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「あ……ああ……ああ……」
崩れ落ち、言葉にならない嗚咽を繰り返している瑠衣。
霧散してしまったマリーは死んでしまったわけでも、消滅して戦いから退場してしまったわけでもないらしい。戦いの参加者としての『傲慢お嬢様』という概念は残したまま、マリーの物理的存在だけが『白い霧』になってしまった。マリー自身が考察していたようにそれはただの霧ではなく、ユーリアの能力で生み出された、当初の『設定』からかけ離れた想定外な『白という特別な概念』……ということなのだろう。
しかしそれは同時に、一度でもその『白い霧』に変わってしまったものが、戦いが終わったからといってもとに戻れる保証はない、ということも意味していた。
さっきまで瑠衣の右手を覆っていた紫のオーラは、すでに消えている。瑠衣を強化していた『極上の使用人』はマリーの能力なので、その使用者のマリーの意識が途絶えてしまったことで、その能力も解除されたのだ。
もともと、この戦いにおいて特別な能力を使えるのは淑女のほうで、その淑女に仕えるメイドは普通の人間のままだ。だからこれは当然で、仕方ないことなのかもしれないが……マリーという主を失ったメイドの瑠衣が、ユーリアのように感情を高ぶらせて新しい能力に覚醒する……ということはなかった。
今の彼女はただただ無気力に、その場にうずくまっているだけだった。
さっき瑠衣たちが逃げてきたあたりに目を移すと、そこはすでに完全に『霧』に包まれて、全体が真っ白に染まっている。
自らも『霧』になっているユーリアは、やはり積極的に瑠衣たちに向かってきてはいない。相変わらず周囲の物体や空気、および空間という概念そのものを『白』に変えて、『霧』の範囲を拡大しているだけのようだ。『霧』になる前のユーリアの意思が、そこにまだ残っているのかどうかは分からないが……。しかし、その深い深い『霧』の中のどこかには、触られただけですべてのものを同じ『霧』に変えてしまう彼女の『右手』が、確実に存在している。そういう意味では、いまや地下鉄駅構内を包み込みこもうかというほど大きくなっている『霧』のすべてが、対戦相手の瑠衣にとっての脅威だった。
だが、彼女は……。
「……」
霧散してしまったマリーを惜しむようにうずくまっていたのをやめ、ふらりと立ち上がる。そして、まるですべてを諦めてしまったかのように、危険なユーリアの『霧』に向かって歩きだしてしまった。
そのときの彼女は本当に、諦めていたのだ。
(ごめん、なさい……)
心の中で、謝罪の言葉を繰り返す瑠衣。
(マリー様、ごめんなさい……。こんな私が、パートナーになってしまって……。ユーリアちゃんたちに、勝つことが出来なくて……ごめんなさい)
どれだけ頭の中で思っていてもその謝罪が、『霧』になってしまった自分の主に届くはずはない。それでも、瑠衣はそれを繰り返すのをやめることは出来なかった。
(きっと、私がメイドじゃなかったら……。私たちの間に、もっと深い絆があったら……こんなことにはならなかったのに……。マリー様が、消えることもなかったのに……)
せっかく逃げてきた道を戻り、今も範囲を広げているユーリアの『霧』の前までやってくる。それから彼女は、そのまま何の迷いもなく、『霧』の中に足を踏み入れてしまった。
吹雪の雪山のように真っ白な景色の中を、歩き続ける瑠衣。
彼女の周囲を漂う『霧』の中には、どこかは分からないが、確実にユーリアの『右手』が存在する。体で『霧』をかき分けるようにして歩く瑠衣が、その一部にでも触れてしまえば、その時点で彼女もさっきのマリーのように『霧』に取り込まれてしまう。そのことは当然、瑠衣も理解していた。
しかし、今の彼女は、それでも構わなかったのだ。
(私がさっき二対二にこだわってしまったのは、戦いのためなんかじゃない……。パートナーのマリー様を勝たせるため、なんかじゃない……。私とマリー様の絆が、ユーリアちゃんたちにも負けないって証明したかったから……。私とマリー様の間に、彼女たち以上の絆があるって証明したかったから……なのに……)
今の瑠衣にはもう、自分のことなんてどうでもよくなっていた。自分がマリーのように『霧』にされてしまっても構わなかった。
(結局……私たちの絆じゃあ、勝てなかった……。ユーリアちゃんたちの強い絆には、敵わなかった……。でも……それも、仕方ないよ)
今はもう、彼女の主のマリーはどこにも存在しない。『白い霧』になってしまったマリーが、瑠衣に力を与えてくれることはない。それが分かってしまっている瑠衣にはもう、自分とマリーの絆の力を信じることは出来なくなっていた。
(私はマリー様たちが、本当は『主催者』が考えた『設定』なんじゃないかって、わかっていた……。いつか突然消えてしまう存在なんじゃないかって、薄々気付いていた……。気付いていたのに、それを信じたくなくて……ずっと、言えなかったんだ……。そんなの、ただの私のわがままだ……。本当に辛いのは、マリー様のほうなのに……私は、私のことしか考えていなかったんだ……)
ちょうどそこで、瑠衣は深く広い『霧』の、中心あたりにまで到着した。もはやいつユーリアの『右手』が彼女にふれてもおかしくない。それでも、今の瑠衣には何の抵抗も恐怖もなかった。
むしろ瑠衣は、このまま自分もマリーと同じように、『白い霧』になるべきだとさえ思っていた。
そして、そんな瑠衣の気持ちに応えるように……周囲の『霧』の中の一部分が、瑠衣に向かってゆっくりと動き出した。
もちろんその部分も真っ白で、『霧』の他の部分と何か違いがあるようには見えない。むしろ、光を通さないほどに深い『白い霧』の中では、その部分が動いていること自体、認識できる道理はない。……しかし、瑠衣にはなんとなく分かってしまった。
動いているそれは、ユーリアの『右手』だった部分だ。触ったら自分も『霧』になってしまう部分……さっきマリーに触れて、彼女を『霧』にした部分だ。その『右手』が今、自分に向かってきているのだ。
(ああ……。あれに触られたら……全部、終わるんだ……)
やはり今の瑠衣には、焦りや恐怖はない。
(自分のことしか考えず、自分の本心をマリー様に伝えることが出来かった私が……。意気地がなくて、マリー様との間にちゃんと絆を作ってこれなかった私が……何でも言い合えるような強い絆を築いてきたユーリアちゃんたちに負ける……。それは……この「絆の強さを試される戦い」で、とても正しいことなんだ……)
瑠衣の頭の中を、死を覚悟したときに見えるという走馬灯のように、今までのマリーとの記憶が蘇ってくる。
そのどれもが、完璧で最高な自分の主の素晴らしさの記憶であり……同時に、不甲斐なくて頼りない自分を後悔する記憶だ。完璧な存在のマリーのメイドとして、自分がどれだけふさわしくないかを証明する記憶だ。
(でも……。もし……)
それをすべて認めてしまっていた瑠衣には、もう、抵抗する気力は残っていなかった。
(もしも、許されるなら……。もしももう一度、マリー様に会えるなら……そのときは、ちゃんと……マリー様と絆を……マリー様に、私の本当の気持ちを……)
力なく、その場にしゃがみ込む瑠衣。そんな彼女に向かって、ついに霧状の『右手』が襲いかかってきた。




