第九話 最後じゃないから
俺の暴言に、スズネさんははっきりと顔を歪めた。
「……叩きのめしてでも言うことを聞かせるわ」
「そっすか」
わかりやすくていい。
「理解できないわね。会って一週間もない女の子のためだけに、瑠美を、うちの事務所を危険に晒すというの?」
「じゃあ、瑠美さんに聞いてみたらどうっすか? 瑠美さんの言葉なら、俺も聞くかもしれない」
「ッ……、」
初めて、スズネさんが押し黙った。
そうだよな、あんたも予想できるよな?
「瑠美さんなら間違いなく、俺に天上さんと関わるのをやめろとは言わない。それを分かっていたから、スズネさんは今ここにいるのですよね?」
「っ……そう、よ。でもその判断は、所長としては間違っている。だから瑠美が間違える前に、私が止めるのよ」
「このことを知ったら、瑠美さんが激怒すると思いますが」
「それでも、よ。瑠美に憎まれようが、私は瑠美と事務所がより安全な道を選ぶ」
その言葉には、純粋な覚悟があった。
正しいとか間違っているとかの話ではなく、瑠美さんのことを心から案じているとわかるものだった。
スズネさんは、俺や天上さんよりもずっと、瑠美さんのことを大事に思っている。
だからこそ、俺にとっては残酷な言葉さえも躊躇わずに言えるのだ。
理解はしているさ。
「……それでも、俺は天上さんと関わるのをやめませんよ」
吐き出した言葉に、熱が灯る。
怒りとは違う感情が宿る。
「初めて会った時、『どうか死なせてほしい』って言われたんです。人生に救いはないと何もかも諦めて、身体より先に心が死んでしまったんです」
思い出す。
絶望に埋め尽くされた、天上さんの瞳を。
俺が救えなかった大切な妹と、同じ瞳をした少女を。
あの時に願った『この人を救いたい』という熱を。
「そんなの、助けたいじゃないですか。救いがあると教えてあげたいじゃないですか」
「……優しいわね。残酷なくらいだわ」
「スズネさんの言う通り、まだ俺は天上さんと会って一週間も経っていないです」
今日の昼を思い出した。
天上さんと連絡先を交換したこと。
天上さんは文字の上だと意外とおしゃべりだということ。
死んだような無表情に、口元だけでもほんのり感情が乗ったこと。
『…………ね。へんなの』
二人してトークアプリの設定が初期画面になっていて。
華の高校生であるはずなのに、お互いに普通の高校生が最も使っているであろうものをロクに使っていないことがわかって、それがなんだかおかしくて。
あの時の、ふわりと緩んだ口元を、思い出した。
「それでも、色々なことがわかるんですよ。たった一週間でも、天上さんのたくさんの一面が見られたんですよ」
天上さんは、自分の命の期限を四ヶ月と定めていたけれど。
絶対に、それだけじゃ終わらせない。
彼女の取り巻く問題全てを叩き潰して、四ヶ月より先の未来を見せると決意している。
「だったらこれから先、一ヶ月後、二ヶ月後、一年後とかには、もっともっといっぱい天上さんの新しい一面が見られるはずです。俺にはそれが、これ以上ないほどに楽しみなんですよ」
だから、答えは決まっていた。
憚ることなく決意をのせて。
はっきりと言う。
「スズネさんの言うことは聞けません。俺は……天上さんの未来を選びます」
「……そう。彼女を狙う組織から、うちの事務所が狙われたり、最悪取り潰しになっても構わないということね?」
「何言ってるんですか」
最後通牒のようなスズネさんの言葉を、俺は鼻を鳴らして返した。
「そうならないために俺たちがいるんですよ。普通の女の子一人も守れなくて、何が対特災事務所ですか」
「ッ、ふふ……普通の女の子一人、か。確かに…………そう、かもねぇ。一本取られたわぁ。ふふふ」
スズネさんも笑う。少しだけ、硬い雰囲気が和らぐ。
「叩きのめすくらいじゃ、如月くんは聞かなそうねぇ」
「殺されても聞きませんよ」
「あら、怖いわぁ」
「左腕がない今なら、確実に勝てると踏んでいたんですか?」
ふと気になったから聞いてみると、スズネさんは苦笑い。
「ちょっとズルいとは思うけどねぇ」
婉曲な肯定。
ズルいとは思わんけどなぁ。少しでも有利な状況に持っていく、という基本的な部分の延長だろう。
すわ戦う流れか、と思ったけど、スズネさんは俺の予想に反してくるりと踵を返した。
「……いいんですか? 何もしなくて」
「殺しても止まらない人に何言っても無駄よぉ。私も思うところがあったし、やめておくわぁ」
そりゃ助かるけど。
スズネさんは俺の顔を見て、面白いものを見たように笑う。
「好きな人のために頑張る男の子、とっても素敵よぉ。幸せにしてあげなさいねぇ」
「いや、あの…………好きというわけではないですが」
俺の呟きは無視された。
何か、途方もない誤解をされている気がした。
あらあらうふふと微笑んだスズネさんは、軽い足取りで帰っていく。
結局、問題なかったということでいいのだろうか。
……いいんだよね?
スズネさんが暗闇の奥で見えなくなって。
ようやく俺は警戒を解いた。
「あー……疲れた」
二十分も経っていない会話だったが、両肩に疲労感が乗っていた。
あの人、プレッシャーえげつないな。
スズネさんが座っていたベンチに腰掛けて、タバコを咥えてライターで火をつけた。
ふぅ、とフィルターが口元と膝の上を何度か行き来する。ミントのような残り香は、あっという間にヤニの匂いに埋め尽くされる。
しばらく無言で肺を汚す作業に入った。
ふと、ポケットに入れたスマホが鳴る。
こんな時間に誰だろう? 緊急の依頼か?
スマホを点けてみると、トークアプリに一件の通知。
「……おお」
思わず声が出た。
天上さんからだった。
『天上音羽:起きてる?』
スマホを操作。
『如月凪也:起きてるよ』
『天上音羽:夜遅くにごめんね』
『如月凪也:大丈夫。どうした?』
『天上音羽:電話してもいい?』
電話? 本当にどうしたのだろう。
俺からすれば願ってもないことだった。
声が聞きたいと思っていた。
すぐに『いいよ』と返すと、間を置かずに電話がかかってくる。
「もしもし?」
『……もしもし。急にごめんね』
囁くような天上さんの声が、スマホのスピーカー越しに耳を震わせた。
やっぱり、天上さんの声、綺麗だな。
いつもと違って耳元で聞こえるのが、何だかこそばゆい。
どこか浮つく気持ちを抑えながら、天上さんに言葉を返す。
「気にすんな。どうしたんだ?」
『……その。…………ちょっと、如月くんの声が聞きたくて』
「お、おう。……なんか、ありがとう」
心臓がきゅうと縮んだ気がした。
まただ。この人と話していると、俺の身体が俺の意思から外れることがある。
脳が茹ったように働きが止まって、言葉が出てこなくなる。
ちょうど、今みたいに。
だけど、それが嫌じゃないんだ。
なんて答えたらいいかわからない。
だけど、同じ気持ちだった。
それだけは伝えたいと思った。
「俺も、天上さんの声、聞きたいと思ってた」
『……そ、そうなんだ。ありがと』
声に照れたような色が混じる。
それを聞くだけで、俺の中に溜まっていた、黒い澱みが洗い流されていく気がした。
「おあいこだな」
『……うん。おあいこ、だね』
しっとりとした、一段と柔らかな声。
電話越しの天上さんは、今どんな顔をしているのだろう。
少しでもあの無表情が、緩んでくれているだろうか。
明日は定期検査と、天上さんは言っていた。
それを話した時の口ぶりからも、楽しいことではないのだろう。
今日電話をかけてきたのも、そんな不安があったのかもしれない。
「いつもこの時間まで起きてるのか?」
『……起きてる。というか、あまり寝られない』
「寝られないのか」
『……うん』
天上さんの声のトーンが下がる。
俺は慌てる。そんな声が聞きたいんじゃないんだ。
「アロマとかの匂いがあるとよく寝られるらしいぞ」
スズネさんが結構前に、そんなことを言っていた気がする。
今度ちゃんと調べてみよう。
俺は空っぽの人間だから、こういう時に自分の経験からのアドバイスができないのが恨めしい。
『……使ったことない』
「今度使ってみたらどうだ?」
『…………何を買えばいいのかわからない』
「俺も詳しくねえな。今度調べてみるわ」
『…………一緒に、買いに行こ』
「おう。今度どっかに行くか」
『……うん』
また、予定ができた。
心が不思議な暖かさで満たされる。
『……如月くんは、よく眠れるほう?』
「そうだな。いつでもどこでも寝ようと思えば寝られるぞ」
『……うらやましい』
「寝ようとすればってだけで、そんなに寝ないけどな。眠りも浅いし」
いつでもどこでも睡眠という休息を取れなければ死ぬ場所にいた。ただそれだけだ。
誇ることでもない。
『……そうなの?』
「おう。それに、なんか寝ると時間がもったいない気がするんだよなぁ」
自分のパフォーマンスを維持できる最小限でいいと思っている。
後は他のことに時間を費やした方が、よっぽど有意義だというのが俺の意見だ。
龍とかはとにかく二度寝したいとか言ってたけど。
その辺は人それぞれだろう。
『……こうりつ、重視?』
「あー、そんな感じ」
言われてみれば、無駄なことはあまり好きじゃないかもしれん。
タバコ? あれは人生のオアシスだ。俺にとっては必須である。
……判断基準が思いっきり主観なあたり、判定はガバガバな気がしないでもない。
ともあれ、そんな感じで会話がぽつぽつと続く。
時折無言になることはあったけど、何だかそれも、次の会話が楽しみになるスパイスに感じられた。
どれだけ話しただろうか。
やってきた何度目かの無言の時間。
ベンチに背中を預けて、ぼんやりと星を眺める。
俺が思いついたら話せばいいし、天上さんが思いついたら聴けばいい。
そんな、誰にも強要されることのない、心地の良い沈黙。
数十秒ほど経って、天上さんの声が聞こえてくる。
『……びっくり。もう、こんな時間』
驚いたような天上さんの調子に、耳からスマホを離す。
右上に表示された時間は夜の一時半。
今もカウントが続いている通話時間は、一時間を越していた。
もう、そんなに経っていたのか。
「一時間以上も話してたんだな、俺ら」
『……ね』
「こんなに誰かと話したの、初めてだ」
『……わたしも』
通話を切る、ということを切り出すタイミングが分からなかった、というのはあった。
俺から切るのは何だか申し訳ないし、そもそも切りたいとも思っていない。
とはいえ、もう夜も遅い。
ここいらが潮時だろう。
「もうそろそろ寝るが、天上さんは大丈夫か?」
『……あ、うん。だいじょうぶ』
声がどことなく寂し気に揺れていた気がして。
また、心臓がきゅうと縮んだ気がした。
やっぱ切りたくねえな。いやでも夜も遅いしな……。
続けるのが正解か、このまま終わらせるのが正解か、わかんねえ。
とはいえ一度その流れを作った以上、それを覆すのも変な話で。
ただ、俺の気のせいかもしれないが、まるで続けることを求めるかのような天上さんの声音を、何とかしてあげたいとも思ったわけで。
何を言うべきか、頭がぐるぐる回る。
「最後じゃないから」
『……さいご?』
困惑気味な天上さんの声。
伝えきれていない。言葉が足りない。
言いたいことを、その言葉の核を、無駄も欠けもなく伝えるというのは、何と難しいことか。
「いつでもいいってことだ。これっきりじゃないし、またこうして話すことはできるから」
すぅ、と言葉で消費された酸素を吸い込んで。
「だから、あー……、好きな時に連絡していい。またこうやって話そうぜ。これが最後じゃないってのは、そういうこと」
天上さんが、小さく息を飲む音が聞こえた。
数秒ほど俺の言葉を咀嚼するような間があって、おずおずといった調子で天上さんが聞く。
『…………迷惑じゃ、ない?』
「迷惑じゃない。俺だって——」
『……俺だって?』
言いかけて止めた言葉尻を、天上さんが捉える。
ええい、ついでだ。
曝け出した本心のついでに、これも言ってしまえ。
「——俺だって、天上さんと話したいと思ってたよ。さっき、連絡しようか悩んで、勇気が出なくてやめたけどさ」
くそ、恥ずかしいなこれ。
何が悲しくて、自分の情けねえ部分をカミングアウトしなきゃいけねえんだ。
でもここまで伝えたんだ、これも言うしかない。
「だから、連絡が来て、俺は嬉しかった」
『……ほんと?』
「本当だよ」
ちくしょう、顔が熱くなってきた。
夏前とはいえ夜はそこそこ涼しいはずなのに、じんわりと汗が出ている。
天上さんは、しばらく無言だった。
頼む、なんか言ってくれ。そう思ったけど急かすこともできなくて。
人差し指が無意識にベンチを叩く。
やがて、ほぅ、という溜め息のような吐息が聞こえて、背筋が伸びる。
『…………うれしい』
「っ!」
その、一言に。
ぎゅっと感情が込められた、短い一言に。
俺の心臓が、どうしようもないほどの音を立てた。
何だ、これ。
左手で口元を隠した。無意識の動作だった。
俺の手足が、感情が、俺の管理下を超えて暴れ回る。
天上さんと接するたびに感じていた知らないナニカが、堰を切って溢れ出したような感覚。
知らない。俺はこの気持ちを、知らない。
胸が切なくて苦しくて、締め付けられるような。
けれど締め付けられた部分から、ぶわりと身体全体に染み渡るように幸福感が溢れ出してくるような。
初めて抱いた感情だった。
名前すらわからない気持ちだった。
混乱する俺の耳に、天上さんの言葉がするりと入ってくる。
『……わたしも、連絡していいのかな? って思ってた。でも、同じだったんだね。わたしも、如月くんから連絡が来ても、迷惑じゃないよ。むしろ、うれしい』
いつもより長く続いた、天上さんの言葉。
なんでだろう。
同じ気持ちだった。ただそれだけのはずなのに、どうして心臓が暴れるのだろう。
ふわりと心が浮かび上がるような気持ちになるのだろう。
「よかった」
何とかそれだけを返した。
感情が一周回ってフラットになったような声が出た。
『……うん、よかった』
心臓の音が、スマホを通して天上さんに聞こえていないか、とさえ思う。
次の言葉が出てこない。
頭が真っ白になっていた。脳内で組み上げようとする言葉がぐちゃぐちゃになって、言いたい言葉が表れて消える。
鼓動は鳴りっ放しだ。
どうしちまったんだ、一体。
『……また、連絡するね』
「ああ」
『…………如月くんからの連絡も、まってる』
「っ、わかった」
『…………じゃあ、おやすみなさい』
相槌しか打てない俺に、天上さんの囁き声が脳を震わせた。
それは麻薬のように脳内をぐるぐる回って、制御できないほどの喜びの感情を生み出した。
やばい。
よくわかんねえけど、やばい。
ずっと忘れていたものと、今まで知らなかったものが、同時に襲いかかってきた感覚だった。
「……おやすみ」
もはや返答は反射的だった。
頭で考える余裕が一切なかった。
天上さんの小さく頷くような言葉を最後に、通話が切れる音がする。
その無機質な電子音に、言葉で表せないほどの寂しさを心が満たして。
「ッ————!!」
思わず両手で顔を覆った。
恥ずかしいのか、嬉しいのか、寂しいのか、自分でもわからない。
身体が勝手にそう動いていたのだ。
未だにばくばく音を立てる心臓。
いつもよりずっと血が通っている顔。
シャツを濡らすほどの汗。
制御を離れた俺の身体が異常を訴えていた。
心という、形のない不確かで、けれど俺の中に確かにあるものが、暴れ回っていた。
この感情に付ける名前を、俺はまだ、知らない。