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日は既に夜に攫われ、月もおぼろ雲が覆いかぶさっているせいか、辺りは夜を空気に溶かし込んだように闇で満ち満ちている。
小さく古い公園のため、光源は今僕らを照らしている街灯一本だけ。
まるでここから足を踏み出したが最期、二度と光のある世界には戻れない――そんな錯覚を抱かせるようなブラックホールじみた景色が、僕らを包み込んでいた。
「私とお前の恋を実らせる、作戦?」
怪訝な目つきで、面は呟いた。
声からはありありと、そしてちりちりと、発火直前の燻る炎みたいな感じが伝わってくる。
当然だ。恋を諦めたばかりの面にとって、僕の言葉は馬鹿にしているようにしか聞こえないだろうから。
「ああ」
僕は頷き、面の腕から手を離すと同時に、一歩近寄った。
「お前、さっき言ってたよな?僕とお前は似てるかもしれない。……そして、僕もこの見た目のせいで恋に失敗してきたんじゃないかって」
「…………」
僕は自虐的に笑って、
「……残念なことに、その通りなんだ」
「…………」
面の瞳の鋭さが僅かに和らいだ。
「昔から全くモテなかった。いや、モテることにはモテたんだけど、それは全員男子で、女子になんて全くモテなかった。気になる女の子はいても、その子達にとって僕は絶対『友達』で、せいぜい自分の恋愛話を気兼ねなく話せる貴重な異性程度だった。だからこのままじゃ駄目だと思って男らしさを研究した。男らしい仕草。体格。話し方。表情。髪型。男っぽくなりたいなんて恥ずかしくて誰にも相談できなかったけど、とにかく独力で自分で考えられる限りの男らしさを身に着けようと努力した。そして、高一の春、本気で好きな女の子ができた。今ならいけると思って僕は告白した。けど、答えはそれまでと何も変わらない、「友達にしか思えない」という断り文句だ。全く僕は変わってないことを思い知らされた。お前と同じ、勝手に変わったと思い込んで、好きな人に気持ちを押し付けたただの自己中だった」
過去の自分が俯瞰して見える。
あの時の僕は自分が努力していることに酔って、こんなに努力しているんだからきっと上手くいくと自分を騙すただの嘘つきだった。
確かに体格も口調も顔つきも僅かに男らしくはなっていただろう。けれど、それだって微細な変化だ。
なのに僕は絶対に成功するはずがないと分かっていたのに、自分勝手に自分の努力を大和に押し付けた。
そんな奴、報われるはずがない。
そして、今はもっと酷い。
失敗を引きづったまま大和に対する気持ちだけを放置したままなのだから。
「……そう、だったのか」
罪悪感を感じたのか、面は一言視線を落としてそう言う。
が、
「しかし、それがさっきの作戦云々の話とどうつながる?それとも私を引き止めて傷の舐め合いをするためだけについた嘘か?」
そんなわけはない。
僕は首を振って、答えた。
「僕が言いたかったのは、自己中が故に恋に失敗したんなら、それを直せばいいだけってことだ」
「……どういうことだ?」
「どっちも自己中なら、二人でアドバイスし合えばなんとかなるんじゃないのかってことだよ」
「¬な――⁉」
まるで雷が落ちてきたみたいに、面は体を硬直させ、瞼だけをまくり上げた。
目の前で何が起きているのか、何を聞かされたのか分からない、そんな表情。
が、いくら問われても台詞のままの意味だと答える以外ない。
これまで僕達は、ずっと一人で馬鹿正直に恋に向かい合ってきた。
失敗しても誰にも助けを求められなかった。否、誰にも助けを求めようとしなかった。
なぜなら、自己中だから。
けど、それがもし二人だったなら?
二人で互いに叱り合って、監視し合って、互いの恋をサポートし合うことができたなら?
僕は右の掌を握りしめ、街灯に照らされた地面に視線を落としながら、
「確かに、僕達は望む恋を叶えるための才能をほとんど持ってない。顔も声も体格も性格も、絶望的と言っていいくらいだ。加えて自己中で我が儘。そんなやつの恋が上手くいくわけなんてなかった……だけど、僕達はお互い、相手に足りてないモノを自分で持ってる。お前は僕に足りない男らしさを。僕はお前に足りない女らしさを持ってる。不本意なことに、互いに何度も同性から告白されてきたわけだからそれは証明されてる。けど、それをうまく活かすことができれば、二人で助け合えば、二人、どちらの恋も叶えられると思わないか?」
唾をぐっと飲みこみ、顔を上げる。
面はただ黙って口を閉ざしている。
そして永遠とも一瞬とも取れるような沈黙が続いたかと思うと、やがてアリの足音くらい小さな声量で、
「……つまり、お前が私の恋を助ける代わりに私はお前の恋を助ける……。契約、ということか」
僕は黙って首肯する。
それから面はそれから「そうか」とまた更に形の良い小さな唇を僅かに震わせ、そして――
「ふっざけるなあ‼」
――照らす街灯の光さえ追い払ってしまいそうな暗い怒号が、公園中をつんざいた。
「…………!」
「お前が私の恋を叶える?おふざけもいい加減にしろ!私がどんな気持ちであいつを諦めたと思ってる⁉私が恋そのものを諦めるのにどんなにかかったと思ってる⁉6年だ!私は6年かけてようやく諦めたんだ!短いと思うか⁉けど、私はその間ずっと思い悩み続けてきたんだ!なのにそれをお前の一瞬の思いつきで覆せ⁉恋をやり直せ⁉できるわけないだろそんなこと!……ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなぁ!」
「…………!」
流暢にハキハキと大声で。しかし、悶え、苦しみ、血反吐を吐くように、堰を切った、いや、頸動脈を切ったように、面は血相を変えて叫んだ。
手を膝に置いて、肩を震わせ、ぜぇぜぇと息を切らしながら呼吸を整えている。
それからすぐに老骨に鞭打つように無理矢理顔を起こして、
「……本当に私はもう諦めたんだ……それに、諦めがつくだけの事実にも気が付いたことだしな」
まるでさっきまでの激情が嘘だったかのように突如顔を上げて弱弱しく自虐的に微笑む。
諦めがつくだけの事実。それが何かは分かっている。さっき面が自ら語っていた。
「……『好きな人を騙すような人間が好きになってもらえるはずなんてない』だったか」
「よく覚えてるな……けど、その通りだ。私には土台、恋なんて無理だったんだ。嘘つきには罰を。当然の理屈だ」
「……だから、諦めるのか?」
「……ああ、その通りだ」
「本当に、諦めたのか?」
「……ああ」
「本当の本当に、か?」
「――ッ!何度も言わせるな!本当に決まって――」
「じゃあ何でそんな風に泣いてんだよ‼」
「――――⁉」
気が付けば、僕は叫んでいた。
自分でも、何を言ったのか分からない。
面でさえ、ひたすら目をぱちくりと瞬かせるだけで、身動き一つ取らない。
おい、やめろ。何言ってるんだ。黒歴史になるぞ、僕。けど、一度動き出した口は止らない。
僕は爪が掌に刺さって離れなくなるくらい両の拳を握り込んで、
「僕は夢を、目標を諦めること自体を否定するつもりはない。人間そのものが空を飛ぶみたいに絶対に叶わない夢や目標だってあるからだ。そして夢を諦めて泣くことも当然、許されるべきだ。叶わないことはとても辛いことだから……。けど、お前の涙は違う!夢を諦めた人間が泣く時は自分が涙を流すことを分かっていて泣くんだ!だって自分が悲しみに暮れていることは分かっているんだから!」
「――――ッ!」
「だけどお前は自分が泣いていることに気が付いていなかった!それはお前が諦めていない証拠じゃないのか⁉僕にはお前がもう辛い思いをしたくないから諦める理由を探しているだけにしか見えない!」
「ふ、ふざけるな‼私は――」
「ふざけてなんかない!」
胸倉を掴んで来た面の両腕を薙ぐように振り払う。
面は心底不思議そうな瞳で僕を見据える。。
涙はいつの間にか止まっている。
「ふざけてるのはどっちだよ!いいか面、このままだとお前はお前でなくなるんだ!」
「……私が私じゃなくなる?」
僕は頷く。
「そうだ。もしお前が恋を諦めていないのに、諦めたと言っているのなら、お前は自分に嘘を吐いていることになる。その時点でお前はもう偽物だ。お前はこれから無意識に『恋なんて諦めた自分』を演じ続けることになる。いや、その人物になることをお前自身の嘘によって強制されるんだ」
「――――!?」
「それにそれだけじゃない。お前がこれまで恋のためにしてきた努力も、全てどこかに行ってしまう。本当に恋を諦めたのなら、その努力はお前の記憶や思い出に残るけど、本心では諦めていないんだから、努力は失敗もせず、ましてや報われることもなく、宙ぶらりんだ。終わりがない。唯一あるのは終わらないっていう終結だけだ。お前は、それでもいいのか?」
「そん、な………」
面の顔に動揺が走る。
言葉を語らずととも、その顔が全てを物語っている。
僕は歩幅一歩分の距離にまで面に近づく。視線を逃がさないように面を真正面から見据えた。
「最後にもう一度だけ聞くぞ、面。これ以降は僕はもう、何も口出ししない。たとえ答えが変わらなくても、僕はそれを受け入れる。けど、もしも答えを変えるのなら、僕の作戦に協力して欲しい」
「愛、可……」
初めて、面が僕の名前を呼んだ。
名前を呼ばれれば返事を。だから僕は返事として、こう返した。
「――お前は本当に、恋を諦めたのか?」
「―――――――ッ⁉」
まるで幽霊でも見たかのように、面は体と視線を硬直させた。
俯き、呼吸を荒くしながら肩をぶるぶると震わせる。
垂れた前髪からは怒りのような悲しみのような、はたまた悔しさのような光を帯びた瞳が覗く。
その下にある色素の薄い唇は、本当に幽霊を見た後のように、わなわなと振動しながら開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していた。
「わ、私は……」
ポツリ。
儚く散ってしまいそうな音が虚空を舞う。
「私、は……」
「どうなんだ?」
「私、は……」
「お前は、どうしたいんだ?」
「私は……」
「言え!面!」
「……ッ……私はッ……!」
月明かりが差した。
それに引っ張られるように、面は顔を上げ、
「私は……諦めてなんかないッ‼」
――瞳から豪雨を溢れさせ、雷鳴の如く地面を突き刺すような大声で、そう言った。
「私は諦めてなんかない‼諦められるわけあるか!こんなに人を好きになったことは一度もない!大好きなんだ!私はあいつのことが大好きなんだ!諦めきれるわけなんて、ない……ッ!」
豪雨は止まらない。
零れる涙と共にこれまで抑えてきた気持ちを言葉に乗せて四方八方、僕に浴びせかける。
「……けど……もう失敗するのが辛くて、努力が報われないのが嫌で、ずっと孤独が怖くて……何より、自分の無能を痛感するのが、嫌だったんだ……!」
両手で顔を覆い、涙が指の隙間をすり抜けぽつりぽつりと落ちていく。
涙と同じように、これまで押し殺してきた本心も言葉と共に絞り出されていく。
「だったら、僕がお前を助けてやる」
僕はポケットからハンカチを取り出し、差し出した。
「……!……」
面は僅かに逡巡する。が、やがて受け取り、顔を拭った。
時折、押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。
……女子力が高くて良かったと思ったのは、初めてだ。
やがて嗚咽が止む。
そして面は乱暴にハンカチを丸め僕に投げ返すと、
「……具体的にはどうする?私を引き戻したんだ?少しぐらい考えはあるんだろうな?」
「……!面……」
顔を上げ、そう傲然と言ってのけた。僅かに腫らした瞳で。けれど笑顔で。
……さっきまでの塩らしい態度はどこに行ったのか。なんとも、男らしい。
期待には応えなければならないだろう。僕は背を反らし、
「安心しろ。僕の女子力はすごいんだ」
面に負けないくらい自信満々に言う。
「男に言われても安心できない、と言いたいところだが、お前だけは例外だな」
「なんだと男の女の子。略して『男んなの子』」
「黙れ男の娘」
「…………」
「…………」
「……プハッ」
「……クク……」
自分たちの意味不明な台詞がおかしくて、どちらからともなく笑い合う。
即興で作ったにしても、なんだよ、男んなの子って。
「……ま、それじゃよろしくな。せいぜい私のために尽くせよ」
「お前もな。ちゃんと僕の恋をかなえてくれよ」
そして、更にどちらからともなく、握手を交わす。
本格的に知り合ってからまだ二時間足らず。
互いのことなど少しも知らない。
互いに互いを利用するだけ利用する。
そんなただただ私利私欲に塗れた、ただただ即物的な契約が、今、結ばれた。
ご一読ありがとうございました。