとなった。
「寝転んで星空を見た!?そんな、よく知りもしない男と!?」
「わあ。なんか、そういう風に言うと破廉恥な感じがするわね」
でも全然、心配するような雰囲気ではなかったと、あっけらかんと言うサヤに、ナジェルは複雑な表情を向ける。
「破廉恥、って。正にそうだろう。サヤ、君は警戒心というものが足りなさすぎる。さっきだって、雨のなか無防備に上着を脱ごうとして」
「警戒、って。だって、シンクタンクの人は『俺を殺す気か』って言葉から始まって、その後も全然私の存在を意識なんてしていなかったし。ナジェルには、警戒なんてする必要ないでしょ?」
「それでも。男というのは、警戒しすぎるということは無いと覚えておけ」
頭が痛い、といった風情のナジェルの言葉に渋々と頷きかけ、サヤは不意に笑った。
「でも何か、私の方が警戒対象みたいじゃない?だって、今日の訓練でアクティスも押し倒しちゃったもの」
「あれは、訓練だろう。勢い余っての事故といえばそうなのかも知れないが、あれくらい教官は想定内だったと思う。現に、お咎めは何も無かったじゃないか」
「まあ、確かにそうだけど。アクティスは驚いたでしょうね」
大爆笑されるとは思わなかったけど、とアクティスのその表情を思い出し、サヤは優しい瞳になる。
「アクティスな。あれは、僕も驚いた。流石サヤと言おうか」
「あれは私が悪かったけど、アクティスも、もっと笑ったらいいとは思ったかな。だって、瞳の色が本当に温かくなって、そうするともっと」
「ん?ここは、事務棟一階。何故だ?」
アクティスの瞳は温かみを帯びると、もっとナジェルに似ている。
そう言いかけたサヤの言葉を遮るよう、レミアの声が辺りに響いた。
ありがとうございます。